小さなハレの儀

連休前後からずっと、オフィスでは創業以来の約30年分の書類、自宅では約45年分の書き物を総点検し、捨てるものは捨て、残すものは整理している。作業はまだまだ続く。

教師が板書したものを左から右へとノートに写し換えるようなことを、高校時代まではほとんどしなかった。その反動か反省かわからないが、18歳を境目にしてぼくはノートに文字を諄々と書き連ねるようになった。今では多弁であり饒舌であると思われていて、そのことは決して間違いではないが、ぼくが書いてきたくだらぬ文章を見れば、語ることよりも書くことの蕩尽ぶりに我ながら驚く。何冊かの著書と研修テキスト以外に、書いてきたものが直接何かに化けたわけではない。しかし、仕事のささやかなバックボーンになったことは確かだろう。

18歳ノート

ろくに受験勉強もせず、ひたすら拙く書いていたノートが数冊残っている。提出義務がなかったから好きなだけいくらでも書けた。大学ノートにびっしりと縦書きするのが当時のスタイルだった。やがて大学ノートは小さな手帳、京大式カード、コクヨの小型ノート、システム手帳、文庫サイズのノート、無印良品の各種サイズのノートへと変遷し、再び今年からバイブルサイズの6穴ルーズリーフのシステム手帳に落ち着いた。不揃いはよくない。一念発起してこれからノート習慣を始める人には、慎重にサイズや形態を決めることをお勧めする。


記憶を過信してはいけないと思う。老いたる者は当然ながら、若き者も自惚れてはいけない。外部の情報を取り込む視聴覚などの感覚器官そのものの不安定を考えてみれば、感覚器官経由で記憶することの頼りなさともろさを心しておくべきである。ぼくたちはどうでもいいことをよく覚え、千載一遇かもしれないたいせつなアイデアや教訓を忘れてしまう。忘却は年を追って深刻度を増す。歯止めをかけるには、忘れかけそうな事柄をメモ書きして再生可能な状態に保つしかない。手軽なノートに何かを綴ったり備忘のために記したりする。日常茶飯事の小さな習慣としてノートを活用しない手はない。

しかし、よく考えてみれば、よほどのマニアでないかぎり、習慣化はやさしくない。日々の諸々の事柄の多くは似たり寄ったりであり決まり事である。三日も書けば飽きてしまう。三日坊主とは言い得て妙である。ぼくもずっとそうだったが、ある日気づいた。ノートに記す内容が繰り返されるのは、流されるように生活を送っているからであり、自ら感受性を鈍らせているからであると。以来、小さなノートを開ける瞬間、ペンを持つ瞬間に、ほんのわずかに気を張るように意識してみたのである。

ノートをつける――あるいは、かつての日記をつける――という行為は、のっぺらぼうな日常の素顔の中に〈相貌〉を敏に知覚させてくれる。昨日と同じ今日はないと自らに言い聞かせ、いくばくかの緊張を感じて、新たに発見した些事や取るに足らない気づきを一本のピンで仮止めするような行為である。日常における「小さなハレの儀」と呼んでもいい。断片情報を明文化すれば、忘れやすい〈点の記憶〉に代わって、〈線の記録〉が生まれる。そして、その記録は記憶の再生を促してくれるのである。

視覚とエッシャー

滝、上昇と下降、反射球体と手、メタモルフォーゼ、メビウスの帯、空の城、解き放ち、モザイク、鳥で平面を埋めつくす、バベルの塔、相対性、凸面と凹面、メタモルフォーゼ、爬虫類、魚とうろこ、蝶、蟹のカノン、三つの世界、露滴、もうひとつの世界、メビウスの帯、昼と夜、表皮片、水溜り、さざ波、ラーメスキータ、三つの球体、立方体とマジックリボン、蟻のフーガ、秩序と混沌、上と下、龍、カストロバルバ、描いている手と手、プリント・ギャラリー、言葉。

以上はエッシャーの版画やスケッチに命名されたタイトルである。

エッシャー2

ここに拾ったタイトルの図版は、ダグラス・R・ホフスタッター著『ゲーデル、エッシャー、バッハ――あるいは不思議の環』に収録されている。これは750ページを超える大作で、いったい何についての書物かを説明するのに戸惑う。一応科学に分類されるのだろうが、かなり多岐にわたっている。お勧めする気はまったく起こらない。それにしても、エッシャーの絵画には、まるで短編小説を思わせるようなタイトルが並ぶ。

エッシャーは版画家である。しかし、「だまし絵」と称される一連の作品は、科学や哲学など芸術以外の分野の考察対象にもなっている。自然法則上の構造に対して独創的なアンチテーゼを呈したのがエッシャーだ。彼の作品には空間の有限世界を無限化してみせるというテーマが横たわっている。


エッシャー

エッシャーの図録を何冊か持っている。ページを繰って眺めていると、ありきたりだが、視覚の不思議に気づかされる。視覚はおそらく知覚の代表格である。人は長きにわたって「一見いっけん」の力を信じてやまなかった。しかし、視覚は「錯視」という誤動作をしばしば起こす。手品のネタを明かされても手さばきの鮮やかさに見惚れてしまうように、エッシャーの版画の構成の正体を承知してもなお、何度見ても錯視が生じてしまうのである。

エッシャーの作品には幾何学や物理学の法則が本来あるべき姿として存在していない。だから、不安定で不気味で落ち着かなくなるはずである。しかし、なじんでしまうと、しかるべき現実の空間のほうにむしろ違和感を覚えることがある。うまく表現しづらいので、『共通感覚論』から中村雄二郎の視点を拝借する。

「(……)一面幾何学的な冷やかさをもちながら、同時に人間くさく、宇宙的感覚に充ちている」
「(……)視覚の逆理が単なる知的遊戯として示されているのではなく、作者のうちに内面化され、いわば触覚化されている(……)」

この文章からぼくが想起するのは、バルセロナで眺め、そして会堂に佇んだ、ガウディのサグラダ・ファミリア教会である。それはまさに〈人間的ミクロコスモス〉であり〈宇宙的マクロコスモス〉であった。作意が鑑賞者の内面にも響き、視覚の限界を超えてしまうのである。エッシャーの作品も同様だ。視覚の逆理を遊ぶ「だまし絵」というジャンルに振り分けられているが、騙されることを了解した上で鑑賞しているのである。こうしてみると、今ぼくたちが目の前にしている現実が――そこにあるモノや構造物が――「だましのない、見えるがまま、あるがままの存在」と言い切れない気がしてくるのである。

諺に関する諺

諺、金言、格言、箴言しんげん……いろいろな類義語がある。このようなことばで呼ばれる名言は無尽蔵だ。知らないことばが多すぎるとこぼすに及ばない。知らなくても困ることはないのだから。

句に出合えば考えのヒントになり気づきを促してくれるきっかけになる。下手な考え休むに似たり。オフィスにも自宅にもそれぞれ十数冊の辞典や書物を備えていて、よくひも解いている。最近ではウェブでもかなりの程度まで検索できるので、わざわざ座右に本を揃える必要もなさそうである。

それにしても、諺、金言、格言、箴言などのニュアンスの違いが鮮明ではない。諺がおよそ土着的で日常生活的な教訓だということは承知しているが、金言と格言の線引きがむずかしい。たいていの辞典では生き方や真理や普遍らしきものを唱えるものとしており、金言と格言の意味がかなり重なっている。格言のうちゴールドメダル級を金言と呼んでおくことにするか。なお、箴言は、金言や格言のうち、戒めの意味合いの強いものと考えればよい。

諺と石碑

古代に遡ってみれば、石に刻まれた文言にもいろいろあって、公的なメッセージ性の強い内容もあれば、PRや宣言文もあるし、当時の時事記録もある。ひっくるめて呼ぶなら「碑文」と言うしかない。石に刻まれてこそ、パピルスに書いてこそ、格言・金言となって後世に伝えられた。口伝くでんのみのリレーではこぼれ落としてしまっただろう。わが国にも稗田阿礼と太安万侶以前に名言もあったと推測するが、いかんせん、そらんじるだけでは記録は残りづらかった。


適当に辞典を繰って「諺に関する諺」を調べてみた。金言、格言、名言などをキーワードにするとかなり増えるが、諺だけに限定したら、ぼくの検索の技では十指にも満たなかった。いくつか抜き書きして少考してみた。まずはポジティブなもの。

諺は一人の才知、万人の知恵。(ラッセル)
諺は民衆の声、ゆえに神の声。(トレンチ)

多くの諺を発信源まで遡ることはできない。無名の誰かがつぶやいた後に広まったか、民話のように人々の間で語り継がれたか、そんな感じなのだろう。二つの諺には帰納推理という共通点がある。おそらく個別で特殊だったものが一般普遍としての価値を得た。万人の知恵、神の声とは力強い。他方、ネガティブなニュアンスのものもある。

諺は言い訳にならない。(ヴォルテール)
諺は蝶に似ている。蝶を幾匹か捕らえても、他のは飛び去ってしまう。(ヴァンダー)

「急いでくれと言ったのに、遅かったじゃないか!?」と文句を言ったら、相手が「急がば回れを忠実に実行したんですがねぇ」と諺を盾に取って言い訳をする。遅くなったのは諺の仕業じゃないから、当然本人を咎めるしかない。諺は万人の知恵か神の声かもしれないが、社会規範の上に君臨する法ではない。それに、複数の諺を対比してみれば、相容れないものが必ず出てくる。ある諺に従うと別の諺に背くことになるのである。ヴァンダーの言う通り、いくつかの諺を座右銘扱いすると、他の諺への意識が希薄になることもある。

時機にかなえば、諺はいつも耳を傾ける値打ちがある。(プラウトゥス)

古代ローマ時代の作家のこの諺がもっとも古い。条件付きでポジティブ、条件が落ちたらネガティブという例である。耳を傾ける値打ちがあるのなら、行動指針にしてもいいはず。但し、チャンスやタイミング次第というわけだ。いつでもどこでも誰にでも絶対ではない。時機にかなっているかどうかと自分で斟酌しなければならない。

明けても暮れても「石の上にも三年」などと胡坐をかいたり、「酒は百薬の長」とほざいて連日飲み明かすのも考えものである。諺は字句通りに実践するものではなく、己の言行や考えをチェックする素材と見るのがいい。ケースバイケースの付き合いをする分には、諺は味わい深いと言っておこう。

コンセプトとしてのイルカ

「タカ」と「ワシ」を漢字で書けるか? 書ける人がいて、書けない人がいる。書けないなら、ワードで“taka”“washi”と入力する。「鷹」と「鷲」という漢字に変換される。ちなみに、英語なら“hawk”“eagle”だ。自分は書けないけれど、漢字を示されたら認識できる。
では、写真を見てタカとワシを識別できるか?

コンセプトとしてのイルカ タカ
この鳥の写真には一応タカというキャプションが付されている。しかし、タカもワシもタカ目タカ科だ。両者を比較せずに個体識別するのはかなり難しいらしい。一般的に大型のものをワシと呼ぶのだけれど、一般人だと真剣に観察しても区別はつきにくい。

このことからわかるように、はじめに「野生の生態としてのカテゴリー」があるわけではない。あくまでもコンセプトとしての、人為的な見立てにすぎない。

コンセプトとしてのイルカ イルカ
イルカとクジラという名称がある。イルカもクジラも哺乳綱クジラ目である。階級を一つ下ってマイルカ科に注目すると、ここに追い込み漁の対象となるイルカやクジラがすべて含まれる。体躯の大きさによって、イルカとクジラが分けられる。つまり、人が生み出したコンセプトである。

コンセプトとしてのイルカ 本
『イルカを食べちゃダメですか?』という書物がある。日本の捕鯨文化擁護論である。出版されておよそ五年。イルカを巡る世界世論はまたもや日本への新たな逆風となっっている。

イルカを食べたらダメですか?
イルカを追い込んだらダメですか?
イルカを生け捕りしたらダメですか?
イルカを飼い馴らしたらダメですか?
そして、やがてこうなるだろう。
イルカを見てもダメですか?

☆     ☆     ☆

『噴版  惡魔の辭典』というギャグの定義集がある。そこに【クジラ】という見出しがあり、編著者が定義を試みている。

地球上で最も巨大な生物であり、人類はこれに「食欲」を感ずる一派と、「愛」を感ずる一派に大別される。前者は間もなくこれの養殖を主張しはじめ、後者はこれの国際連合加入を主張しはじめるであろうと言われている。(別役実)

諸外国の人々が、日本人をいじめようと考える際、ひきあいにだすのにもっとも都合のいい動物。(横田順彌)

☆     ☆     ☆

何を食材としてきたか、そして今何を食材にしているのか。かつては人は選ぶことなどできず、風土的条件に支配されてきた。魚が好きだから、肉が好きだからなどという嗜好の前に、魚を、肉を食べざるをえなかった事情があったのである。そして、そういう食習慣が食文化を生み出した。

食文化とは民族固有のコンセプトなのである。どの動物を愛玩するか、または食糧とするか、どの動物を家畜とするか、または野生のまま生かすのか、あるいは見世物にするのかしないのか……。世界標準のものさしが必要なのか、ありうるのか……。重さや長さを測るような簡単な話ではない。

アルファベットスープ

シリア中部の世界遺産パルミラをイスラム過激派組織“IS”が制圧したという。ローマ帝国時代にもかなりの破壊行為が繰り返された地域である。いま再び人の手による崩落の危機に瀕している。

自ら「イスラム国」と名乗り、また他者もそう呼称するのは誤解を招き、イスラム世界にとっては寛容しがたい。そのことに関係諸国もマスメディアも同調してイスラム国(Islamic State)をアルファベットの頭文字で“IS”と表わし「アイエス」と呼ぶようになった。このやむをえない対処によって、ぼくの感覚も変化した。依然として数々の蛮行が繰り返されるにもかかわらず、アイエスと呼び換えることによって、憤りの感情が変容した。対象がぼやけてしまい、無機的かつ中性的になってしまったのである。

ここでシニフィアンとシニフィエを連想する。シニフィアンとは「表わしているもの」。記号表現のことだ。「ペン、pen」という文字の記号であり、音である。シニフィエとは、そのシニフィアンによって「意味されているもの」、すなわち記号の内容である。実際のペンであり、頭に浮かぶペンのイメージである。イスラム国というシニフィアンがアイエスに置き換えられても、シニフィエとしての過激派組織の実体が変わるわけではない。しかし、名は実体のイメージに影響を及ぼす。アイエスはイスラム国のイメージを無味な記号的存在にしてしまった。初めて「アイエス」を耳にする者にとってはマイルドでさえある。

☆     ☆     ☆

アルファベットスープ

アルファベットをかたどったビスケットがある。パスタもある。パスタはスープに入れて食べる。これを「アルファベットスープ」と呼び、アルファベット語圏の子どもたちには人気の料理だ。ばらばらの26文字から3文字や4文字で単語を綴ってスプーンに並べる。たわいもない仕草だが、形状がすべて同じ粒パスタとは違って、食べる愉しみが少しは膨らむ。

アルファベットスープと題された小見出しが“Ogilvy on Advertising”に載っていて、著者のデヴィッド・オグルビーが次のように書いている(拙訳)

どんな事情があるにせよ、頭文字で略した社名に変えてはいけない。IBM, ITT, CBS, NBCなどについてはすでによく知られている。しかし、いったいどれだけの人が次の社名にピンとくるだろうか? AC, ADP, AFIA, AIG, AIM, AMP, BBC, CBI, CF, CNA, CPI, CEX, DHL, FMC, GA, GE, GM, GMAC, GMC, GTE, HGA, IM, INA, IU, JVC, MCI, NIB, NCP, NCR, NDS, NEC, NLT, NT, OPIC, TIE, TRW, UBS.   これら37社はこの名で広告を出稿している。一般に浸透するのにどれだけの年月と費用がかかることか。無駄遣いである。

BBC, GE, GM, NECなどはわかる。しかし、他のほとんどは単なるアルファベットの組み合わせに過ぎず、無意味な記号に見えてくる。ぼくの会社の英文名は“ProConcept Institute Corporation”だが、単語のイニシャルを並べると“PCI”になる。固有性が消えて匿名になる。どこにでもありそうな乾いた名前になる。何の会社かわからない。そして、何の会社かわからないアルファベットを正式社名に変更する企業が多いのである。かつて社名を頭文字に略して3文字で綴るのが流行したせいだ。

企業風土も理念も表現できないこのようなアルファベットスープ的な社名は、子どもの気まぐれなお遊びに似て恣意的である。論理が抜け落ちてしまっている。今年に入って何人かのコンサルティング会社の人たちに会ったが、いずれもアルファベットカンパニーであった。何という会社か、まったく覚えていない。親密性がなく記憶に掛かりにくければ関心が薄れる。ISで鈍らされた感度に近いものを覚える。

ここはぼくの場所だ

大きな世界地図を手に入れた。かなり精細に作られている。この一枚をトイレの壁に貼ることにしたわが家は狭いが、トイレの壁面積はまずまずなのである。その地図の、陸地ではなく、大西洋、インド洋、太平洋の海に浮かぶ小さな島々を目で追った。島と島を空想的に巡っていくと、点と点が結ばれ、地図上には引かれていない線が浮かび上がってくる。

Outre-mer_en

フランス領の島々がかなりあるので、インターネットで調べてみたら《フランスの海外県・島々》と題した地図が見つかった。フランス領の島々が他国領の数を凌いでいるように見える。これは新しい発見だ。南太平洋、インド洋、北大西洋のメキシコ湾に仏領の島々が点在している。もちろん、スペイン領の島……イギリス領にアメリカ領の島……オーストラリアやニュージーランドにも島が多い。

大航海時代に遡ってみる。これらの島々の一部は無人島だったかもしれない。しかし、アメリカ大陸発見と同じ経緯も多々あったと推測できる。つまり、航海者や探検家にとっての「発見」であって、たいていの島では原住民が古来住み続けていたはずだ。領土と宣言するに到る過程の血生臭いシーンが浮かぶ。先住権よりもよそ者の横領による占有権がものを言った。「ここはオレの国の島だ!」


と、ここまで書いて、パスカルの警句を思い出した。

ぼくのもの、きみのもの。
「この犬はぼくのだ」と、あの坊やたちが言っていた。
「これは、ぼくが日向ひなたぼっこする場所だ」
――このことばに地上のすべての簒奪さんだつの始まりと縮図がある。

(パスカル『パンセ』295

既得権のある者が領域侵犯者に告げるのではない。簒奪ということばが示すように、のこのこ後からやって来た者が既得権者に対して「そこはオレの場所だ!」と縄張り宣言をして横領したのである。日向ぼっこというたわいもない習慣で終わらないのが強欲な人間の常であり、覇権をねらう国家の魂胆も別のものではない。日向ぼっこの席がベンチ一つ分へ、ベンチの周辺へ、さらには公園、地域へと拡張していく。

「オレの、私の、ぼくの、われわれの」という一人称所有格は厄介である。かと言って、「みんなの」と言い換えたところで共有意識が高まるとはかぎらない。その名を持つ政党が崩壊したのは記憶に新しい。人間生来の欲望だろうか、自分のものは自分のものであり続けて欲しい。そして、垣根を一つまたいだところにある誰かのものも、できれば自分のものにしてしまいたい。ギャグめいた常套句、「ぼくのものはぼくのもの、みんなのものもぼくのもの」がこうして生まれる。

小さく威張ることに慣れると、やがてエスカレートして大きく威張るようになる。小さな権利を手に入れれば暴走気味に大きな権利を欲しがるようになる。ぼくの小学生の頃、教室の机は一卓二人掛け。机の中央に線を引く男子がいた。その線を消しゴムが越境すると、「ここはぼくの机だ」と主張した。やがて、「こっちに入ったら返さない」と言い始めた。中央に引く線が引き直され、男子は机上の領土を広げた。これが簒奪の始まりであり縮図であるなら、その後の人生で彼はかなりの数の消しゴムや鉛筆、その他諸々の物品や土地を手に入れたに違いない。

嘘と悪口

この名随筆シリーズの「嘘」を編集するにあたり、八年間かかって五万冊の随筆集を読破した。「嘘」をテーマにした随筆は数少なかった。さらにまた、読んで面白いと感じたものはもっと少なかった。そのためわたしは鬱病となり、リタリン(鬱病の投薬剤)を八百錠のみ、そのため胃潰瘍となって手術を八回した。

これは、日本の名随筆シリーズ『嘘』のあとがきの書き出しである。同書の編集を担当した筒井康隆の文章だ。どうやら嘘っぽい。と言うか、嘘である。嘘について書かれた随筆を集めて一冊の本にすれば、あとがきも嘘で締めくくるのは当然? いやいや、案外まじめにあとがきを書いてしまいそうな気がする。嘘のあとがきはちょっと気づきにくい着想だ。

急ぎ足で歩いていたら見ずに済んでいた。ほんの少し歩を緩めたばかりにその標語が目に入ってしまった。見るだけでは終わらず、そこに書かれている所論しょろんの罠に引っ掛かったかのように、下手な考えを強いられる破目になった。


他人の悪口

「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」と書いてある。特に前段が引っ掛かったのである。悪口とは読んで字のごとく「人のことを悪く言うこと」である。たしかに他人を悪く言うのを愉快がる者はいる。しかし、それは本人のいない場での陰口の場合だ。本人に直接悪口を言う時ににこりと笑うことはなく、ほとんど非難や罵倒に近いはずだ。面と向かって非難したり罵倒したりする時は、おもしろいなどとは思わず、たいてい怒り心頭の場合ではないか。

譲歩して、他人の悪口を言うのがおもしろいとする。それでも、なぜここに「嘘でも」と付け足さねばならないのかがわからない。「嘘でも」と言うかぎり「本当である場合は言うに及ばず」を前提としている。「A氏が禿げていてカツラをしている」のが真実だとして、その話を酒の肴にしておもしろがるのは悪口なのか。それが悪口かどうかは、A氏に聞かねばならない。陰で言われていることを知ったA氏が、寛容の人物なら「真実だから悪口じゃないね」と言うかもしれないし、禿げていてカツラを付けていることにコンプレックスを感じているなら「けしからん悪口だ」と憤るかもしれない。けれども、真実でないのなら、それは陰口でも悪口でもなく、ただの嘘である。

つまるところ、「他人の悪口は本当でも嘘でもおもしろく、自分の悪口は本当でも嘘でも腹が立つ」と言いたいのだろう。それなら、「他人の悪口はおもしろく、自分の悪口には腹が立つ」で事足りる。しかし、他人の悪口をおもしろいと思わず、自分の悪口にも腹が立たないぼくには当てはまらない。そこで、「他人の悪口をおもしろがる者は、自分の悪口には腹を立てる」と全文を書き直して、悪口好きな人間の話にしてしまえばいい。いずれにせよ、嘘と悪口の併せ技はちと欲張り過ぎた気がする。もし冒頭の随筆シリーズが『悪口』だとしたら、『嘘』で収録された随筆とはまったく違う作品が編まれたに違いない。嘘と悪口は別物なのである。

哲学のすすめⅢ

今でこそEUのお荷物的存在のギリシアだが、古代は思想、芸術、科学、都市、文化、スポーツなど万般において花盛りであった。今から二千数百年前の話である。東洋の古代思想界もギリシア同様に百花繚乱であった。これ以降の人類が、技術に実績を残してきたものの、知的進化、とりわけ人間性の鍛錬においてどれほどのことを成し遂げてきたのか、大いに懐疑しなければならないだろう。試みに東西を代表する哲学者・思想家を生年順に置いてみた。錚々たる顔ぶれをこうして並べてみると、末席のアリストテレスや孟子が若く見えてくるから不思議だ。

ピタゴラス          (前582年~496年)
孔子                   (前552年~479年)
ソクラテス          (前469年~399年)
釈迦                   (前463年~383年)
プラトン              (前427年~347年)
アリストテレス  (前384年~322年)
孟子       (前372年~289年)


哲学 アリストテレス

アリストテレスの『哲学のすすめ』の第四章と第五章では「技術」が一つのキーワードになる。目覚ましく進展する技術を開発当事者が持て余し気味の現代社会。アリストテレスの示唆にヒントがあるかもしれない。

技術によって生じるものはすべて、何かのために生じるのであり、この何かは技術にとっての最善の目的である。これに対して、偶運によって生じるものは、何かのために生じることはない。

最先端技術を駆使したドローンは「何か」のために開発された。その何かは元々攻撃や偵察であった。では、攻撃や偵察は最先端技術の最善の目的であるのか……こんなふうに考えてみる。いや、違う。誰の手でも制御できるように小型化した時点で、善用されるべき目的――普遍的な目的――を明確にすべきだったのである。意義深い目的のために開発されたものであっても、濫用に到れば偶然の産物と化す。偶然の産物に善なるものもあるだろうが、理知が働くことは稀である。アリストテレスは続ける……「技術は自然を補助し、自然がやり残したことを埋め合わせるためにあるのだ」。


第六章と第七章。これまでの繰り返しに近い内容である。もっとも、アリストテレスがこの一冊をこの順で書き下ろしたのではなく、「哲学・知識・知性・善」などを主題として断片メモを後世の人間が編纂したのであるからやむをえない。

「知る能力や知識を持ち合わせること」は必要である。しかし、これは可能性または潜在性のものであって、理知的であると言うには不十分である。「知識を用いること」が真の理知であり、現実性を帯びて顕在してはじめて必要十分となる。たとえば健康を目指して学ぶ健康の知識や摂取するサプリメントは可能性に過ぎない。健康になることそのものがより高位の善なのである。実践の知は読書よりも、また、幸せな現実の生活はインフラよりも、それぞれいっそう善に近く尊いのである。

哲学書を読むことよりも、哲学する日々の生活に意味がある。考えることは特別なものではなく、身近であり愉快であること、衒学的な知を格納するのではなく、生活の知としてユーモアを交えて楽しむこと……こんなふうに『哲学のすすめ』の着地点をぼくなりに定めた次第である。最後にアリストテレスのことばで締めくくっておくことにする。

「哲学することは幸福に深いかかわりをもつ」

「最も支配的なものは卓越性〔理知〕であり、すべてのものの中で最も楽しいものである」

《完》

哲学のすすめⅡ

ルネサンス時代のイタリアの画家ラファエロに『アテナイの学堂』という大作がある。どの人物が誰なのかすべて特定されていないが、ここにはギリシアの哲学者や門弟たちが描かれている。そして、それぞれの人物像にルネサンス当時の著名人がモデルとして対応しているらしい。

2アテナイの学堂(ラファエロ)

絵の中央部分を拡大すると、そこにソクラテス、プラトン、アリストテレスが描かれている。ソクラテスとアリストテレスのモデルは不詳だが、プラトンのモデルはㇾオナルド・ダ・ヴィンチというのが定説だ。興味深いのは、師弟関係にあったプラトンとアリストテレスのポーズである。イデアを哲学の原点に据えたプラトンの右手人差し指が天をついているのに対し、アリストテレスの右手の手のひらは地に向けられている。二人の様子から、「つまるところ、イデアだろ?」というプラトンに、「いや、あくまでも現実です」とアリストテレスが応じているような雰囲気が漂う。

閑話休題。さて、そのアリストテレスの『哲学のすすめ』の第二章と第三章を読解してみよう。第二章は第一章を小さく敷衍する形になっている。次の文章が主題文である。

もし人間が本来多くの能力から合成されてできているとすれば、人間が本性上成し遂げることのできるもののうち、最善のものがつねにその固有の働きであることは明らかだ。たとえば、医者の固有の働きは健康であり、舵手の働きは安全であるように。

どんなに複合的な能力が自分に備わっていても、単なる足し算では話にならない。自分にとって最も重要なコミットメントに独自に働きかけなければならないのである。自分が何業であるかという職分の意識を持ち、理知と賢慮を最高善のために働かせるということだ。「あなたの仕事はどんな善の実現のために存在するのか?」と問われて、一言で即答するのは容易ではない。


第三章では理知を欠くことを嘆く。今の時代に幅をきかせ始めた反知性主義、あるいは現代人が陥りがちな思考停止状態への警告としても読める。2400年前の指摘なのに、色褪せているようには思えない。

たとえ人が一切のものを持っていても、思考する力に欠陥があり病的であるとするなら、その人の生は望ましいものではない。(……) 観照的に哲学すべきである。そしてできるかぎり、知識と知性に則した生を生きるべきである。

いかに専門性の高い技術を身につけたとしても、あるいは人脈や財産に恵まれたとしても、自分の頭で考えていないのなら幸せな人生にはならないという。思考が主体的に生きることを可能にする。その他のすべてのものは思考を核としてはじめて固有の価値になる。「観照」とは聞き慣れないことばだが、「感情的にならずに、あくまでも冷静に人生や自然や美などの抽象概念について思索すること」を意味する。当然、こんなことは面倒だから、人は安易に反応的で受動的な感性にすがりたくなる。「線の思考」よりも「点の思いつき」で生きれば、誰だって幼稚なモラトリアム人間のまま大人になっていくだろう。

考えるということを本を読んだり調べたりすることだと錯覚している人がいる。ぼくの仕事である企画は思考行動以外の何物でもないのに、調査や情報収集だと思っている人がいる。自称「考える人」も、思考というものは独り沈思黙考することだと信じて疑わない。しかし、ぼくたちは腕を組んで独りで考えることなどできないのである。人は対話を通じてよりよく考える。哲学することと対話することは不可分の関係だ。対話不足の職場に思考の広がりや深まりを期待できるはずもない。

人には〈センスス・コムニス〉が備わっている。共通感覚のことである。共通感覚によって人は他者のことを顧慮することができる。自分自身を他者に置き換え、他者を自分に置き換えることができる。これが人間関係の基本だ。このことを踏まえれば、感情的にカリカリせずに理性的に対話することは可能なのである。 

《続く》

哲学のすすめⅠ

「デカンショ」と言えば、デカルト、カント、ショーペンハウエル。哲学青年の間で合言葉になり歌になった時代がある。近代哲学の人気御三家というところか。ギリシア哲学の古典的草分け御三家となると、「ソプラアリ」で異論はあるまい。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは「同門の直系三代」である。ソクラテスの本は一冊も読んでいない。読んでいないのはぼくだけではない。誰も読んでいない。なぜなら著作がないからである。ソクラテスの思想についてはプラトンの一連の著作によって知りうるばかりだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』

さて、「哲学のすすめ」というタイトルにしたのはぼくの動機ではない。アリストテレスの『哲学のすすめ』について紹介する機会があったので、そのまま流用した次第。どんな哲学の本を読めばいいかと知人に尋ねられ、ぼくが答えていいものかどうかも考慮せず、入門の一冊として紹介したのがこの本だった。二年前に書評会で取り上げた、比較的とっつきやすい一冊のつもりである。但し、買うには及ばないと思い、「ぼくがまとめた文章があるから、これを読んでみたら」と告げて書評を差し出した。

小説を耽読していた反動だと思うが、三十数年前から哲学を読むようになり今もその遍歴が続いている。書かれていることを覚えることにさほど関心はない。では、何のために読むかと言えば、考えるヒントにするためである。あくまでも個人的な読書習慣であって、他人様に哲学書を勧めることはほとんどしない。デカンショのカントが「人は哲学を学ぶことはできず、哲学することを学びうるのみである」と唱えた通り、哲学すること、つまり、知を尊んで考えることに意味を見い出す。アンチエイジングの一手段かもしれない。『哲学のすすめ』の書評をもとに3回に分けて書いてみることにした。


アリストテレスの著作はやさしくない。哲学の専門家に向けられた論文や講義草稿の大半は形而上学的な理屈で書かれ、時には閉口し本を閉じてしまいたくなることさえある。一般向けに著された書物はほとんどなく、この一冊が唯一の例外と言ってよい。本書は、前4世紀頃に書かれた断片メモを掻き集めて後年編纂されたもので、原題は『プロトレプティコス』。まるで恐竜の名前のようで、うっかりすると舌を噛みかねない。ギリシア語で「勧告」という意味らしいが、さしずめ「やさしい哲学(知恵への愛)入門」というところだ。

われわれの対話の相手は人間であって、その神的な生の分け前を意のままにできるような方々ではない。だから、この種のすすめの言葉には政治的実践的な生への忠告を混ぜ合せなければならない。

これが第一章の冒頭である。凡人相手に哲学を語るときは、政治や有益な生の過ごし方をからめるべきだと言う。政治をからめたら余計に難しくなるのではないかと危惧するが、現代と違って、この時代のギリシアでは政治が(そして対話が)生活に身近な存在だったのである。では、どんな知識が存在し、どの知識が特に重要だとアリストテレスは説いたのか。

① 生活に便利な知識  vs  その知識を活用する知識
② 奉仕する知識  vs  命令する知識

このように対比した上で、①と②のいずれも下線部のほうに軍配を上げている。①では何が語られているか。生活に便利な知識を、たとえば「料理に関する知識」としてみよう。これは蓄えた知識である。この蓄えた知識を「実際においしい料理に仕上げる知識」こそが重要なのである。後者の知識はもはや「知っている」ではなく、「実践できる」という意味に限りなく近い。②はどうか。提供するだけに止まらない知識、つまり、人に指示し人を動かす知識の優位性である。「主体的で統率的な力を持つ知識」と言ってもいいかもしれない。

アリストテレスによれば、このような実践性にすぐれた知識の内においてのみ真の意味での「善」が存在する。善はアリストテレス哲学の重要なキーワードである。人は理性を発揮して正しく判断しなければならない……そして一切の感情を捨てて冷静に善について思索しなければならない……これを一言化したのが《フロネーシス》なのだろう。理知または賢慮と訳されるこの概念は、幸福と並んで、最高の善と見なされた。アリストテレスにおいては、フロネーシスこそが優れた人物の証だったのである。 

《続く》