アリストテレスが〈ディアロゴス(dia-logos)〉と呼んだ対話術は、どんな事柄についても、共通感覚を前提として問答的言論ができる技術であった。相手の主張を論駁するとともに、自分の主張を防御する方法でもある。アリストテレスは、対話の有用性の第一に知的鍛錬を挙げた。これに対して、プラトンの問答術は真理を探究する手段であった。そして、技術と言うよりはむしろ、経験と慣れなどの場数が重要であるとされた。
対話と密接に関わる概念に二項対立があり、弁証法がある。弁証法の論理は、一つの〈テーゼ(定立)〉に対して〈アンチテーゼ(反定立)〉を唱える。アンチテーゼは論理上いくつでも立てることができるが、わかりやすさのために一つのアンチテーゼを見立てると、AというテーゼとBというアンチテーゼが二項対立するような関係が立ち上がる。対立関係のAとBを綜合すればジンテーゼCが生まれる。次にCが新たなテーゼとなり、これに新たなアンチテーゼDが立てられ、CとDが綜合されてEに……という具合に止揚が繰り返され真理に近づいていく、というわけである。相容れないはずのAとBがCのもとで、CとDがEのもとで、それぞれ矛盾を解消する(ということになっている)。
ところが、真理自体を懐疑している者にとっては、こんな面倒なやり方はない。また、真理探究が必要だとしても、綜合だか折衷だか知らないが、わざわざジンテーゼに仕立て上げることもないと考える者もいる。テーゼとアンチテーゼを対立させたまま優劣を判断すればいいというわけだ。肯定側と否定側で妥協なき討論をおこなう教育ディベートはここまでしか想定していないし、裁判も二項対立で決着をつける。長期的な視点でアイデアの創造や融合を目指すならジンテーゼは必要だが、ディベートではそこまで目指さない。キリがないからでもあるが、討論の技術はその時々の命題の是非を論じることに限定される。但し、実社会の対話の場面でいったん決めた立場に終始こだわり続けていては対話すること自体の意味が失われてしまう。
ぼくたちは他人と対話もするけれども、自分とも対話している。対話には必ず〈一問一答〉の形が現れる。これが通常弁論と呼ばれる演説と異なる点だ。自論は他者またはもう一人の自分によって検証される。検証されるなどと言うと、反論されるというイメージがあるが、実は自論が修正・強化されるプロセスにほかならない。問答を経ることによって、知ったかぶりやわかったつもりは容易に暴露される。スピーチなら反論をくぐり抜けることができても、対話では問答をごまかすことはできない。もっとも、ありがたいことに相手が強敵だからそうなるわけで、弱い論敵ばかりを相手にしていると弱点検証されることもないからまったく知的鍛錬にはならない。打たれてこそ対話に値打ちがある。
サルトルに「ことばとは装填されたピストルだ」という言がある。銃弾が物騒なら棘と言い換えてもいい。対話であれ論争であれ、ことばで意見を交わすかぎり棘を刺し棘を刺されるのは免れない。そして、人というのは棘に弱いものである。承認されるよりも批判されるほうが絶対に本人のためになることが自明であっても、批判には耐えられず棘ある一言のことばで表情を曇らせる。しかし、どんなに毒気のある批判も、黙殺やノーコメントの残酷さにはかなわない。沈黙は論争よりも非情な仕打ちなのである。棘や毒があってもことばと対話に望みを託そう。それ以外に知を鍛錬する方法はなかなか見当たらないのだから。
喉元まで言いたいことがこみ上げても、相手の理不尽な詰問や言い分にきちんと応答できなければ、検証もできず意見も持たぬ者として烙印を押される。悔しい思いは恨みとなり、恨みは少々の時間経過では消えないから、同じ場面が再現されると、今度は感情的に爆発するしかない。切羽詰まった激情の言論に相手や周囲が嘲笑する。対話音痴だから、タイミングも外れ言動の振る舞いもうまくいかない。アリストテレスはこのもどかしさを「人間にとって本来的である言論で身を守れないのは、手足で身体を守れない以上に恥ずべきことだ」と言った。
ディベートは対話の一形式である。一つの命題を巡って主張する側と検証する側の立場があらかじめ明確にされている。焦点は命題が成り立つかどうかだ。しかし、現実の対話ではこの固定した立場をどこかで超越して、弁証努力に向かわねばならない。対話者それぞれが持論に基づく独断的な見解を述べるだけでは不十分なのだ。命題に潜む知識やことばを共有しなければならず、また、個人的偏見をも脱しなければならないだろう。つまり、ディベート形式で学んだ平行線の対立の構図を柔軟に変形させる必要がある。〈ディアロゴス〉とは「事柄の真理や真相を分かち合う」という意味だ。真理や真相が明らかになる保障はないが、互いの見解を共通感覚のまな板の上で分かち合わねば、小異に拘るあまり大同に就くことは難しい。