哲学のすすめⅡ

ルネサンス時代のイタリアの画家ラファエロに『アテナイの学堂』という大作がある。どの人物が誰なのかすべて特定されていないが、ここにはギリシアの哲学者や門弟たちが描かれている。そして、それぞれの人物像にルネサンス当時の著名人がモデルとして対応しているらしい。

2アテナイの学堂(ラファエロ)

絵の中央部分を拡大すると、そこにソクラテス、プラトン、アリストテレスが描かれている。ソクラテスとアリストテレスのモデルは不詳だが、プラトンのモデルはㇾオナルド・ダ・ヴィンチというのが定説だ。興味深いのは、師弟関係にあったプラトンとアリストテレスのポーズである。イデアを哲学の原点に据えたプラトンの右手人差し指が天をついているのに対し、アリストテレスの右手の手のひらは地に向けられている。二人の様子から、「つまるところ、イデアだろ?」というプラトンに、「いや、あくまでも現実です」とアリストテレスが応じているような雰囲気が漂う。

閑話休題。さて、そのアリストテレスの『哲学のすすめ』の第二章と第三章を読解してみよう。第二章は第一章を小さく敷衍する形になっている。次の文章が主題文である。

もし人間が本来多くの能力から合成されてできているとすれば、人間が本性上成し遂げることのできるもののうち、最善のものがつねにその固有の働きであることは明らかだ。たとえば、医者の固有の働きは健康であり、舵手の働きは安全であるように。

どんなに複合的な能力が自分に備わっていても、単なる足し算では話にならない。自分にとって最も重要なコミットメントに独自に働きかけなければならないのである。自分が何業であるかという職分の意識を持ち、理知と賢慮を最高善のために働かせるということだ。「あなたの仕事はどんな善の実現のために存在するのか?」と問われて、一言で即答するのは容易ではない。


第三章では理知を欠くことを嘆く。今の時代に幅をきかせ始めた反知性主義、あるいは現代人が陥りがちな思考停止状態への警告としても読める。2400年前の指摘なのに、色褪せているようには思えない。

たとえ人が一切のものを持っていても、思考する力に欠陥があり病的であるとするなら、その人の生は望ましいものではない。(……) 観照的に哲学すべきである。そしてできるかぎり、知識と知性に則した生を生きるべきである。

いかに専門性の高い技術を身につけたとしても、あるいは人脈や財産に恵まれたとしても、自分の頭で考えていないのなら幸せな人生にはならないという。思考が主体的に生きることを可能にする。その他のすべてのものは思考を核としてはじめて固有の価値になる。「観照」とは聞き慣れないことばだが、「感情的にならずに、あくまでも冷静に人生や自然や美などの抽象概念について思索すること」を意味する。当然、こんなことは面倒だから、人は安易に反応的で受動的な感性にすがりたくなる。「線の思考」よりも「点の思いつき」で生きれば、誰だって幼稚なモラトリアム人間のまま大人になっていくだろう。

考えるということを本を読んだり調べたりすることだと錯覚している人がいる。ぼくの仕事である企画は思考行動以外の何物でもないのに、調査や情報収集だと思っている人がいる。自称「考える人」も、思考というものは独り沈思黙考することだと信じて疑わない。しかし、ぼくたちは腕を組んで独りで考えることなどできないのである。人は対話を通じてよりよく考える。哲学することと対話することは不可分の関係だ。対話不足の職場に思考の広がりや深まりを期待できるはずもない。

人には〈センスス・コムニス〉が備わっている。共通感覚のことである。共通感覚によって人は他者のことを顧慮することができる。自分自身を他者に置き換え、他者を自分に置き換えることができる。これが人間関係の基本だ。このことを踏まえれば、感情的にカリカリせずに理性的に対話することは可能なのである。 

《続く》

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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