情報が溢れる装置

スタッフの一人が地下鉄車両内の中吊りを撮影し、それをフェースブックに投稿した。小心者の男なのだが、よくも大胆に危ない橋を渡ったものである。投稿内容は「チカン(痴漢)はアカン」という大阪市営地下鉄のキャンペーンメッセージ。「きみ、車内で写真はアカン!」と彼を戒めた。

戒めたものの、どれほどの大胆な行為なのか、ほんのちょっとの勇気を出せばできることなのか……好奇心の強いぼくは気になってしかたがない。そして、ついに、自分自身で試してみようと思ったのである。ガラガラ車両の端のほうで被写体に向けてシャッターを押した。心臓は穏やかではない。そそくさとカメラをポケットにしまい込んだ。それがこの写真である。もちろん、撮影のための撮影などではない。家具の広告コピーを見てちょっと揶揄してみたくなったのが直接の動機だった。

地下鉄車内 多情報 web.jpg

左の広告、「いいソファを買ったら、独身に貴族がついてきた」。そんなわけないだろう。ソファごときで貴族になれるのなら苦労はしない。むしろ、猟犬と猟銃を手にするほうが貴族感覚に浸れるのではないか。右の広告、「センスは磨くより、買った方がはやい?」 冗談じゃない。センスのない者がセンスのあるものを買えるはずがない。クエスチョンマークを付けているところを見ると、コピーライターも自信がないのだろう。
スタッフが撮りたい衝動を抑えることができなかった類似の表示も写っている。「チカンは犯罪です」というおなじみのフレーズだ。路線の駅名をはじめ、その他もろもろの情報があちこちに貼り込まれている。地下鉄のみならず、電車もバスもすっかり都市の情報装置に変身したかのようである。居酒屋も同様で、実物の料理よりも手書きの紙やPOPのほうが目立つありさまだ。
リチャード・ワーマンは、ぼくたちが目を通す朝刊一日分は17世紀の平均的英国人が一生に出合う情報量に相当すると指摘した。もはや日々接する情報のすべてを取り込んだり集めたりすることを諦めねばならない。この四世紀で脳が何百倍も進化したのならともかく、劣化さえつぶやかれる現在、ぼくたちは情報に対して貪欲を続けるのではなく、潔く付き合うことに目覚めるべきだろう。未だに「情報収集」などと馬鹿をほざいていてはいけない。リチャード・ワーマンの書名は『情報選択の時代』。わかりきったことだが、情報を集めてはいけない。情報は選ぶべきものなのである。