ロゴスによる説得を試みる際の通念的な拠り所がある。「善>悪」はその最たるもので、他にも「利益>損失」「正>不正」「徳>悪徳」「美>醜」などがある。こうした「大なり不等式」では、左辺が右辺よりも「良きもの」と見なされる。ある事柄が良いか悪いかを価値判断するのはロゴスの役割である。ロゴス的判断は真理に関わることが多い。すなわち、事柄が真か偽かという二律背反で考える。二項だけで語ることになるから摩擦が強くなるのは当然で、軋轢が生じるのも稀ではない。ロゴスに働けば角が立つのである。
行為自体または行為がもたらすものに「好ましいもの」があれば「それは善である」と考える。その反対に、「疎ましいもの」があれば「それは悪である」とする。「善か悪か」という考え方は窮屈である。善と悪の中間を認めない。たとえば、チョコレートもバレンタインデーも好ましくもあり疎ましくもある。長短がある。それでも、真理探究は妥協を許さないからどちらかに決めなければならない。
ヴィーコなどは真理そのものに異議を唱えた。感情を含む問題は真理や理性だけで推論しえないと言うのだ。そして、「真理よりも〈真理らしきもの〉のほうが大事である」と唱えた。頭で分からせるならロゴスによる説得でいいかもしれないが、納得して行動変容まで到らせるには心を動かさねばならない。それが「共通感覚に訴える」ということになる。
ふだんよく使う常識ということば。英語では〈コモンセンス(common sense)〉。このコモンセンスの起源を遡ると、やっぱりアリストテレスに辿り着く。当時の術語で「センススコムニス」と呼ばれたもの、それが共通感覚である。共通感覚とは人間の基本的な感受性であり、他者や世界とともに在ることができる生活世界のパスポートのようなものだ。
共通感覚には人間としての五感――触覚、視覚、味覚、聴覚、嗅覚――がICチップのように組み込まれている。
「共通感覚とは実際的な理解力であり、物事を正当な光のなかで見る人々の能力であり、そして健全な判断力である」
(中村雄二郎)
言論は、「人間のすべての意図的な行為は〈良きもの〉を目指す」という前提でおこなわれる。仮にある行為に首を傾げたとしても、その行為がさらに上位の利益や善につながるのであれば説得可能になる。たとえば建築工事。「それは家を建てるためである。家は雨風をしのぐためであり、雨風をしのげば家族にささやかな幸せがもたらされる」という具合に敷衍すれば、良きものを目指す行為だと共感してもらえそうだ。大向こうを唸らせる話でも論法でもないが、一応常識のスパイスが効く。
このように、目的が常識に見合えば異論を差し挟む余地がないように見える。しかし、話はそれほど単純ではない。「行為の目的」だけが議論や説得の対象ではなく、「目的を達成する手段」の善悪や利害への目配りも必要になるからだ。すなわち、不快騒音を伴う建築工事という手段の是非を論議しなければならない。
「正・不正」に関して言うと、正しい行為なら何でもいいというわけにはいかない。アメリカにとってベトナム戦争もイラク介入も正義であった。しかし、目的も手段も共通感覚にアピールしたとは言いづらい。アリストテレスの正義などは比較にならぬほど崇高で、「徳全体が他人に対して働いていること」を規定した。三つの正義が明快に示されている。
1.それぞれの人の価値や能力に応じて配分が成されること(配分的正義)
2.人と人の間に生じる利害得失の不平等を矯正すること(矯正的正義)
3.人と人の間で交換するものは互いに等価であること(交換的正義)
二千数百年前に格差社会の現代を予見して危惧したかのようだ。ちなみに、これらに反する不正行為の原因は、古来変わらず、悪徳と無抑制であることがほとんどである。不正行為が後を絶たないのはなぜか。「発覚しないだろう→仮に発覚しても罰を受けないだろう→仮に罰を受けても、その罰に比べれば得られる利益のほうが大きいだろう」という心理連鎖が起こるからだとアリストテレスは指摘した。
すでに明らかなように、共通感覚は人間に共通の常識と判断力で物事の本質を捉えていく。目先や利己にではなく、普遍や他者に目が向いている。『共通感覚論』での中村雄二郎の次の説明がわかりやすい。
「共通感覚とは、その反省において他のすべての人々のことを〈先験的に〉顧慮する能力なのである。このようなことができるためには、(……)自分自身を他者の立場に置くことが必要である」
共通感覚は人間関係をつかさどっている。人間に世界への通路を用意してくれている。生活場面や仕事で物事の細部のすべてが分からなくても、全体が把握できたり問題が打開できたりするのは、おそらく五感を拠り所とした賢慮良識が働くからだろう。他者や社会を顧慮し、生きることの意味を問いつつ判断し言論する……こうした共通感覚的おこないは本性的である。にもかかわらず、粗末に扱われ軽視されるのは、自分を中心とした利害や数値化された価値のほうがよく理解できるからだろう。