型を破る型はあるか、ないか?

型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。やわらかい発想について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。

「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。

だが、ちょっと待てよ。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか――あるいは大きく逸れるか――が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。


以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事になったが、気を取り直してもう少し考えてみることにする。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。

マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないためのルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。

何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。

型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決めたり決められたりするものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけない。この結論がタイトルの問い〈型を破る型はあるか、ないか?〉の答えになっていないのを承知している。

習熟とマンネリズムは表裏一体

テレビの『プロフェッショナル 脳活用法スペシャル』を見た。脳科学で解き明かされるアンチエイジングの方法と、脳科学とは無縁のプロフェッショナルたちが日々実践している脳の使い方がほとんど一致するのがおもしろい。高等なプロフェッショナルまでの域にはほど遠いぼくでさえ、幸いにして考え書き話す仕事をしているお陰か、脳活用要件のほとんどを満たしている。周囲の人たちを観察してきた経験から言うと、脳の不活性の兆しは面倒臭がることに現れ、やがて集中力が持続できず、いますぐにできることを後回しにしてしまう。とりわけ言語活動に手抜きし始めると老化が加速するというのがぼくの持論。たとえば、「そんな難しい話はどうでもいいじゃないか」と言い始めると危険信号だ。

「習慣が脳をつくる」というのが大きなテーマだった。番組を見損ねた読者のためにぼくなりに要約すると、このテーマの前提のもとに脳を劣化させない心掛けとして、次の二つがある。

(1) 適度に身体を動かし、指先を使い、細々こまごまとした作業を人に任せず自分でやる
(2)
新しい課題に挑み、目と目を合わせてよく会話をし、好きなことに精を出す。

ぼくの場合、車を所有していないから、とにかくよく歩く。自動車ならぬ「自動人」である。また、小さな事務所なので雑用も人任せにはできないから、(1) はクリアできている。話が好きで仕事が好きだし、得意先や顧問先の高いハードルの課題も歓迎する口だ。ゆえに(2)も大丈夫なはず。

けれども、それで安心して慣れてしまうと、脳が楽をしようとする。脳を活性化する習慣が身についているからといって、その慣れ親しんだ思考回路や記憶の使い方に安住すれば、エイジングが進む。ある程度できているからこそ、さらなる変化や揺さぶりが難しくなってしまうのだ。昨夜の番組を見ていて感じたのは、できていない人ほど脳の新しい使い方の可能性が広がりやすく、できている人ほどさらなる鍛錬に手を抜けなくなる点だ。まことに脳というのは油断も隙もないと思い知った次第である。


メモに関して茂木健一郎がいい話をしていた。出会う人すべてにメモの習慣を薦めるぼくとしては、誤解を避けるためにこの点を付け足さねばと反省した。「メモはその場で書くのではなく、思い出しながら書く」と茂木は言う。そうなのだ。めったに浮かびそうもないひらめきは一語でも一行でも記録するのがいいと思うが、たいていの情報や体験はいったん脳の記憶に放り込むのがいい。基本的には、パソコンやノートに記憶を丸投げするのではなく、脳にひとまず記憶させるのが正しい。そして数時間後でも後日後でも、一次記憶を辿りながら書き出し、あるいは別の情報を加えたりして文章化していく。これによって、ノート上にも脳内の二次記憶ゾーンにも情報が刻まれる。このようにして記録し記憶したものは検索しやすく生かしやすいので、申し分のない知的武装になる。

趣味でも仕事でも上達したいから打ち込むものだろう。そして慣れてくれば、いちいち意識を新たにしなくてもある基準を満たせるようになる。これが習熟という状態だ。かつて高嶺の花だったスキルが精神と身体の一部になってしまえば、ほとんど困難を伴わなくなる。こうして脳もその状態に慣れる。だが、ある日を境にして、習熟がマンネリズムへと転化するリスクが高くなる。習熟はプラス、マンネリズムはマイナス――そんなことは百も承知だが、表情がプラスかマイナスかだけであって、顔そのものは実は同一のものである。

脳にとっては習熟もマンネリズムも同じことなのだ。なぜなら「習慣が脳をつくる」からである。とすれば、脳のアンチエイジング対策は永遠に続けなければならないことになる。では、若い脳を保ちたければ学習し続けねばならないのかと問えば、半分イエスで半分ノーのような気がする。新しい情報の取り込みは最小限必要だとしても、おそらくもっと重要なのは、同じテーマでもいいから思考する回路のほうを変えることだろう。なにしろ脳の神経細胞は千億個もあるそうだ。ほとんど新古品のように出番を待っているに違いない。