紀行からのインスピレーション

台詞せりふばかりの小説は読みづらい。地の文ばかりでも退屈する。活字を追う上で状況説明は不可欠だが、ほどよい会話のやりとりがあってこそ変化が生まれる。脚本が演劇になると地の文が消える。しかし、地の文が消えても、眼前の視覚的場面が意味を与えてくれる。観客は舞台俳優の会話に集中しながらも、語られない地の文を「視覚的に」聞いている。

紀行と言えば紀行文、あるいは旅日記と相場が決まっている。ゲーテの『イタリア紀行』にならって、以前本ブログで『イタリア紀行』を54回にわたって書いたことがある。撮ってきた写真をさほど慎重に選別せずにあしらい、見た所感じたことを綴ったが、台詞はほとんどなく地の文ばかりの体裁だった。

パリ滞在記もしたためるつもりで準備を始め、サンマルタン運河【写真】から文を起こそうと思っていた。しかし、現地で交わした会話の頻度はイタリアのそれにはるかに及ばない。風景を描写し、運河の由来とエピソードを拾い、印象を記しておしまいになりそうな予感がして保留したままになっている。

最近は映像版紀行をテレビでよく観ている。映像になっても文章と大差はない。そこに地の文としてナレーションが入り込む。ナレーションの文やナレーターの声は紀行作品の質を決定づける。なくてもよさそうなナレーションが入り込んでくると、映像に凝らした工夫が台無しになることさえある。ナレーションにこれぞという表現――ちょっとメモしておこうという気になるもの――にはほとんど出合わない。印象に残るのは街に暮らす人たちの語りであり、地の生活の行間に浮かび上がる生き様である。


先日、イタリア北東部の都市トリエステの旅番組を観た。海岸と海水浴を楽しむシニアが映し出された。海水浴場は銭湯みたいに壁で男女のゾーンが仕切られている。せっかく夫婦で来たのに別々に遊泳し日光浴するのだ。女の一人が答える、「別々のほうがいい。男たちときたら、話すことはいつも三つ。サッカー、女、自慢話」。トリエステだけに限った話ではない。イタリア全土の男のステレオタイプが浮かび上がる。これをナレーションで説明してしまったら迫力不足、いや、野暮である。

別の日、『ヨーロッパ鉄道の旅』でポルトガル紀行を疑似体験した。塩田を訪ねる場面がある。働き手は言う、「ここで生まれたらこの仕事をするんだよ」。塩づくりに従事するのは他に選択の余地のないさだめ。それをさらっと言ってのける。別のシーンでは二人の婦人が頭に大量の洗濯物を載せて洗い場へと向かう。おそらくその毎朝の役目に疑義をまったく挟まずに受容している。ずいぶん昔から一般の女性はおおむねそうして生きてきた。洗い場まで出掛けて洗濯するという家事もまたさだめなのである。

運命に従う、あるいは運命をあるがままに生きるということが普通である世界と、ぼくたちのように、必ずしも世襲や土着という境遇や運命に縛られずに多様な選択の機会に恵まれる世界がある。一般的にぼくたちのほうが自由度が高いと言われるわけだが、はたしてそうなのだろうか。運命に抗って自由な選択に生きるにも覚悟が必要である。幸せになれるかもしれないが、落胆の終幕を迎える確率も大きい。世襲や土着の縛りから解放された自由は、同時に不安定という重い荷物を背負う。

遠い外国への旅から疎遠になった今日この頃、他人が旅する紀行で旅した気になっているが、リアルな旅とは異なるインスピレーションに恵まれることに気づく。バーチャル体験侮るべからず。バーチャルは「仮想の」と訳されるが、元々は「事実上の」という意味なのだから。他人の旅を間借りしていても、そこに今生きている自分が重ね合わされるのである。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です