水辺の散策

休日の今朝、ガラス窓の向こうの光が眩しかった。陽射し浴び放題のこんな日に引きこもっていてはもったいない。いつもとまったく違う道順が浮かぶ。素直にそのイメージに従うことにした。目論んだのは河畔の散策、とりあえず目指したのは旧桜宮さくらのみや公会堂から帝国ホテル。〈水都大阪〉と高らかに謳うトーンに実景のほうは追いついていないが、まずまずの癒しゾーンと言えなくもない。

大川河畔2

のらりくらりと小一時間そぞろ歩いて河畔へ。大川の水嵩がさほど増していないのは、岸の石積みの壁を見ればわかる。水面は跡形のついている水位には届いていない。しかし、川の流れに逆らって水辺を歩いていたから、波が風の力を借りて幾重にもくねり、目線上に迫るほど膨らんで見えた。鴨と鴎が水面に浮かび、大いに揺れている。白鷺は悠然と構えて動かない。どうせ餌のことしか考えていないくせに、まるで思索する哲学者のようだ。


晴れて明るく澄みわたり、陽射しがやわらかくて温かい。青色が誇らしげに威張れる日である。青が綺麗に見える日は、樹木や建造物が水辺の構図に無理なく溶け込み、切れ味のいい遠近感が生まれる。この川は蛇行している。セーヌ河がそうであるように、蛇行する川は物語性を帯びる。しかし、惜しいことに、このあたりに歴史の面影は色濃く残っていない。今の街はすでに過去と決別をしてしまった。過去と現在はもはやつながっていないのである。この意味では、ぼくの理想の魅力的な街ではない。だから、ここを歩く時は無理にでも過去と現在をつなぐ。つまり、本で学んだ過去を想像する。

馴染みのある場所であっても、散策経路は変わる。いや、変えなければマンネリズムに陥る。実は、散策道に飽きるなどと言っているあいだはまだ本物の散歩人ではない。毎日同じ道をそぞろ歩きしても退屈せずに意気揚揚としているのが遊歩名人の証だ。ぼくにとっては道険しい境地だが、フィレンツェの老人たちは黄昏の街の同じ道を何度も往復する。無言で歩く人あり、連れと語り合いながら歩く人あり。そんな散歩に憧れた。

大川河畔1

とは言うものの、どの道を行こうかとほんの少し逡巡する時間に心が動くことも否めない。真っ直ぐ行こうが右の小径を下ろうが、数十秒後には同じ場所で合流するのは知っている。しかし、この際、そのことはどうでもよく、結末に大差のない二者択一の岐路で立ち止まることに意味があるような気がするのだ。

そうそう、つまらぬことだが、途中で寄ったスーパーでもコロッケパンにするか高菜のおにぎりにするか迷った。二時間近く歩いた後は何を食べてもうまいから、迷うことなどないのだが……。青い空のもと、水辺に視線を流しながらコロッケパンを頬張って幸せになった。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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