語句の断章(63)らしさ/らしい

二十代の頃の職場に物静かで口数の少ない同僚Iがいた。ある日、上司とぼくが喫茶店に誘ったら付き合ってくれた。上司が当たり前のように「コーヒー3つ」とウェイトレスに告げた瞬間、「あのう、コーヒー飲まないんです」とI。紅茶と思いきや、彼が注文したのはシュガー抜きのホットミルクだった。上司が「らしい・・・ねぇ」とつぶやいた。

ホットミルクを注文したのがIらしい・・・のなら、ホットミルクの愛飲家は物静かで口数が少ないということになる。ある辞書は、らしさ・・・とは「飾らずに備えている独自性」と定義している。ホットミルクを注文するのは彼らしい・・・、コーヒーを飲まないのも彼らしい・・・、喫茶店に誘ったら断ると思ったが、付き合ってくれたのは彼らしくない・・・・・……。

上司は彼のことをあまりよく知らないのに、今しがたホットミルクを注文したことを彼らしい・・・と言った。本人の中で自分の独自性とホットミルク嗜好がつながっているはずがない。他人である上司が勝手にらしさ・・・を決めて、「ふさわしい」だの「いかにもな感」だのと評しているに過ぎない。

「職人らしい・・・職人」という言い方がある。あれは何を表現しているのか。職人らしい・・・と言えるためには職人が備える条件や資質を知らねばならない。職人がどういう人なのか知らずに「親方は職人らしい・・・職人だなあ」などとつぶやけない。「あいつらしい・・・阿漕あこぎなやり方だ」と言えるためには、あいつのことを知り尽くしている必要がある。

ここしばらく寒い日が続いた。気象予報士が「明日も冬らしい・・・冬になりそうです」と言うのを何度も聞いた。「西側に高気圧、東側に低気圧が位置する気圧配置」が冬型の典型ならば、冬らしい・・・冬とはそんな冬型の典型ということになる。しかし、例年の冬や平年並みの冬は一定ではないから、冬らしい・・・冬がどんな冬なのか、気象の素人にはよくわからない。

ナポリ生まれのイタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コ(1668-1744)は「真実なるものと作ったものは換位される」と言った。作ったものでも真実らしければ――たとえ真実という確証はなくても――ほぼ真実だと言えるかもしれない。コーヒーらしい・・・コーヒーはほぼコーヒーなのである。

旬外れてテンション下がる

何人かで集まって、別れ際に「今度また会おう」と言い合う。人によって「今度」は違う。近々ではないが、そんなに先のことでもないはず。しかし、集まった全員が誰かが音頭を取るだろうと思い、結局誰からも何も言って来ず、気づけば数年経っていて「今度の旬」も終わっている。「今度また会おう」と言い交わした時のテンションは微塵もない。

オフィスの隣りの中華そばの店がバズってからまもなく1ヵ月、その勢いが止まらない。隣りだから、待ち人がまだ少ない開店前に行こうと思えば行けるし、列が消えかけた頃に行けばいい。なのに、バズってから一度も行っていない。テンションは上がりも下がりもしない。バズった期間限定のラーメンはぼくにとって旬ではなく、したがって旬外れもない。

中華そばを目指して遠方からやって来る。休暇を取ってやって来る人もいる。12席ほどしかない小さな店に午前1115分頃から並び始め、ずっと30人くらいの人が待ち続け、午後3時過ぎくらいにようやく並ばずに入れる。わざわざ来る人にとっては今が旬。食べたい、食べ逃したくない、並んでもいい……テンションが上がりっ放しなのだ。

この冬、牡蠣料理に合わせるためにちょっといい白ワインを買った。ところが、昨年末から2月下旬に至るまで、出掛けるたびにあちこちの市場を覗いたが、いい牡蠣に出合わなかった。今の気分は「別にあの白ワインに合わせなくてもいいか」。牡蠣の本当にうまい旬は3月だからまだチャンスはあるが、1ヵ月前に比べて何が何でもという感じではない。


2024116日、激戦州で勝利したドナルド・トランプの当選が確実になった。そして今年120日に大統領就任式がおこなわれた。周知の通り、就任後から言いたい放題、したい放題である。カリフォルニア州在住の従妹とその主人は6年前に来日した時に、1期目のドナルド・トランプを猛批判し、ぼくを目の前にして大いに嘆いていた。

昨年の大統領選直後、さぞかし落ち込んでいるだろうと思って「トランプが勝ったね」とメールしたら、トランプのポスターが貼ってある部屋の写真が送られてきた。民主党バイデンを支持していた従妹ファミリーは共和党トランプに「転向」していたのである。仰天した。バイデン政権に失望し、あのドナルド・トランプに賭けたのだった。

1月中旬に『アプレンティス――ドナルド・トランプの創り方』が上映されることを知った。しかも、よく行く映画館3館での上映。これこそ今見ておくべきシネマだとテンションが上がったが、時間が取れなかった。先々週、予約しようとしたら、大阪市内の上映は終わっていた。不人気だったと思われる(それに、題名のアプレンティスが分かりづらい)。

上映の終わった映画館に代わって、大阪府では郊外の1館のみが上映している。見るなら今と思っていたのに、乗り換えなしの電車で半時間の映画館が遠い、遠すぎる。就任後の大統領令のおびただしい署名、発言の数々を見聞きしているうちに、この映画は旬ではなくなった。代わって、『実録ドナルド・トランプ劇場』のロードショーが今の旬である。

見切り品棚のバナナ

「あんた、おばあちゃんが働いているとこで、アルバイトせえへんか?」 

予備校にも行かず浪人をしていたある日、母方の祖母から電話があった。祖母は働き者で、4人の娘と2人の息子が独立し結婚した後もずっと、お金に困っていなくても働きに出たり内職をしたりしていた。その時の仕事場はバナナに特化した青果卸売の荷受け倉庫。祖母は社員のまかないを作り掃除や洗濯をしていた。

ぼくらの世代が青少年の頃、バナナはまだ高級品。そう簡単に口に入らなかったし、病院のお見舞いの定番だった。おやつにバナナが食べられる生活に憧れていた。もしかして食べさせてくれるのではないか……バイト料を聞くこともなく、二つ返事で仕事を受けた。

港から倉庫の前にひっきりなしにトラックが着く。多くがフィリピンとエクアドルのバナナで、小量だが小ぶりな台湾バナナもあった。すべてのバナナが「青い」(正確には「緑っぽい」)。バナナは黄色だと思っていたから、最初は驚いた。バナナは未成熟の青いままで収穫され、貨物船の中で熟成がやや進み、青果卸の倉庫で黄色くなって小売店に出荷される。

バナナが房ごと入ったずっしりと重いケースを低温の倉庫に運び入れる。先に熟成が進んだバナナを取り出しやすいように配置を指示された。テキパキしないと、作業時間が長引いて身体が冷える。食べ放題ではないが、見た目傷んでいるのは食べてもいいと言われていた。傷んでいないのに、甘くておいしそうな台湾バナナを時々つまみ食いした。毎日10本は食べていたと思う。



スーパーの見切り品の棚に季節の果物や野菜が置かれる。そのスーパーでは「おつとめ品」と呼ぶ。桃や柿や梨は旬の時だけ並ぶが、バナナは見切り品棚で一年中常連だ。バナナを見るたびに、将来を案じながらもバナナにありつけていたあの頃を思い出す。

スーパーに買物に来た客は、少々ワケありだが、賞味も消費にも問題ない商品を安く買える。店は、食品ロスを減らし、仕入れコストを回収して何とか赤字にならずに済む。あの見切り品棚は「三方よし」の理念に適っている。熟成を過ぎて黒ずみ始めたバナナが理念の象徴だ。

見切られたバナナ。ちょうどあの感じのバナナを低温倉庫の中で食べていた。見切り品とかワケアリなどと思ったことは一度もない。アルバイト時代と違って、バナナは安価な果物になった。しかし、わが若かりし頃の記憶のバナナは今もなお高級品であり続けている。傷まなくても少々傷んでも、バナナは偉ぶらずに人に寄り添ってくれている。

街中の崖っぷちを歩く

特定の駅周辺の史跡を巡る『まちさんぽ』というリーフレットがある。Osaka Metroが毎月1発行しているのを一昨年知った。昨年7月に「谷町線/野江内代のえうちんだい駅」周辺のコースを歩き、今回は「谷町線/阿倍野あべの駅」のリーフレットを参考に歩くことにした。

今回は阿倍野駅周辺巡りではなく、そこをスタート駅としてゴール駅「堺筋線/天下茶屋てんがちゃや駅」を目指すコース設定になっている。阿倍野駅周辺はよく知る場所なので、そこからスタートしても新鮮味がない。と言うわけで、Osaka Metroの企画意図に反して、天下茶屋からスタートすることにした。7カ所の見どころを逆に歩いた次第。

天下茶屋は堺筋線の終点。駅から東へ歩き紀州街道を渡る。街道と言われてみれば、昔はそうだったのかと思えなくはない。以前一度来たことのある聖天山しょうてんやま公園から正圓寺しょうえんじへ。敷地内に廃墟のようなコンクリート建造物があって、寺は殺風景だ。山門そばに兼好法師の隠棲庵いんせいあん址碑しひがあり、すぐ近くを松虫通りが走る。

このあたりは阿倍野区。上町台地の最西端の崖のへりで標高20メートル(ちなみに台地の最北端に位置する大阪城の標高は32メートル)。へりの西側は西成区で土地は15メートルほど低い。

上町台地の最北端の大阪城から左手のあたりがわがオフィス。難波宮跡の左手、台地のへりのあたりが自宅。黒い「が今回歩いたルート。
階段になっているが、感覚的にはほぼ垂直の崖である。

道路のすぐ下が崖で階段が設けられている。慣れていなければ、この階段の上り下りは容易ではなさそうだ。危険区域と言っても過言ではない。歩いた範囲にはこのような階段が3本あった。

上町台地の一画の住民なので、大阪城はもちろんのこと、南方面の四天王寺やあべのハルカスあたりまでなら歩くことも稀ではない。メトロで行って歩いて帰るか、歩いて行ってシティバスで帰ることが多い。今回は、頭で理解している上町台地を初めて体感した街歩きだったかもしれない。

長州藩志士の墓、五代友厚の墓を横目に歩き、昭和ノスタルジーの象徴的な商業施設「あべのベルタ」前に出る。昨秋だったか、SNSでこの建物の地下に老夫婦が営む寿司屋があると知った。10席ほどしかない店なのに、幸いにして席に座れた。シャリが多めの懐かしのにぎり寿司だった。800円代とは今もさすがのアベノ料金である。店を出たら、待ち人が10人弱いた。

フェイクニュースは駆け巡る

いきなりだが、以前書き記していた真実と虚偽にまつわる諺や格言を引用する(どこの国の諺か、誰が言った格言かわかっているが、ここでは省略する)。

🖋 嘘が嘘を生む。
🖋 上手に話すコツは嘘のつき方を知ることだ。
🖋 嘘は花を咲かせるが、実はつかない。
🖋 真実と薔薇の花には棘がある。
🖋 真実は真実らしく見えない時がある。
🖋 人間は真実に対しては氷、虚偽に対しては火である。

最後の諺の氷は「冷たい態度」の比喩であり、火は「心を躍らせて熱狂する様子」をイメージさせる。この諺を思い出したのは、『サピエンス全史』の著者、ユヴァル・ノア・ハラリの「なぜフェイクは広がるか?」というテーマの話をNHK/Web版で読んだ時だ。

「真実はしばしば苦痛を伴います。自分自身、あるいは自国について、知りたくないこともたくさんあります。それに対してフィクションは、好きなように心地よいものに作ることができます。つまり、コストがかかり、複雑で苦痛を伴う真実と、安上がりで単純で心地よいフィクションとの競争では、フィクションが勝つ傾向にあるのです」

本などめったに読めなかった時代、情報はのろまだった。しかし、15世紀の活版印刷の技術が情報を拡散させるようになる。とりわけ偽情報の足は速かった。このメディアと情報拡散の関係が、現在のSNSとフェイクニュースにぴったり当てはまる。事実を調べ上げて原稿を書き、本として発行して販売するにはコストと労力を要する。一方、ほとんどのSNSは無料で利用でき、真偽を曖昧にしたままでとりあえず発信できる。真実が真実らしく見えない時があるのと同程度に、フェイクがフェイクらしく見えない時があっても不思議ではない。

本ブログ記事では極力、固有名詞を書くようにしているし、抜き書きや引用に際しては出典を記すようにしている。冒頭で諺と名言の出典を敢えて書かなかったが、SNS時代では出典が記されていると面倒臭く感じる向きもあるようだ。ちなみに、冒頭の「上手に話すコツは嘘のつき方を知ることだ」というのは『痴愚神礼讃』のエラスムスのことば。論文であるまいし、誰が書いたかなどはどうでもいい、仮に知らせてもらってもエラスムスを知らなかったら、匿名と同じことだ……などと言う人もいるかもしれない。

しかし、いつの時代のどこの国の誰という情報を明示しなかったら、真実と照合する意味はなくなる。付帯情報のない引用文は、適当に脚色したりまったく一から創作したりするのと同じことになる。創作にはフィクションの要素があり、仮に悪意がなかったとしても、フェイクと批判されてもやむをえない。

SNSでは、公園の実名や鳥の固有名詞を書くよりも、匿名的に「とある公園で七色の怪鳥を目撃した」という真偽不明の一文が、真実にはないインパクトをもたらす。昨秋の米大統領選当時、「移民が猫を食べている」という動画はあっと言う間に2,700万回再生された。「移民がペットを飼っている」という平凡な情報に大衆は関心を示さないだろう。

語句の断章(62)蒼穹

蒼穹。読みは「そうきゅう」。蒼は「青い」で、穹が「弓のかたち」。合わせれば、弓形の青い大空。広い青空の意だから、わざわざ蒼穹などと難しい漢語的表現をひねらなくてもいいような気がするが、青空では物足りない文脈があるのだろう(たとえば、浅田次郎の『蒼穹の昴』)。

蒼穹にはいくつかの類義語がある。

晴れた空の意である「青空」。空を天井に見立てた「青天井」。晴れわたる様子の「青天」、そこに雷が轟けば「青天の霹靂へきれき」。一片の雲もない様子で、特に青緑に見えるのが「碧空へきくう」。深い青色になると「蒼空そうくう」。遠い場所の空をイメージさせるのが「碧落へきらく」。どの語にも青くて、晴れていて、大きいという共通の意味があるが、ニュアンスの違いを執拗に求めていくと、類語表現が増えていく。

蒼穹は稀に「天球」という意味でも使われる。そして、どういう経緯か理由か知らないが、天球としての蒼穹(つまり地球)は、あのギリシア神話の神であるアトラスが支えていることになっている。この巨躯の神は地球を後頭部に置いて両腕で持ち上げている。

当然、アトラスは宇宙空間のどこかに立っているはずだ。どの彫刻や絵画でもアトラスは立つか膝を立てて脚で踏ん張っている。踏ん張るためにはどこかに乗っかる必要がある。「アトラスは何に乗っているのか?」と聞かれたら、亀の背中に乗っていると言う。では、その亀は何の上に乗っているのか? 別の亀の上だ。こうして、亀の下に亀、そのまた下に亀……という無限後退の図が描かれる。巨神のアトラスを乗せる亀もガメラ級の巨体のはずである。

蒼穹という表現と「そうきゅう」という発音がなぜ求められるのか。それは、青空のアトラスや地球のアトラスよりも、蒼穹のアトラスのほうが物語性に優れ、想像を刺激するからである。

立春過ぎてまだ春遠し、二字熟語遊び

根性 こんじょう 性根  しょうこん

(例文)太郎は根性わっていて、一つのことをやり遂げようとする性根もある。一方、次郎は性根がなく飽き性。一人前になるためには根性を叩き直さないといけない。

根性とは態度・考え方・行動の根本となる性質である。根性が良いとか悪いという言い方はしない。根性は、あるかないか、または、まっすぐかひねくれているかが問われる。性根は「しょうこん」と読むとおおむね根気の意味になり、「しょうね」と読むとほぼ根性の意味になる。

関税 かんぜい 税関  ぜいかん

(例文)関税脅しは米大統領の切り札トランプの一つだが、実は不法入国や密輸対策として税関がもう一つの課題になっている。

カナダとメキシコの関税を25%に引き上げだ、中国は10%の追加関税だと、粗っぽく、いとも簡単に関税率を変える。米国への輸入品に課される税金を上げれば、国内産業が保護でき、関税は国の収入となって国庫の財源が確保できるという目論見。もちろん対抗措置の覚悟はいる。

港や空港で関税の賦課と徴収をおこない、貨物の取り締まりにあたるのが税関。国内に持ち込まれる物品の申告を受け検査をするが、外国からの入国者のテロや密輸などの犯罪の兆候をつかむ。関税と、字順を逆にした税関。これら二字熟語は、今やあの大統領の駆け引きの常套手段になった。

 読解  どっかい 解読  かいどく

(例文)「どうだ、文章は解読できたか?」「今、辞書を引いて読解しているところです」「読解? 違う、違う。きみの任務は解読だぞ!」

読解は文章を読んで、その意味を正しく理解すること。対して、解読は分かりづらい文章や記号を正確に読み解くこと。解読はある種の「深読み」であり「裏読み」である。文字面に現れない隠れた独自の文法と意味を探り出そうとする。中高生時代、国語の授業で求められたのは読解力であり、暗号解読ではなかった。

文章の<読解>
暗号の<解読>

〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても別の熟語ができる熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。