言論について (1) プロローグ

『言論の手法』と題してテキストを書き、それを元に塾生に講話したことがある。七年ぶりに読み返す機会があり、また別の人たちからいくつか質問が寄せられたりしたので、その後の考察も踏まえて加筆することにした。9回のシリーズになると思う。


「言論」の話であって「思考」の話ではない。しかし、両者の違いは微妙だ。重なり合う要素が少なくなく、これが言論、あれが思考というふうに線引きしづらい。ただ、言論は思考につながっていることは間違いない。極論を恐れずに、とりあえず〈言論⊇思考〉と捉えておく。なぜなら、思考できているかどうかは言論によってはじめて確認できるからである。たとえば、計画を練ったり企画を立てたりしているとする。話しことばも文字の手掛かりもない沈思黙考という状況にある時、ぼくたちは「いま考えている」と実感し確信することはできない。頭の中をよぎるアイデアや構想や概念は曖昧で漠然としており、鮮明に言語化されることは珍しい。

もっとも、ことばが不在であるとしても、イメージらしきものが浮かんでは消えるので、思考がまったくの停止状態に陥っているとは言えない。しかし、その状態は澄み切った晴天からはほど遠く、どんよりとした曇り空のように朦朧としている。そこで、イメージを手掛かりにして「考えているつもりのこと」を誰かに話してみる。あるいは、手元にあるノートにそれを書いてみる。するとどうだろう、晴れ間が少しずつ広がり光が射し込んできて、イメージがことばに変わってくる。その時はじめて、「あ、こういうことを考えていたのか」と確認できる。ここで言論が立ち上がる。言論という回路を通じて、漠然とした思いが明快に顕在化し意識できるようになるのである。

コミュニケーション

古来、言論は〈命題〉を想定してきた。命題という用語が取っ付きにくいならテーマと言い換えてもいい。ある種の意見や結論をあらかじめ内蔵したテーマ、それが命題。〈弁論レートリケー〉であれ〈弁証・対話ディアレクティケー〉であれ、命題をめぐる言論は聴衆や他者に向けておこなわれる。つまり、コミュニケーション行動だ。したがって、言論の技術は、説得、ひいては説得の要素である立証、論拠、推論、比喩を磨くことを目指す。アリストテレスが「弁論の成功要因を探り方法化すれば『技術』とすることができる」と語った通りである。


言論とは〈ロゴス〉、すなわち理性的なものである。しかし、ロゴスは人柄や品性とされる〈エトス〉と連動するし、感性や情緒である〈パトス〉と相反するものではない。それどころか、ロゴスとエトスとパトスは3セットとして機能する。『弁論術』の中でアリストテレスが「エトスとパトスによる説得推論」についてかなり熱心に考察したのもうなずける。

アリストテレスに限った話ではない。古代ギリシアの時代から「人間はロゴスを持つ動物である」と言われてきた。不可思議極まる宇宙万有の一切がなぜ存在し、狂うことなく機能しているのか――こう問い掛ける時、宇宙の原理を支配する根源に〈ことわり〉としてロゴスを置かざるをえなかった。ロゴスを一つの日本語表現で現わすことはできない。この一語にはいくつものニュアンスが折り畳まれており、また様々な意味にも展開されている。たとえば、理性、言語、定義、弁論、討論、叙述、物語、理論、推理、計算、道理、論理、理由、比例、割合……という具合に。

ロゴスを狂信するのも困ったものだが、「ロゴス嫌い」の思考未熟も同じく他人迷惑である。少し話が難しくなって筋道を見失いそうになると思考エンジンが止まる。ロゴス嫌い――あるいは反知性派――は理屈や議論を望まない。ぼくのように「言わぬが損」という言論尊重派は、言論によって彼らを説得しようと試みるが、その言論行為がまず受け付けられない。懇切丁寧に言を尽くしても聞く耳を持たず、ことばそのものが否定されたりもする。饒舌な口達者にしか見えないのだろう。口達者は褒めことばではない。ロゴス嫌い・反知性はわが国でも顕著になりつつあるが、帝政時代のローマでも「口は禍のもとだから沈黙がいい」などと勧められていた。プルタルコスの『英雄伝』にもそんなくだりがある。プルタルコス自身、膨大な文章を書いたのにもかかわらず。

孔子も「巧言令色鮮し仁こうげんれいしょくすくなしじん」や「巧言は徳を乱る」などと唱えた。にもかかわらず、『論語』では、人間の重要な才能の一つとして、徳行、政事、文学と並んで「言語」が挙げられている。当世風に言えば、「人を磨いて仕事に励み教養を身に付けてことばを用いなさい」というところだ。何のことはない、プルタルコスも孔子も、そして、その他大勢の偉人たちも、大いに書いて大いに語ったのである。プルタルコスよりも二百年前に活躍したキケロはローマ時代の弁論家であり政治家であった。彼に次のことばがある。

口の達者な愚かさか、それとも、雄弁でない知恵か? この二者択一で迫られたら、私としては、雄弁でない知恵のほうを選びたい。しかし、いずれも最善ではないのだ。唯一最善のものを求めるとするならば、「教養のある弁論家」にこそ栄冠を授けるべきだろう。

キケロは「弁論家」と言っているが、専門の色を脱色して「言論者」と言い換えてもいい。つまり、「教養ある言論者」を目指すことが、ロゴス狂信でもなくロゴス嫌いでもない理想の姿だと思われる。願わくば、そこにエトスとパトスがほどよく混ざり合うような言論個性を目指したい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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