「らしさ」の研究

便利にして曖昧極まる表現に「らしさ」がある。「この作品には彼らしさがよく出ている」とか「京都らしさを満喫した旅だった」というような使い方をする。「Xらしさ」と言うかぎりは、本人はXの特徴や性質がわかっているつもりだろう。しかも、特徴や性質が一般的だと考えているから他人に対しても「らしさ」を使う。なにげなく使う「Xらしさ」のXの特徴や性質に本人は何らかの基準を設けている。輪郭不明瞭なその基準が誰にでも通用すると思っている。

彼の最新作を鑑賞した。「この作品には彼らしさがよく出ている」と評した。評者は彼の最大公約数的な作風を知っているつもりだ。なおかつ、最新作が作風に合致していることを認知しなければならない。もし「らしさ」がなければ、評者は「作風が変わった」などと言うに違いない。ところで、「らしさ」という表現を使うからには相手に通じなければならない。相手が彼について何も知らなければピンと来ない。また、仮に彼について知っているとしても、基準が違えば相手は「いったいこの作品のどこが彼らしいんだ」と訝る。男らしさ、女らしさ、京都らしさ、春らしさ……。実は、通じているようで通じていない。うなずいても曖昧の壁を越えていない。

「らしさ」の背後には「別のらしくないもの」が想定される必要がある。「シマウマらしさ」は馬らしくなく、ラバらしくなく、ロバらしくないことを前提にしている。では、シマウマと馬とラバとロバそれぞれの「らしさ」とは何か。差異をはっきりさせるためには、それぞれの特徴や性質について知らねばならない。しかし、誰もがそんな知識を持ち合わせているはずがない。思考実験してみればすぐわかる。いくつかのサングラスを用意してみよう。そして、シマウマに似合うサングラスを一つ選んでみよう。サングラスをかけさせたシマウマを見て「シマウマらしさが出ている」と言い得るか。言い得たとしても、馬、ラバ、ロバにない、シマウマ固有のらしさであると確信が持てるか。


「自分らしさ」というのはパーソナリティだ。「自分らしく生きていく」という人がいるが、自分のことをわかって言っているとは思えない。「ぼくらしいだろ?」と言えば、誰かが「いやいや、きみらしくないよ」と返す。自画像と他者が描く像が異なっている。本人も他人もその本人のパーソナリティがわかっているわけではないのだ。つまり、彼らしさにしても京都らしさにしても、個人的な見方にほかならない。彼についての、京都についての一般的な基準など一度も申し合わせたことなどないのである。

男らしさ、女らしさのステレオタイプ。おおよそわかっているつもりでも、性向をつぶさに言い表わすのはやさしくない。男と女を二項対立させてみれば少しは属性らしきものが立ち上がってくるが、「らしさ」はどこまで行っても曖昧世界から抜け出せない。「Xらしいなあ。なぜかって? だってらしいんだもの」というトートロジーに陥るばかり。らしさに正しい・間違いはない。ただそう見える、そう感じる、そう思うという主観だ。だから、誰かに「その意見はらしくないですね」と言われても、ムキになってはいけない。

そんな曖昧な「らしさ」だが、個人的な仮想のステレオタイプのくせに一つの絶対的な基準にまで昇格することがある。東京らしい五輪や大阪らしい万博という表現には、まるで「確固とした基準」があるかのようである。プラトンのイデア論は最たる例だろう。真なるものはイデアである。イデアは見えない(あるかどうかもわからない)。実際に見えている現実は便宜上の「イデアらしさ」に過ぎない。ぼくはイデアのぼくに近づこうと「らしさ」に磨きをかける。街はイデアの街を目指して「らしさ」を醸成する。しかし、ぼくや街のイデアが何であるかは誰にもわからないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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