日常の周辺

物持ちがいい男がいた。仕事上の書類であれ、どこかでたまたま手にした物であれ、何でも残していた。本来、物持ちとは長く大事に使うこと。しかし、彼は使いもせずに取って置くことのほうが多かった。ある時、習慣的に物を残しておく執着心がよくないと気づいた。執着心を消そうと一念発起し、所有するものを一つずつ順に捨てていくとスペースと余裕が生まれ、ほっとしたようだった。ほっとする? ほんとうにそうだったのだろうか。何が何でも捨てるのだという頑固な決意と物が減っていく現象とは裏腹に、化け物のような残滓ざんしの幻影が見え隠れした。


これがいいあれがいいという選択肢狭まる日々に必然を見る / 岡野勝志


ぼくの散歩道に公園はある。しかし、広場がない。ヨーロッパの都市にはそこかしこに大小様々の広場があり、教会や塔が建っている。遠目にランドマーク頼りに広場に足を踏み入れることもあれば、敷石の細い舗道を曲がると忽然と広場が現れることがある。人々が三々五々集まり、そぞろ歩きして通り過ぎ、佇んで談論するような広場は、残念ながらぼくの街にはない。公園はあるが、広場のような主役の座にはない。広場は街の中心であり象徴なのだ。そこに住まうことを決意した拠り所の一つとして存在し続ける。


「この仕事は宝くじと同じで、当たるか当たらないかわからない」と誰かが言った。正しいアナロジーではない。宝くじを比喩として持ち出すのなら、こう言うべきである。「この仕事は宝くじと同じで、当たらない」。


Xには手間暇がかかる。明けても暮れても画策しなければならない。なぜこんな面倒なことをするのか。Xは人心の疲弊を招く。人生にXをしている余裕などない。単純明快に事をおこなうのに精一杯だ。X相反する二つのシナリオを求める。シナリオは一つのほうがわかりやすい。Xには、偽善、嫉妬、保身、計略、儀礼などが代入できる。


かれこれ30年近くいろいろな勉強会を主宰してきた。勉強会後の懇親会によさそうな店を見つけるのが癖になっている。わざわざ探しに行くわけではないが、近場で通りすがりにリーフレットやショップカードをもらってくる。

パーティー・歓送迎会の予約承ってマス

「マス」などと書いてある店を予約しない。店にも入らない。これは店探しのキャリアに裏付けされた直感の成せる業である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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