アリストテレス(紀元前384-322年)が万学の祖という点に異論はないだろう。哲学・倫理学・政治学・自然学においてはもちろんのこと、論理学においても偉業は燦然と輝く。論理学は弁論術と並んで言論の核を成すが、2,200年もの間、アリストテレスの論理学――厳密には「伝統論理学」――は西洋の学問体系の拠り所になっていた。伝統論理学への代案を提起したのはフレーゲ(1848–1925年)だ。フレーゲは命題論理と述語論理による画期的な記号論理学の基礎を切り開いた。とは言え、アリストテレスの『弁論術』から大いに学んだぼくとしては、伝統論理学の何もかもが色褪せたとは思わない。
論理や弁論の専門家でないかぎり、とことん言論技術を究める必要はない。そんな一般の人たちにとっては、演繹推理や帰納推理などによって論理学をかいつまむだけで必要十分だと思われる。なにしろフレーゲ以降の論理学はなじみにくい。記号論理学や数理論理学は推論の構造をすべて数式化するからだ。十九歳の時に初めて読んだ入門書には閉口した。こういう論理学は必要としていないので、覚えてもすぐに忘れる。ちなみに、記号論理学では文章は次のように記述される。
p⊃q, q⊃r ∴p⊃r
「pがqを含み、qがrを含む。ゆえにpはrを含む」(純粋仮言三段論法)
p∨q, ¬p ∴q
「pまたはqである。しかし、pではない。ゆえにqである」 (選言三段論法)
⊃は「含む」、∴は「ゆえに」、∨は「または」、∧は「かつ」、¬は「否定」を意味する。「ハンバーグを食べ(A)コーラを注文する(B)か、あるいはハンバーグを食べずにポテトを注文する(C)」という文章は、(A∧B)∨(¬A∧C)と記述することができる。
あるテーマについて明瞭に意見を述べ、その意見を論証して他人を説得できればすぐれた言論と見なせる。こう言えば簡単だが、テーマに関する知識を備えることはもちろん、意見の表現方法や筋道の立て方に習熟しなければならない。こういう技術は経験量に比例するから訓練を積まねばならない。言論の技術が未熟だと論理的説得は望めないのである。
教育者が教育について、経営者が経営について、建築家が建築についてそれぞれ語るとする。同業者や一般人は知見や業績や人柄や作品に共感し納得してくれることが多い。だからと言って、言論不要と言い切ることはできない。自分の意見を論理的に説得する場面では言論に頼らざるをえない。さらに言うと、専門家は、専門外のテーマについて尋ねられる場面で、いつもノーコメントを決め込むわけにはいかない。自分が専門としない事柄について論じる際には、知識が足りない分を言論の技術で補わねばならないのである。
「言論の技術は、どんな場合でも有効な説得の手段を見つける能力」とアリストテレスは言った。「どんな場合でも」なのだから、専門テーマやそれ以外の一般的なテーマを指す。ぼくが建築理論や構造設計について建築家を説得することはむずかしい。専門知識の量と深さでは太刀打ちできないからだ。しかし、一般論として住居と暮らし方については経験的に語れるだろう。また、住まいが人間にとってどのような意味を持っているかという価値の問題になれば、専門家と議論さえ交わせるはずだ。人間や価値の領域であるならば、どんなに専門性の強い命題でも論じることができる――言語の技術はこのような能力にほかならない。
世界がそうであるように、組織も学際化・業際化が進む。様々な専門と文化を背景にしていろいろな仕事人が集まる。そこでは「それは専門外」だと言って逃げるわけにはいかない。専門的知識があろうがなかろうが、何らかの価値判断をして同僚を、組織の外の人たちを説得して信用を得なければならない。知識だけでは専門家を名乗れない時代になったのである。一般人がテロや少子高齢化について語っているのに、専門家がそういうテーマに対して門外漢だと言って口をつぐんでいいはずがない。
会議と葬儀の寡黙度が似たり寄ったりの日本社会。言論の自由や民主主義が都合よく引き出される割には、言論の実践になまくらで、拙劣な表現やお粗末な論法でその場をしのいでいる。言論は行き詰まった問題解決に新風を吹き込む。異種意見間での弁論にはエスプリとレトリックの更新が欠かせない。つまり、つねに言論努力が求められる。「説得するな、納得させよ」と悟ったようなことを言うのは、言論の限界を見極めるほど十分に鍛錬してからの話である。
