来客、共食、雑談

事務所にふいの来客があれば「お久しぶり」と挨拶を交わし、昼前なら「ご飯でもいかが?」と尋ねて食事処へ。そして食事しながら雑談に興じる。知り合いだからであり、何がしかの「付き合い」のある人だからこその自然な流れである。見ず知らずの人とはそうはならない。

ところで、付き合いとは交際のことだ。ある辞書には「会えば話を交わしたり、機会があれば飲食を共にしたりするなどの親しい関係を持つこと」と書いてある。「親しい関係」とは悩ましい言い回しだが、あまり親しくない人でも「遠方よりやって来たご無沙汰の人」なら、ランチをご一緒して近況を語り合うこともある。

同じ辞書の付き合いの二番目には「心からの衝動に基づくのではなく、社交上の立場から行動を共にすること」とある。何らかの縁や義理ゆえに応対し、特に話したいこともないがやむをえず食事を囲むというような付き合いだ。こんな付き合いをやめて久しい。

仕事の締め切りが迫っていたり先約がある場合には、ふいの来客には丁重にそう伝えて「またの機会にぜひ」と添える。親しい人にそう言って見送ることも少なくない。他方、さほど親しくない人なのに、時間にゆとりがあって少々懐かしさも覚えたら食事に誘うこともある。都合の良し悪しは付き合いの親密度以上に重要になる。

と言うわけで、アポ無しの来客でも、当方の都合がよければ昼食にお連れする。しかし、そうするのは昼食だけで、アポ無しで夕食は共にしない。行き当たりばったりで夜の飲食はしないことにしている。夜が外食ばかりになると、オフィス周辺だと店の選択肢が狭まり、出費もかさむ。付き合いのある人との晩餐の宴なら、少なくとも半月前に予定を立てる。

こっちの都合が悪い時ばかりに訪ねて来る人がいる。出張で不在の時や、先客との面談中や、急ぎの仕事の真っ最中にやって来る。「今度は前もって教えてください」とは言いにくい。なぜなら、アポを取るほどの用事があるわけではなく、たまたま近くに来たから訪ねて来る人だからだ。

先日も訪ねてきた。しかし、仕事が一段落した翌日で、余裕があったから早めのランチに出掛けた後だった。そのランチ処は、一人ではめったに行かない、ふいの来客をよくお連れする店。早く入店したので空いていて、眺めのいい席に座らせてくれた。共食もいいが、気を遣わない一人ご飯はもっといい。

 

 

抜き書き録〈テーマ:調味〉

「調味」というテーマの本を読んだわけではない。仕事の合間に年明けからエッセイ集や詩歌集や軽いプチ哲学を読み、いつものように抜き書きしていたら、調味でつながった次第。


📖 『こんがりパン おいしい文藝ぶんげい

幸福そのものだ、と思う食べ物に、フレンチトーストがある。ミルクと卵にひたしたパンを、バターをとかしたフライパンで焦げバター色に焼き、焼きたてに砂糖をふって食べる。熱くて、ふわっとしていて、ところどころ香ばしく、心から甘い。
(「フレンチトースト」江國香織)

幸福そのものとまでは思わないが、たまに衝動的に作って食べる自家製のフレンチトーストはおいしい。著者が言う通り、香ばしくて甘いというおいしさだ。父はモーニングのトーストにグラニュー糖をまんべんなく上手にまぶして食べていた。甘いものを敬遠する人でもフレンチトーストだけはおいしいと思うはずである。

📖 『ベスト・エッセイ2016

居酒屋での会話。店員「焼き鳥はタレと塩とどちらになさいますか?」 友人A「…」、友人B「…」、私「…、じゃ、塩で」、友人AB「塩で」。白状すれば、タレのほうが美味おいしいと私は思っている。けれども、店員にたずねられて即座に元気よく「タレ!」と返答するのが何となく気恥ずかしい。
(「タレと塩」松木武彦)

30代の頃によく通った焼き鳥店の店主も「皮はタレですか、塩ですか?」といちいち聞いてきた。しかし、もし一択なら焼き鳥はすべて、塩ではなく、タレがいい。最近、焼肉でも塩が通みたいになってしまったが、断然タレのほうがおいしい。肉に合うタレを調味してこそ焼肉店の面目躍如ではないか。何よりもタレで食べる焼肉はライスに合う。

📖 『尾崎放哉句集』

煮凝や彷彿として物の味

暖かき灯にかざす新海苔の青さ

一つ目の句は五七五時代、二つ目は自由律以後の句。一句目の「煮凝にこごり」は視覚的で、ありありと想像するほどに固形物が視覚から味覚に変わる。にこごりはあまり強い匂いを放たないが、味はしっかりしている。
味付け海苔をよく食べた時期があった。しかし、新鮮な海苔なら醤油も甘みもいらない。先日アンコウ鍋の〆を
雑炊にしたが、塩で味を調ととのえずに、海苔を小さく割いて添えた。海苔の調味のワザは見事だった。

生卵こつくり呑んだ

これも放哉の句だが、生卵を割ってそのまま呑むなら余計な味付けはいらない。卵そのものがすでに味を調えてくれている。

電車で行って街歩き㊦

「電車で行って街歩き」と遊び心で検索したらGoogleAIは次のような情報を瞬時に提示した。

電車で行って街歩きするには、絶景の路線や駅チカの観光スポットを利用するとよいでしょう。
絶景の路線: 三陸鉄道リアス線、只見線、篠ノ井線、小海線、山陰本線、 肥薩線。
駅チカの観光スポット:
新大久保コリアンタウン、 横浜中華街。

絶景と駅チカに絞った感覚が独特。しかも、絶景の例が偏っているし、駅チカの観光スポットが2例とはさびしい。AIこの種のテーマにはあまり精通していないような気がする。

閑話休題――。電車で行って街歩きの『㊤編で先週土曜日に行った神戸市長田区を書いた。今日は㊦編。その翌日に訪れた大阪市港区・此花区・西区に電車で行って歩いた。この方面には自宅近くからメトロの2路線が伸びていて、どちらの路線でも15分以内で着く。

メトロの中央線に乗る。「次は弁天町~」という車掌のアナウンスを聞いて条件反射的に下車。ここは港区。大学時代、親戚の家で家庭教師をしていた。懐かしい。JR環状線に乗り換えて一駅向こうの西九条駅へ。ここでJRゆめ咲線に乗り換えてユニバーサルシティ駅へ。ユニバーサルスタジオジャパンUSJ)には2001年のプレオープンに招待された。残念ながら出張と重なっていたので断念。その後は縁もなく、一度も入場を果たしていない。

入場する気も予定もなく、隣接するユニバーサルシティ・ウォークの雰囲気だけ見るつもりだった。腹ごしらえは、ここらしいアメリカンなランチではなく、貴重なキャベツが食べ放題できるトンカツ定食を指名。食後はUSJの入場口付近で場内の様子を窺う。離れた所から紙芝居をただ見・・・する子どものような気分になる。群衆の中をさまよう気にはなれないし、たぶん半日も粘れない。頻繁に走るジェットコースターを見ているだけで時間が過ぎた。

昼食前はあまり歩いていない。西九条駅に戻り、そこから京セラドームまで歩くことにした。安治川トンネルの地上エレベーター前に出る。ここも懐かしい。安治川の河底を横断する歩道があり、此花区の西九条と西区の九条を結んでいる。昭和19年の開通と知って驚く。

エレベータ―で河底に下り、80メートルの歩道を進んでエレベーターで地上へ。わずか3分ほど。ここから京セラドームまでずっと西区で、あまりなじみのないエリア。京セラドーム近くのモールでコーヒーを飲む。ワインの品定めもしたが、買うのは見送る。帰路はメトロの長堀鶴見緑地線で乗り換えなし。たいして歩いた印象はないが、京セラドーム周辺とモール内の歩数が多かったせいか、13,000歩超えだった。

電車で行って街歩き㊤

即座に地震とはわからなかった。飛行機が墜落したと思った(飛行機墜落時の衝撃も爆音も体験したことがないのに)。当時は大阪市の郊外に住んでいた。体験したあの揺れは震度5弱だと後で知った。自宅からオフィスのある天満橋まではJRと地下鉄で約40分。オフィスは今と同じ場所である。

激しい揺れの割には家族も家財も無事だった。それを確かめた後、震源地にもっと近いオフィスのことが気になった。午前8時か9時だったか、JRは止まっていて地下鉄は一部動いているらしかった。車も自転車も所有していなかったので、小学6年生の二男の自転車を使うことにした。「この自転車は会社に置いてくる。新しい自転車を買ってあげるから」と言ってオフィスに向かった。

平時だと自転車で1時間で行ける距離だが、ガラスの破片がすさまじく、また通勤の人たちの群れで思うように進めなかった。空いた道を探りながら走り、たぶん1時間半か2時間かかって着いた。オフィスのエレベーターは止まっていた。非常階段は、当時夜間は鍵をかけていたので、使えなかった。昼前にエレベータ―が動いた。オフィスはほとんど何事もなかった。一駅向こうの北浜の知り合いのオフィスではスチール製のキャビネットが全部倒れていたと聞いた。


先週の1月17日(金)は阪神淡路大震災から30年の日。翌土曜日、自分の体験を踏まえて回想を巡らしていたが、まるで戦場のような大火災の戦慄、焼きつくされた現場で茫然自失で立ち尽くす老女の姿が浮かび上がった。長田に行くことにした。長田で下車するのは初めて。土地勘がなく長田と新長田の距離感の違いも知らず、まったく見当もつけずに大阪メトロと阪神電車を乗り継いで高速長田駅で降りた。

長田神社に参拝して前日できなかった黙祷と鎮魂。もちろん無言だが、思いは文字にもならない。火災で焼失した商店街の再生の様子を見ようと、商店街をいくつか巡ってみた。街のビフォーは知らないが、ビフォー/アフターを想像しながら歩く。道すがら出くわすやや広めの広場や公園のことごとくが、避難のための防災スペースに見えた。

住宅地でも商店街でも焼肉・ホルモン、お好み焼き、洋食の店が目に付く。いつぞやのテレビのドキュメントで見た店には行列。並ぶ根気がないので、商店街の外れの店に入り、ぼっかけ(牛すじ・コンニャク)入りのネギたっぷりのお好み焼きを食べた。10年以上にわたって、防災・社会貢献ディベート大会に携わってきたが、ある年の大会後にぼっかけの焼きそばとお好み焼き、そばめしで打ち上げをしたのを思い出した。

土曜日の「電車で行って街歩き」の歩数は約15,000歩。もっと歩けたが、翌日曜日にも出掛けるつもりだったので欲張らなかった。

〈続く〉

語句の断章(61)表と裏、裏と表

ほとんどの人に表と裏があり、二つ以上の顔があるものだ。二面性は心理と行動と言語に現れる。裏と表があるのは人間の防衛本能か……強ければ表一つで生きていけるが、弱いからこそ裏が必要……というような小難しい話は見送って、「表と裏」と「裏と表」は同じ意味なのか、もしそうでないのなら何が違うのかを考えてみたい。

これまで辞書で「うら」を調べたことはない。手元の新明解国語辞典で初めて引いた。「表(正面)と反対になる側(面)」とあり、「紙の裏」という例が挙がっている。では、「おもて」の意味は? まさか裏の反対ではないだろうと思いつつも嫌な予感もした。「対蹠的たいしょてきな二つの面のうち、その物を代表する面」という語釈を見て、少しほっとした。

表裏  「おもてうら」と読む。言動や態度は表に出て、それとはまったく相反する内心は裏に秘める。表裏と書いてあったら「ひょうり」とも読むが、「おもてうら」と同じ意味である。「表裏のない人」とは、他人がいようがいまいが、状況や立場がどうであろうとも、考えも行動も変わらない人である。

裏表  「うらおもて」と読む。表よりも裏を先に言うのだから、意味またはニュアンスが変わるはず。辞典には「表と裏が通常とは反対の状態」と書いてある。つまり、本当は裏なのに表のように扱うこと。裏返っているシャツを通常の表だと思って着たら裏表だった、というケース。「表裏のある・・人」よりも「表裏のない・・人」のほうがしっくりくる。他方、「裏表のない・・人」よりも「裏表のある・・人」のほうがしっくりくる。

ところで、造幣局で作っている硬貨には公式の表も裏もなく、作業時に年号の入っている面を便宜上「裏」と呼ぶらしい。必然、草木の図案が描かれている面が「表」になる。「硬貨には表と裏がある」と言っても怪しまないし、「へぇ」と驚くこともないが、人に表と裏を使うと途端に意味深になる。

「表と裏」と「裏と表」は同じ意味でも使われるが、「物の表面と裏面」の区別をするだけなら原則として前者でよく、表と裏は対等である。他方、「裏と表」は、単なる裏面と表面の区別にとどまらず、比喩的に人とその生き方に言及する。そして、この時の裏は主役に躍り出て、人の関心を引き寄せる。脇役の表は裏に随う。

休日の午後の心変わり

ミシェル・ビュトールに『心変わり』という作品がある。ローマ在住の愛人に会うために列車に乗り込んだ主人公。パリで同棲しようという話をするためだったが、長い時間を車中で過ごし、記憶をまさぐるうちに決意が変わる……。

人間誰しも心変わりはするものだが、ぼくの場合は人間関係とは無縁の軽い心変わり。どちらかと言えば、たわいもない気まぐれに近い。

職住近接してからちょうど20年になる。自宅からオフィスまで1.2キロメートル、徒歩で123分。主な経路は3つ。家を出たらオフィスに向かうし、オフィスを出たら家に帰る。たまに往路ではドラッグストア、復路ではパン屋に寄る。それ以外に寄り道することはほとんどなく、心変わりも起きない。起こるとすれば、休日の午後の小さな心変わりだけだ。直近では先日の日曜日がそんな日だった

正午前に自宅を出て大阪梅田まで歩くことにした。途中商店街でランチを挟んだので2時間弱かかったが、どこにも寄らなければ45分で行ける。人混みは苦手だが、梅田に行くと決心した時点で覚悟はできている。学生時代から見慣れたホテルや阪急三番街とその周辺。まもなく再開発に入る。計画から完成まで10年かかると聞いた。

人をかき分けながら歩くので思い通りに進まない。シティバスに乗って帰ることにした。JR大阪駅前発の路線62の住吉車庫行きに乗り、難波宮跡公園近くで下りる。所要24分。よく利用する。いったんそこに並んだが、すぐ隣の路線88が目に入った。天保山行きである。並んでいた路線62の列から離れ、まったく違う方向に行くバスに乗り込む。「テンポウザン」という懐かしの響きが気まぐれを起こした。

JR大阪駅前から天保山まで途中の停留所は31もあり、46分かかった。観光名所の海遊館に入るわけでもなく、観覧車に乗るわけでもなく、周辺を歩くでもなく……。マーケットプレイスでコーヒーを注文し、コーヒーだけでは物足りないのでドーナツを合わせる。デッキに出てみた。

大阪港に来たのは久しぶりだ。反対側を向くと、まだ午後4時なのに、逆光が夕暮れを演出していた。

帰りは最寄のメトロ駅から自宅最寄駅まで乗り換えなし。大阪市は狭くて高密度、そして便利だ。自宅を出てからわずか4時間半の周遊なのに、ちょっとした心変わりのお陰でどこか遠くへ行ってきたような気分に浸れたのである。

違和感を覚える……

❓‽ 16日が仕事始め。すでに5日が過ぎようとしている。大晦日から数えると10日経つ。日が経つのが早い。早過ぎる。二十歳の時の1年は人生の20分の1だが、たとえば還暦の時の1年は60分の1になる。歳を取るにつれて1年の比率が小さくなる。年末年始や夏期の休暇中ほど〈ジャネの法則〉は際立つ。たまに日の経つのをスローモーションのようにゆっくり感じることがあるが、遅過ぎて強い違和感を覚える。

❓ いつも使っているスプレー式のヘアートニック。ドラッグストアで手に取ると何だかいつものサイズより小さく感じた。商品名もラベルも同じ。他に荷物があったので、小さく感じたのは錯覚のせいだと思った。自宅にあるのを確かめてみたら内容量は280グラムだった。買ったのは180グラム。そうか、やっぱり一回り小さかったか。しかし、がっかりするどころか、ドラッグストアで覚えた違和感の正しさを誇らしく思った。

❓ その店は「インド・ネパール料理」ではなく、「ネパール・インド料理」であり、そのことにこだわりがあるようだ。普段はあまり混まない土日に利用するが、初めて平日に行ってみた。午前11時半なのにほぼ満員状態だ。幸いテーブルが一つ空いていた。早めにランチに出た自分のことを棚に上げて、すでにネパール・インド料理をがっついている客に強い違和感を覚えたのである。

❓‽ ここ34年は髪を割と短くして軽く刈り上げていたが、昨年1124日にカットしてから伸ばしていた。髪質はくせ毛で、耳に少しかぶさる長さになるとウェーブが出てくる。グレーヘアーにはそのほうがいいと約2名に言われて、久しぶりに伸ばしてみようと思ったのである。昨日、1ヵ月半ぶりに理髪店に行った。「髪を少し伸ばそうと思っている。今日は毛先だけをそろえて、厚みのあるサイドとバックはいてほしい」と告げた。すっきりと仕上げてくれたが、イメージとの差があって、違和感は今日もまだ続いている。

年末年始の「マイ風物詩」

冬の風物詩を思い起こそうとしたら、枚挙にいとまがなくて困り果てる。冬の二十四節気は立冬に始まり、小雪、大雪、冬至、小寒を経て大寒に至る。この時期特有の現象や歳時や文化や味覚は尽きない。しかし、冬を年末年始に限定すれば絞りやすい。慣習的に1229日から13日の時期が年末年始とされるので、それに従えばお歳暮、クリスマス、七草粥、成人式は年末年始の風物詩から外れる。

6日間に絞ってもまだ候補はいくらでもある。そこで、世間一般の風物詩の中から自分が見たり経験したりしてきた、いわゆる「マイ風物詩」に絞ることにした。そうすると、縁のない雪、雪合戦、かまくら、つららが消え、あまり興味のない箱根駅伝が消え、故郷がないので帰省が消え、買ったのが一度だけの福袋が消えた。子ども時代には風物詩だったが今はそ、火鉢、みかんが落選。逆に、子ども時代にはなかったイルミネーションや貼るカイロや忘年会は候補から漏れた。

以上のようにフィルターをかけた結果、年末年始の「マイ風物詩ベスト10」はおおむね月並なリストになった。無理もない。風物詩は一人の人生の始まりから終わりまで続いて記憶に残って思い起こされるものだから、極端にリベラルなものは除外されるのである。


餅つき  餅つきとの付き合いは長い。昔は、もち米を持参して餅をついてもらう「賃餅ちんもち」(関西では「ちんつき屋」)だった。やがて親たちは杵と臼を米屋で借り、もち米を持ち寄って町内でついていた。その習慣がなくなってからは父が電動餅つき機を購入して餅づくりに励んでいた。わが家にも最新鋭のが一台ある。

年賀状  小学生の頃から続けてきた年賀状。創業してからも36年間続けてきたが、昨年を最後にピリオドを打った。メールやSNSのやりとりができるようになった今、年賀状の存在が薄まったのもやむをえない。これを機に、普段の手紙と葉書の出番を増やしたいと思う。

干し柿  柿は秋の風物詩かもしれないが、季節が冬になれば干し柿である。旬の時はそのまま食べるが、寒くなると干し柿をいただく。干し柿は甘いが、これを冬の風物詩として選んだのは、我ながら渋い・・と自負している。

大掃除  毎年百円ショップで新しい掃除具やシートの類を買ってくる。大掃除を真剣勝負と考えている。特に窓と網戸とベランダは入念にキレイにする。大掃除や整理整頓をするたびに、自分の気分もついでにリセットしているのだと感じる。

大晦日  正月よりも大晦日のほうがワクワクする。除夜の鐘、午前零時までのカウントダウン、おせちのフライングつまみ……。時の流れの中で、この日ほど節目を強く感じる日は他にない。昨年の大晦日は初めてジルベスターコンサートに出掛けた。ワクワクした。

正月/初詣  いろいろな風物詩が正月に集中する。おみくじは数年前に引くのをやめた。今では、元旦のいの一番は雑煮ではなく、初詣である。散歩にちょうどよい距離に真言宗の寺院がある。護摩祈祷ごまきとうの儀に一礼をして、長居はしない。「こちらお接待です」と、日本酒1本を持ち帰らせてくれる。それが初春のお神酒になる。

雑煮/おせち  初詣から帰宅すると、寺院の御神酒おみきをいただき雑煮とおせちを食べる。餅はマシーンによる自家製。おせちは自前のものもあるが、プロ仕様のおせちを知り合いが差し入れてくれる。なお、祝箸は小さなアイテムだが、冬の風物詩には欠かせない。

お年玉  もらうのが楽しみだったお年玉が、子どもや孫らにあげる楽しみに変わってくる。核家族化が著しいので、親族らと直接会う機会が激減した。会って渡せないので、何度か書留でお年玉を送ったことがある。早晩、お年玉は振込になるかもしれない。

書き初め  別名「初硯はつすずり」。文字通り硯を取り出して、数十年間断続的に書いている。今年の12日は出掛けていたので失念した。例年は年末に文字を考えるのだが、それも失念していた。遅くなっても書けばいいが、まだいい文案が浮かばない。

鍋料理  おせちが終わると、ラーメンやカレーやハンバーガーを食べたくなる若者たち。ぼくはと言えば、鍋料理を好む。親と暮らしていた頃の正月の三日目あたりに母が鶏の水炊きを作っていた。そのせいか、牡蠣や鮟鱇の鍋、鰤しゃぶなどの冬の食材を使った鍋料理は今も定番になっている。


総じて言えば、冬の風物詩の主役は正月がらみになる。但し、正月がらみなのに、羽子板、凧揚たこあげ、コマ回し、門松、しめ縄、鏡餅の存在はかなり薄くなってしまった。マイ風物詩を編んでいるうちに、年末年始の自分史が綴られていくのに気づく。

ブログ ‟Okano Note”、カウントダウン

年末恒例の年賀状を書かなかった。そして、どなたにも伝えないまま年賀状じまいをした。これまた恒例にしていた12日の初硯を失念し、書き初めをしていない。新年明けてからの街歩きには熱心だったが、ノートには一度も文章を綴っていない。今日がノートの書き始めであり、ブログ始めである。

書くことを意識し始めたのは十代の終わり頃。最初は日記から始めたが、日記は私小説っぽくなるばかりで、自己満足に陥るような気がした。読むだけでは理解と知識の限界があるし、日記ではその限界を破れない。そう感じた20歳過ぎ、短い雑文でもいいから〈テーマ〉を決めて書くことにした。

無職時代の28歳の時、時間に余裕があったので、読んだ本からマメに抜き書きをするようになった。抜き書きからのインスピレーションを綴り、同時に、体験や観察を通じて思うところをしたためた。大学ノートから革製の手帳に替えて、書く頻度を上げたのが30代半ば。広告や研修テキストやコラムなど仕事でもおびただしい文章を書いていたが、仕事を意識しない文章もおびただしく書いた。ノートと革の手帳を何度か行ったり来たりしたが、黒の革の手帳に落ち着き、Okano Noteオカノノートと名付けて現在に至る。

手帳版”Okano Note”にラフに書いたものから、テーマや話題を選んで書き直した文章をブログ版”Okano Note”で公開することにした。公開したブログ第1号は200865日だった。わが国でブログが広がり始めた45年後のこと。あの時から16年半経った2024年末現在、公開したブログ記事は1,953件に達した。月平均にして10回弱というペースである。

ここ数年間のリズムは月に78回。この調子で行けば今年の6月に2,000回に到達できそうだ。数字にこだわってはいないが、研修・講演は6年前2,000回を超えた。所要した歳月は35年。その数字を、ペンが重い時やキーボードを叩けない時の励みにしている。研修・講演の第一線からは身を引いた。ブログは私的な習慣なので、頭がもたついたり書くのが億劫になったりしないかぎり、2,000回を通過してからも続けていきたいと思っている。