即座に地震とはわからなかった。飛行機が墜落したと思った(飛行機墜落時の衝撃も爆音も体験したことがないのに)。当時は大阪市の郊外に住んでいた。体験したあの揺れは震度5弱だと後で知った。自宅からオフィスのある天満橋まではJRと地下鉄で約40分。オフィスは今と同じ場所である。
激しい揺れの割には家族も家財も無事だった。それを確かめた後、震源地にもっと近いオフィスのことが気になった。午前8時か9時だったか、JRは止まっていて地下鉄は一部動いているらしかった。車も自転車も所有していなかったので、小学6年生の二男の自転車を使うことにした。「この自転車は会社に置いてくる。新しい自転車を買ってあげるから」と言ってオフィスに向かった。
平時だと自転車で1時間で行ける距離だが、ガラスの破片がすさまじく、また通勤の人たちの群れで思うように進めなかった。空いた道を探りながら走り、たぶん1時間半か2時間かかって着いた。オフィスのエレベーターは止まっていた。非常階段は、当時夜間は鍵をかけていたので、使えなかった。昼前にエレベータ―が動いた。オフィスはほとんど何事もなかった。一駅向こうの北浜の知り合いのオフィスではスチール製のキャビネットが全部倒れていたと聞いた。
先週の1月17日(金)は阪神淡路大震災から30年の日。翌土曜日、自分の体験を踏まえて回想を巡らしていたが、まるで戦場のような大火災の戦慄、焼きつくされた現場で茫然自失で立ち尽くす老女の姿が浮かび上がった。長田に行くことにした。長田で下車するのは初めて。土地勘がなく長田と新長田の距離感の違いも知らず、まったく見当もつけずに大阪メトロと阪神電車を乗り継いで高速長田駅で降りた。
長田神社に参拝して前日できなかった黙祷と鎮魂。もちろん無言だが、思いは文字にもならない。火災で焼失した商店街の再生の様子を見ようと、商店街をいくつか巡ってみた。街のビフォーは知らないが、ビフォー/アフターを想像しながら歩く。道すがら出くわすやや広めの広場や公園のことごとくが、避難のための防災スペースに見えた。
住宅地でも商店街でも焼肉・ホルモン、お好み焼き、洋食の店が目に付く。いつぞやのテレビのドキュメントで見た店には行列。並ぶ根気がないので、商店街の外れの店に入り、ぼっかけ(牛すじ・コンニャク)入りのネギたっぷりのお好み焼きを食べた。10年以上にわたって、防災・社会貢献ディベート大会に携わってきたが、ある年の大会後にぼっかけの焼きそばとお好み焼き、そばめしで打ち上げをしたのを思い出した。
土曜日の「電車で行って街歩き」の歩数は約15,000歩。もっと歩けたが、翌日曜日にも出掛けるつもりだったので欲張らなかった。
〈続く〉