ちょうどいい数字

咲き誇る吉野のシロヤマザクラがテレビの画面に映し出されている。「その数、なんと3万本!」とナレーターが言い切っている。えらく正確に数えたのだと皮肉る気はないが、もし賭けの対象にするなら「ぴったり3万本」に賭ける気はしない。あらためて言うまでもなく、3万本というのは概算に決まっている。

「沿道には1万人の見物客が集まっている」と報道されても、ちょうど1万人だとは誰も思わない。おおよそ1万人である。では、約9,950人でも約10,180人でもよさそうなものだが、決してそんな「中途半端な数字」を発表することはない。報道する側も報道される側も「ちょうどいい数字」のほうが落ち着くのである。
 
「今年でちょうど40才になりました」と言う人はいるが、「今年でちょうど37才になりました」とは言わない。そう、40がちょうどいい数字なら37はちょうどいい数字ではない。その40にしても、1050100に比べると「ちょうど感」がやや薄まってしまう。
 

 十進法では1210よりも中途半端なのに、一日の時間は十二進法であるから、12時がちょうどいい時刻に見えてくる。1時間や60分がちょうどよく、1分や60秒もちょうどよい。時を十二進法で刻み、分秒を六十進法で刻むという使い分けにぼくたちはすっかり慣れていて、器用に1260をちょうどいい数字として使いこなし、しかも違和感を覚えないのである。
 
ぼくが生まれてから60余年を経たが、これまで同様に、また、これから先、何万年も何百万年も地球の歴史は46億年であり続けるのだろう。こんな気の遠くなる数字に精度を求める気はしない。46億分の60は「ほぼゼロ」であるから、これでいいのである。中国の歴史もずっと四千年で来ているが、こちらは微妙だ。四千年に占める60年は1.5パーセントに相当するから、これを黙視していいのかどうか。
 
同じ文化圏にいる人々の間では、ちょうどいい数字や中途半端な数字に対する共通観念がある。それでも、人それぞれの都合で微妙にズレが生じる。「777」などは700よりも中途半端だが、ある人たちにとってはこれが「ちょうどいい」。区切りのよさだけではなく、並びのよさもちょうどいい数字の要件を満たす。一万円札を渡す。レジ係が「お釣りのほう、ちょうど1,219円になります」と言えば、かなり不自然である。しかし、レジ係の誕生日が「1219日」だったら、これ以上のちょうどはない。偶然の一致もちょうどいい数字になるからおもしろい。
 
自然や社会を理解しやすいように言語で分節するのが人間の習性である。数字を言語の仲間あるいは変種と見なすなら、数字には時間や価値や変化を都合よく解釈する分節機能が備わっている。ちょうどいい数字は人間の編み出した分かりやすい表現方法なのである。

語句の断章(20) 隠れ家

今時の「隠れ家かくれが」は必ずしもその姿を隠して佇んではいない。とりわけ「隠れ家的な」と形容される食事処や宿は、隠すどころか、逆に露出を売りにしている。元々は一部の客だけに知られていたのだろうが、常連が「落ち着いた雰囲気の店があるんだよ」と口走り吹聴することによって有名になってしまった。 

樹木の陰にあって表立たず、めったに人が来ない隠れ家では、大ぴっらに商売などせずに、隠遁者が忍ぶように寝起きしているに違いない。しかし、残念なことに、今では兼好のような徒然の生活者はほとんど存在しない。

隠遁者の住む場所という意味では、フランス語の「エルミタージュ(ermitage)」もぴったりだ。隠れ家とはずいぶん語感が違うが、意味はほぼ同じ。ロシアのエルミタージュ美術館にしても、元を辿れば一般には非公開の私的美術展示館だったのである。

時々近くを歩くものの、未だ一度も階段を下りて覗いたこともないショットバーが自宅から歩いて十数分のところにある。明るい時間帯は当然営業していないから、昼間だとほとんど気づかない。実際、ぼくがこのバーの存在に気づいたのは、ある月夜の午後7時過ぎだった。地下部分にあるこの店、一見いちげんさんが入りにくい雰囲気を漂わせ、まさに隠れ家的と呼ぶにふさわしい。もしかしてアンニュイなエルミタージュなのだろうか。
図書の損傷で話題になったアンネ・フランクと彼女の一家は、アムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地に身を隠していた。場所を知られてはいけないという意味では真の隠れ家であった。しかし、自ら望んだはずもなく、見つかれば最後という恐怖から解放されることのない、絶望的なまでに残酷な空間であった。
狭くてもいいから自宅にプチ隠れ家を持ちたいと、ぼくらの世代までの男どもは思ったものである。何のことはない、趣味や読書に興じる書斎のことだ。そこに閉じこもって、しばしの間、雑音と雑事から逃れたい……机一つに小さな本棚があれば御の字、その狭い空間で極上の時間を過ごしてみたい……それは一つの夢だったはずだ。先日、「書斎を持ちたいと思う人?」と研修時間中に聞いてみたら、一割も手を挙げなかった。書斎という隠れ家が何かと便利だということに当世の若者たちは想像が及ばないのだろうか。

ありふれた街角風景

関空から直行便でウィーン国際空港に着き、列車で市内に入った。夜は更け始めていた。ホテルでチェックインを済ませるとすぐに街なかに飛び出した。季節は3月だというのに、冬を引きずっているような底冷えに身が縮む。レストランを品定めしながら歩いてみたが、長旅の疲れのせいか食欲を刺激するメニューに出合わない。ホテルに引き返し、持参したカップヌードルに湯を注いだ。11年前のことである。 

翌日も身体の芯まで沁みるほどの寒さだった。幸い、陽が出ていた。わずか3日間の滞在だから、予定していた名所巡りをしておこうと朝早く出掛けることにした。次の日には季節外れの大雪に見舞われ機動力が大幅にダウンしたので、結果的にはこれが正解だった。さて、23日の滞在旅程の中日なかび、ウィーンのどこをチェックするか……。
 
まずはオペラ座界隈を散策してみよう。シェーンブルン宮殿は必須だ。新旧あるドナウ河にドナウ運河も見逃せない。ほかにも片手では足りないほどの候補がある。その一つがデザインが個性的なフンデルト・ヴァッサーハウス。欲張れば長いリストが出来上がる。ずいぶん思案して、これを捨て切れず、市内循環のトロリーバスに飛び乗った。フンデルト・ヴァッサーハウスは1972年に建設された公共住宅で、斬新なデザインで世界から注目された建築群である。
 

ガイドブックと地図を片手に名所を巡る。何度も足を運べない外国の街を訪ねると、張り切って強行日程を組むのは当然の流れ。まるで仕事のようなノルマ設定になりかねない。その結果、写真アルバムは名所の画像で溢れ、どこにでもありそうな無名の街角や通りの写真が抜け落ちる。カメラの被写体にもならなかった街角は、やがて記憶からもすっかり抜け落ちる。 
ローマに行ってコロッセオを見ず、バルセロナに滞在しながらサグラダファミリアを見ずに帰ってくるのはかなり勇気がいる。画像や動画で見るのと、この目で実物を見るのとでは天と地ほど印象が違ってくる。それでもなお、敢えて名所の一部を足早に駆け巡るか、いっそのこと思い切って捨ててしまうべきなのだ。なぜなら、歴史地区の名所なら、写真集やテレビの企画番組などで何度も振り返ることができるからである。
 
ウィーンの街角.jpg観光客からすれば取るに足らない、名を知られることもない風景に視線を投げる。写真に収めても、そこに固有名詞を思い起こすヒントはなく、おおよそのロケーションをうろ覚えしている程度。フンデルト・ヴァッサーハウスは以来何度も画像と動画で見た。他方、そこからさほど遠くないトロリーバス通りのありふれた街角は、番組取材で被写体になることはまずないだろう。しかし、観光とは「景をる」ことではないのか。別に名所に限った行動ではない。しばし観光客の目線を生活者の目線に変えてみると、ありふれた光景が得がたい旅の思い出を刻んでくれる。ブランド以外のどんな風景を見るかというのも旅の醍醐味だ。

考えること少なき者は過つこと多し

中学を卒業するまでは手習いをしていた。好きも嫌いもなく、親に勧められるままに書道塾に通い、師範について6年間指導を受けた。しかし、実は強く魅かれていたのは絵のほうだった。受験勉強そっちのけで絵ばかり描いていた時期がある。まったくの我流だったけれど、書道で教わった筆の運びが少しは役立ったようである。

絵描きになりたいと本気で思ったこともあったが、高校生になって筆を置き、鑑賞する側に回った。やがて天才ダ・ヴィンチに憧れるのもやめた。憧れるとは「その人のようになりたい」であるから、憧れから畏敬の念にシフトしたのは我ながら賢明な判断だったと思う。

ルネサンス期に芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリや19世紀のポール・ヴァレリーなどの高い評価もあって、レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」として人口に膾炙した。そして、最たる天才ぶりは絵画においてこそ発揮されたとの評論が多い。空気遠近法や輪郭を描かないスフマート法などを編み出し、いずれの作品も世界遺産級の至宝だ。それでも、37歳で他界したラファエロの多作ぶりに比べれば、ダ・ヴィンチは寡作の画家と言わざるをえない。作品は20あるかないかだろう。そのうち、幸運なことに、『受胎告知』と『キリストの洗礼』(いずれもウフィツィ美術館)、『白貂を抱く貴婦人』(京都市美術館)、『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』(ルーブル博物館)をぼくは生で鑑賞している。


ミラノで『最後の晩餐』を見損なったことには後悔している。悔しさを紛らせるためにレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館を訪れた。晩餐に比べたらおやつ程度だろうと覚悟していた。結果は、期待以上だった。博覧強記を裏付ける草稿や実験スケッチと記録、設計図等の足跡が所狭しと展示されていた。音楽に始まり、科学から軍事の構想まで、あるいは発明から解剖に至るまで、好奇心のまなざしを万物に向けたことが手に取るようにわかる。数々の業績のうち絵画こそダ・ヴィンチの最上の仕事という通説でいいのか……博物館に佇みながら、ぼくは別の才能に目を向け始めていた。それは、思考する力、そしてそれを可能にした言語の才である。

レオナルド・ダ・ヴィンチ.jpg岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は、今も繰り返し読む書物の一つだ。ものの考え方や処し方について、色褪せることのない普遍的な名言がおびただしく綴られている。これぞというのを選んで、怠け癖のある若い人たちに薀蓄したこともある。「ぼくの言うことなど聞いてもらえないだろうが、歴史上の天才の声に真摯に耳を傾けてはどうか」と持ち掛けるのだ。その一つが「考えること少なき者はあやまつこと多し」である。深慮遠謀してうまく行かないこともあるが、ほとんどの失敗は思考不足もしくは浅はかな考えに起因する。

いつの時代もどこの国でもそうだが、物事がうまくいかなくなると「理性に偏るな、下手な考え休むに似たり」などという声が高らかになる。人が人として成り立っている唯一とも言うべき理性と思考を、悪しきことや過ちごとの責任にしてしまうのである。そこで、ぼくは問いたい。それは理性を十全に発揮し限界まで考え抜いてこその恨み節でなければならないのではないか。浅瀬の一ヵ所で考えて引き返してくる者に思考の無力を述懐する資格はない。ここは素直にダ・ヴィンチの言葉に従いたい。願わくば、だらだらと一つ所で深掘りばかりして考えずに、複眼的に見晴らしよく考える癖をつけたいものである。

コミュニケーション――その用語検証

コミュニケーション.jpg〈プラスチックワード(plastic word)〉が注目されている。ドイツの言語学者ベルクゼンが問題提起した造語だ。何かしら重みのある内容を伝えているような趣があるが、その実、プラスチック製のおもちゃのブロックみたいに変幻自在に姿や形を変えて他の語句と結びつく用語である。あいまいなくせに、いかにも意味ありげな文章を作り上げてしまうという、困った特徴を持つ。

たとえばグローバルがそれであり、アイデンティティやシステム、マネジメントやソリューションも仲間である。カタカナが多いのは提唱者がドイツ人だからだろうが、日本語に訳せば、他に情報、価値、構造、問題、成長などもリストに入るという。ぼく自身もプラスチックワードの常用者であることを認めざるを得ず、とても後ろめたい気分になる。プラスチックという語感の、安直で本物ではないという響きゆえだろうか。

コミュニケーションという術語もその一つだと知るに及び、心中穏やかではなくなった。かなり頻度の高い常用語であるから、「ランチにでも行くか」と同じような気楽さで「もっとコミュニケーションを取ろう」などと誰もが言っている。だが、ランチはプラスチックワードではない。

ランチと呼ばれる〈記号表現シニフィアン〉には明確な〈記号内容シニフィエ〉が対応する。うな丼であれステーキであれ、ざるそばであれ担担麺であれ、ランチは目に見える料理として特定され、口に入れて胃袋におさめるという行為までを具体的に指し示す。これに対して、コミュニケーションということばが意味する記号内容は、人それぞれに異なり変幻自在。要するに、表現者の意図した内容として伝わっていそうもないのである。


いつの頃からだろうか、コミュニケーションは伝達とほぼ同義に扱われるようになった。話したり書いたりする側の行動という意味に変化して現在に至る。つまり、聴いたり読んだりする側の視点がコミュニケーションからすっかり欠落しているのである。と同時に、何かの目的のための手段と見なされてもいる。たとえば、親睦のためのコミュニケーションという具合に。さらには、言語もとばっちりを食って、コミュニケーションのための道具や衣装とされてしまった。言語はコミュニケーションのため、そして、コミュニケーションは何か別のためのものであるという図式である。

何でも語源に遡ればいいとは思わないが、プラスチックワードの最右翼という烙印を押されてしまったコミュニケーションの名誉回復のために、原点を確かめてみるのは無駄な作業ではないだろう。このことばはもともと「共通」という意味であった。たとえば、ラテン語で“sensus communis”と言えば〈共通感覚〉だが、その共通のことである。共通というかぎり、何において共通なのかが示されねばならない。「誰においても」ということだ。誰においてもが極端なら、あるコミュニティの関係者としてもいい。その関わる人々の間で「あることの意味が共有されている状態」である。「今日の午後6時に例の喫茶店で待ち合わせよう」とさんがさんらに告げたら、「今日、午後6時、例の喫茶店、待ち合わせ」という概念と意味が全員で共有されなければならない。そうでなければ、人間関係が成り立たなくなってしまう。

こうして考えてみると、コミュニケーションが単なる道具であるはずもなく、何かの目的のための手段であるはずもないことがわかる。人が他人と生きていく上で、他に代案のない、本質的で究極の行動にほかならない。アリストテレスが「何のための幸福かなど問えない」と語ったように、何のためのコミュニケーションかを問うことなどできないのである。高度な言語とコミュニケーションは人間社会の生命線と言っても過言ではない。このことを強く認識するとき、他の用語はいざ知らず、コミュニケーションということばを安っぽいプラスチックのように弄んではいけないという賢慮と良識が働くだろう。

文体と表記のこと

二十代の終わりに転職して数年間、その後創業してからも十年間、合わせると二十年近く国際広報に従事したことになる。日本企業の海外向けPRであり、具体的には英文の執筆・編集の仕事をしていた。英語圏出身の専門家との協同作業だが、英文スタイルや細かなルールについては意見がぶつかることが多かった。カンマを打つか打たないか、セミコロンでつなぐのか、この箇所の強調にはイタリック書体を使うのか、一文を二文にするのか……など、最終段階では単なる文字校正以上の調整作業に疲れ果てたものだ。

英語は日本語に比べて、一般的に文型が変化しにくい。中学生の頃に習った、例の五文型を思い起こせばわかる。S+VS+V+CS+V+OS+V+O+OS+V+O+Cの五つがそれである。S=主語、V=動詞、O=目的語、C=補語の四要素のすべてまたはいずれかを組み合わせるわけだが、どんな文型になろうと、主語と動詞がこの順で配列される。目的語と補語も動詞の特性に従属する。動詞が文型の構造を決定するのである。文型が五つしかないのだから、英語は数理的な構造を持つ言語と言ってもいい(と、拙著『英語は独習』でも書いた)。

シカゴマニュアル.jpgのサムネール画像例文紹介を割愛して話を進める。単文の文型なら文章は動詞によってほぼ支配されるから、極端なことを言うと、簡潔に書けば誰が書いても同じ文章になる。にもかかわらず、編集者やライターはなぜ通称『シカゴマニュアル』(The Chikago Manual of Style)という、900ページもの分厚い本を手元に置いて参照するのか。よくもここまで詳述するものだと呆れるほど細目にわたって文体や表記のありようを推奨しているのである。察しの通り、文章は単文だけで書けない。必然複文や重文も入り混じってくる。さらに、記事になれば一文だけ書いて済むことはない。段落や章立てまで考えねばならない。こうして、文体や表記の一貫性を保つために気に留めねばならないことがどんどん膨らんでいくのである。


文体や表現にもっと融通性があるはずの日本文のルールブックは、シカゴマニュアルに比べればずいぶん貧弱と言わざるをえない。一見シンプルな構造の英文に、それを著し編む上で極力準拠すべきルールがこれほど多いことに衝撃を覚えた。ぼくは話し聴くことに関してバイリンガルからはほど遠い。つまり、日本語のほうが楽であり英語のほうが苦労が多い。しかし、こと英文を書くことに関してはさほど苦労しなかった。それでも、スタイル面での推敲にはかなり時間を費やさねばならなかったし、同僚のネイティブらとああでもないこうでもないと話し合わねばならなかった。アルファベット26文字で五文型しかない言語なのに……。いや、そうであるがゆえに重箱の隅をつつく必要があるのかもしれない。

ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットが混在し、縦書きでも横書きでも紙誌面の構成ができてしまう日本文。そこに一貫性のあるルールを徹底的に適用しようと思ったら、すべての文章にひな型を用意しなければならなくなるだろう。際限などあるはずもない。ワープロの出現によって書けない漢字を変換する便利さを手に入れたが、はたしてその漢字を読者が読み判じることができるかにまで気配りせねばならない。マニュアルに基づいてそんなことをしていたら文章など書けなくなってしまうだろう。

日本語にあって英語にないものを列挙すればいくらでもある。それほど二つの言語は異なっている。とりわけ漢字とふりがなの存在が両者の間に太い一線を画する。たとえば“hippopotamus”と英語で書いて、それが読めなくても発音記号を付けることはない。日本語では「河馬」と書いて「かば」とふりがなを付けることができる。いや、本文で「かば」と表記してもいい。このとき「カバ」という選択肢もある。しかも、河馬と書いて「バカ」というルビを振る芸当までできてしまう。そう、まさにこの点こそがスタイルブックにいちいち準拠するわけにはいかず、書き手の裁量に委ねられる理由なのだ。

顰蹙を買う」とするか「ひんしゅくを買う」とするか、ちょっと斜に構えて「ヒンシュクを買う」とするか……。顰蹙などと自分が書けもしない漢字をワープロ変換ソフトに任せて知らん顔してもいいのか。時々神妙になってキーを叩けない状態に陥る。英語では知らない単語は打ち込めない。そして、自力で打ち込めるのなら、おそらく意味はわかっているはずである。ワープロ時代になって困ったことは、書き手自身が書けもせず意味も知らない表現や漢字を文章中に適当に放り込めるようになったことだ。手書きできる熟語しか使ってはいけないという制限を受けたら、現代日本人の文章はかなり幼稚に見えてくるだろう。

ところで、顰蹙は何度覚えてもすぐに忘れる。ひらがなで書くか別の用語を使うのが無難かもしれない。他に、改竄かいざんも「改ざん」でやむをえず、放擲ほうてきも時間が経つと再生不可能になる。憂鬱などはとうの昔に諦めていて、「ふさぎこむ」とか「憂う」とか「うっとうしい」などと名詞以外の品詞で表現するようにしている。

若者よ、もっと屁理屈を!

屁理屈.jpg二年ほど前に「もう少し議論してみないか」という記事を書いた。「たまにでいいから、大樹に寄らない姿勢、長いものに巻かれない覚悟、大船に乗らない勇気を。同論なら言わなくてもよく、異論だからこそ言わねばならないのである」と結んで、論議にあたっての精神のありようについて触れた。

最近の親もわが子に「屁理屈を言うな!」と口うるさく言うのだろうか。会社の上司は若い部下がこねる理屈に一言注意をするのだろうか。ぼくの幼少期から青年期にかけては、当たり前のように耳にしたものである。半世紀以上生きてきた人なら、子どもの頃に屁理屈を言うなと親からたしなめらたことがあるに違いない。反抗期を迎えて、屁理屈を咎められ、「屁理屈じゃなくて理屈だよ」などと反発したりすると、「それを屁理屈と言うんだ」と浴びせられる……そんな経験を一度ならずしたに違いない。

屁理屈でも理屈でも呼び方はどっちでもいい。もう一歩踏み込んで言うべきところで、言わないほうが無難だと刷り込まれるのは不幸である。社会に出ると、自分の親と同じことを諭す先輩や上司がそこらじゅうにいる。強引な屁理屈は封じ込められるし、喉元まで出てきたまっとうな理屈さえ呑み込んで我慢させられる。これに順応してしまうと、人は寡黙という差し障りのない処世術を身につける。そんな若者たちが今どんどん量産されている。


 ほんの少し論理的に考えてみれば、テーゼという意見があれば必ずアンチテーゼという異種意見がありうることに気づく。論理的に考えるなどと言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、ちょっと冷静になればいいだけの話である。どんな事柄にもイエスとノーという価値判断があって意見が対極に分かれる。人間は多様性の生き物なのだから、イエスとノーの間でもさらに意見がかぎりなく分岐する。

 多様な意見をみんなが好き勝手に言い放つか、言っても仕方がないので黙るか……いずれにしても不器用な対処である。意見を好き勝手に言わない、言うのなら必ず理屈をくっつけようというほうがずっと健全なはずだ。技術の巧拙はさておき、意見の背後にある理屈を述べるのは理由や論拠を持ち出して説得しようとする試みではないのか。「あなたはこの意見についてどう思うのか?」と聞かれて、心底ノーなのに、相手の顔色を見ながらイエスで済ましていれば、理屈を並べる機会を失い、口数が少なくなってしまう。しかし、鬱憤と我慢が限界を超えて卓袱台をひっくり返すのは、たいてい普段屁理屈を言わない連中なのである。

 ディベートの教えに「言いたいこと、言うべきことは先に言っておく」というのがある。だから、「立論」と呼ばれる冒頭スピーチで、意見の全体と理屈と拠り所となる証拠を述べるようになっている。これで論が一応立つわけだ(立ったはずの論は、相手の反駁を受けて倒れるかもしれないが……)。もう一つ、「主張する者に証明の義務がある」というのもある。証明とは、つまるところ、理屈を言うことだ。それゆえに、親であろうと子であろうと、上司であろうと部下であろうと、先に意見を言い出したほうが理屈を述べ、その理屈に対しては「理屈はわからん」とか「屁理屈を言うな!」で片付けてはいけないのである。

意見を交わす、理屈を言い合うことを人生一大事のように肩肘張って考えることなどない。議論に馴染んでいけば、それは相互理解のための軽いジャブの応酬だということがわかるようになる。入社式シーズンの今、社長が社員に求める筆頭のスキルはコミュニケーションらしいが、そんなわかったようでわかりにくい言葉を持ち出すのではなく、「若者よ、もっと屁理屈を!」と訓示すればいいのだ。もっとも屁理屈はコミュニケーションなどではないと考えているのなら、社長、あなたこそ勉強し直すべきである。

一つの正解の非現実性

一問多答.jpg「一つの問いに対応する唯一の答え」というケースが現実にないわけではない。簡単な例で言えば、「22を足すといくつになるか?」という一つの問いには「4」という、ただ一つの答え(正答)が対置する。「アメリカ大陸は西暦何年に発見されたか?」への答えは「1492年」であり、少なくとも学校世界史においてはそれだけが唯一の正答であり、それ以外はすべて誤答ということになる。 

わが国の教育制度に十代後半までどっぷり浸かってきた青少年は、当面の正答欲しさ――ひいては成績のため――ゆえに、このような一問一正答方式をいぶかることはなかった。では、教育現場では一問一正答という形式がなぜ成り立っているのか。一つの問いが示されてから答えが生まれるからではない。むしろ、すでに唯一絶対の答えが確定しているところに後付けで問いが作られて一問一正答が出来上がる。たとえば、コロンブスという答えを出させたいがために、「誰がアメリカ大陸を発見したのか?」という問いが発案される。要するに、教師が答えを知っているから成り立つ形式なのである。

さて、一問一正答に慣れきった学生は、その一答が正しいと認められて歓喜する。あるいは、誤っていると指摘されて悔しがる。こういう単純な正誤評価を当たり前と信じたまま、学生は学校を出て実社会に船出することになる。ここでも問いが提示され、それが一つであることも稀ではない。しかし、「誰が、いつ、どこで、誰に、何を」などという過去に関する事実探しは二者間の問答としてはほとんど生じなくなる。これらは、知らなければ「調べれば済む」という調査の対象に切り替わるのである。実社会では「誰が、いつ、どこで、誰に、何を」という問いは、不確定の未来に仮定的に向けられる。そして、さらに不確定な「なぜ、どのように」が頻繁に問われる。ここに到って、一問一正答方式の出番は激減し、一問多答もしくは多問多答という形式が優勢になってくる。


ぼくの従事する企画という仕事では、誰も近未来の答えを知らないことが前提にある。にもかかわらず、「これは正解でしょうか?」と、いつも不安な顔をしてぼくに尋ねてくるスタッフがいた。たとえば「この商品のターゲットとしてどんな顧客を想定すればいいだろうか?」とぼくが問えば、彼は机に戻ってしばらく考えてから、「こういう顧客を想定しました。間違いありませんか?」と聞いてくるのだった。 

「きみ、ぼくが近未来の事柄について知っているはずがない。ぼくには正答がわからない。いや、正答なんてそもそもないのかもしれない。きみが想定した顧客が一つの答えとして成り立つかどうかは、きみの理由づけや説明の妥当性次第なんだ。そして、そのことについて二人で論じ合ってはじめて『答えらしきもの』が仮説的に定まるのだよ」と返事したものである。ぼくの一問には複数の答えがありうる。そして、ぽつんと提示するだけでは答えは有効にはなりえない。数ある答えのうち、自分が選んだ答えに理由と説明を加えて蓋然性を高めてやらねばならない。すでに存在する正答を発見するのではなく、正答を創造するというのが本筋なのだ。

ヒナがあんぐりと口を開けてエサを待つように、一つの問いが上司や顧客から投げられるのを待つ。しかも、その一つの問いに必ず一つの正答があると信じ切ってあれこれと考える。そんな正答発見型の頭の使い方でいいのなら、調査能力に長けた人材が一人いればいいことになる。実際、嘆かわしいことだが、創意工夫が求められる仕事でありながら、依然として調べ上手が重宝されている組織が少なからずある。

一問多答、そして多答からもっとも蓋然性の高そうな答えに絞り込んでいく。こうでなければ一人前のプロフェッショナルになりきれない。この先には、多問多答が当たり前の複雑怪奇な場面が待ち構えている。さらにその先では、他者から問われることなく、自ら問いを発して答えを導出しなければならない状況に遭遇するだろう。バカの一つ覚えのようにウィトゲンシュタインを引く。

言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる 

傍線部は意味深い。問いが立てば答えが見つかるなどとは言っていない。問いが立てられなければ答える資格が得られないと言っているのだ。問いがあるからこそ答えようとする。正答や誤答は別問題、一答でなければならないと気負うのは論外である。答えるという仕事に参加するためには、まず問いがいる。そして、その問いを自ら立ててみる。問いを立てるその瞬間から答える行為が始まる。困り果てたら腕を組むのではなく、言語的に突破口を見つける。言うまでもなく、問答の技術、問答による解決能力は、ほぼ言語の技術に対応するのである。

場末はどこにある?

知人と場末についてあれこれと話した後、しばらく考えてみた。『広辞苑』によれば、場末は「都市で、中心部からはずれた所」であり、具体的には「町はずれ」ということになっている。「場末の酒場」という活用例が挙がっているが、別に酒場でなくても「芝居小屋」でもいいのだろう。ともあれ、場末に「さかば」という音の響きはとてもよく合っている。茶店さてんやスナックなども場末と相性がいい。

別の辞書には「繁華街からはずれた、ごみごみした場所」とも記されている。ごみごみはわかるが、「繁華街からはずれた」にはちょっと異議ありだ。場末は繁華街というエリアになければいけないのではないか。繁華街にあって、なおかつ「末」、つまり「端っこ」のことなのではないか。中心の対義語の一つに「周縁」がある。かつて周縁には否定的なニュアンスが込められていた。しかし、山口昌男的に言えば、周縁には他者性と豊穣性がある。なるほど、中心では味わえないそんな雰囲気が場末に漂っているような気がする。

広辞苑に戻る。「場末は都市にあるもの」と定義されている。都市とは何ぞやと問い始めるとキリがないので、一応、経済的に発達した人口過密地または大勢が外から集まってくる土地としておこう。そうすると、ぼくが生活し仕事をしている大阪市、もっと具体的には、ここ中央区(旧東区地域)は堂々たる都市であり繁華街と断言して間違いない。つまり、どこかに場末が存在する資格を備えている。そして、確かに、場末などいくらでもありそうだ。


ここでいくつかの疑問がわき上がる。広辞苑の定義文中もっとも重要な「中心部」とはいったいどこなのだろうか? 中心部を特定しなければ場末も明らかにならないのではないか? では、都市や繁華街の中心を誰が決めるのか? もっと言えば、特定された中心とその周縁である場末との距離や人の密集度はどのように決まるのか? という問いに答えがあるような気がしないのである。

ぼくの居住する大阪市にはぼくが中心と見なせる地域がいくつかあるが、一般的にはオフィス街でもあり市庁舎も立地する淀屋橋はその一つだろう。また、JR大阪駅をはじめ地下鉄各線や私鉄が乗り入れる梅田も中心部を形成しているだろう。そのいずれの中心の一角を占めながら、周縁に広がる歓楽街が北新地というエリアである。北新地は中心(淀屋橋駅と大阪駅)からわずか数百メートル、徒歩にして56分だが、ここもまた中心に対しては場末なのだろうか。この北新地にも本通りという中心があり、ここから逸れた通りは場末ということになるのだろうか。仮に梅田・淀屋橋を大阪の中心と見なせば、マクロ的には南方面の難波や天王寺も、東方面の京橋や北方面の十三も場末扱いされることになる。

いやいや、場末とはそんな巨視的に取り扱う中心に対する存在などではない。中心も周縁も人それぞれの土地感覚に規定されるはずだ。誰かにとっての「あの店は立地がいい」は、別の誰かにとって「あの店は立地が悪い」なのである。大阪市役所はぼくにとって立地が必ずしもよくはなく、中央区役所の立地のほうが好都合である。どうやら、場末の特徴は人によって「ごみごみしている」とか、「怪しげである」とか、「庶民的」とかで感知されるようだ。他者性というなら、見知らぬ人間と出会うというのもあるだろうし、豊穣性ならば、何でもありというのもあるだろう。

ぼくの仕事場である天満橋の中心は府の合同庁舎あたり。さらには、大川に臨むちょっとした商業エリアだろう。天満橋京町と呼ばれるこの一角、土佐堀通りから南へ少し入ると、名も知れぬ坂がある。桜の木がなければ、ここはパリの裏町風情に見えなくもない。ごみごみしていない、怪しげでもない、特に庶民的でもなく、人とほとんどすれ違わない。ぼくにとっては、ここが場末である。かなりうら寂しい場末である。但し、このあたりの住民は誰も場末感など抱いていないはずである。中心にいると確信していても、別の中心から見ればそこが場末かもしれない。もちろん、場末の中にも中心と周縁のせめぎ合いがあっても不思議ではない。

土佐堀通りから北大江公園へ上がる.jpg

古いノートのノスタルジー

1977年+1983年ノート セピア.jpgぼくがオフィスで使っているデスクは、かなり幅広の両袖机。左右の袖にそれぞれ三段の引き出しがある。数カ月前から右袖上段の引き出しの鍵穴が具合悪く、鍵を回して開け閉めするのに力をかけねばならなくなった。そして、ついに抜き差しもままならない状態に到った。左袖の鍵と錠はスムーズに開け閉めできるので、右袖に入れていた重要な書類や内容物を左袖の引き出しに移すことにした。

予期した通り、片付けや整理につきもののノスタルジーが襲ってきた。古い手紙や写真、メモの類をかなり大雑把に放り込んでいて、右から左へ、左から右へとモノを移し替えるたびに、見たり読んだりして懐かしんでしまうのだ。そして、紛失したはずの1977年~1983年頃(26歳~32歳)のノートを何冊か発見するに及んで片付けが長引いてしまった。突然過去がよみがえるというのも困ったものである。

学校教育に表向きは順応したものの、小生意気なアンチテーゼに縛られていたせいか、ほとんどノートをとらなかった。大学に入ってディベートに出合い、相手が高速でまくしたてる論点のことごとくを記憶することなど到底無理なので、記録することを余儀なくされた。そして、これが習慣形成されてきて次第に自分が考えていることや思いつくことをメモするようになった。十九歳の頃のことである。その頃から書き綴った大学ノートが数冊残っていて、小難しいことを肩肘張った文体で綴ったエッセイや、今読み返すと気恥ずかしくなるような短編小説や詩を書きなぐっている。


1977年のノートには二十代の残りをいかに知的鍛錬するかという構想図とコンテンツが記してあった。大きなテーマとして、(1) コミュニケーション、(2) 要素化と概念化、(3) 雑学とユーモア、(4) 観察・発想、(5) 評論・批評の五つを挙げている。これらを自分のヒューマンスキルとして鍛えていこうという決意の表明だ。遠い昔とはいえ、自分で書いたのだからまったく覚えがないわけではない。そして、今もほとんど同じテーマを追っている自分の粘り強さを自賛すると同時に、もしかするとあまり成長していないのではないかと半分落胆もする。当時は確率や統計、それにシステムやメソッドに強い関心があったが、今ではさっぱり魅かれない。違いはそれくらいかもしれない。

稚拙ながらも、実にいろんなことを考えて綴っている。根拠のない自論を展開するばかりで、ほとんどエビデンスが見当たらない。ずいぶん本を読んでいた時代と重なるのだが、抜き書きには熱心ではなかったようだ。ところが、1980年代に入ると、エビデンス量が増えてくる。雑誌や書物からそっくりそのまま抜き書きしているページが長々と続く。明らかにノートの方法が変わっているのだが、どんな心境の変化があったのかまで辿ることはできない。

海外雑誌の要約的翻訳もかなりある。たとえば、1983117日のNewsweekの「初歩的ミスを冒すプログラマー」という記事がその一つ。

「コンピュータの専門家が陥る落とし穴を露呈したのが、『アルファベット入門』プログラム。最初に出てくるスクリーンメッセージは『こんにちは。きみの名前をタイプしてください』というもの」。
アルファベットを綴ってからアルファベットを習い始めるという本末取り違えのナンセンスだが、この種のネタは今もお気に入りのツボである。
以上、たわいもない過去ノートを懐かしんで綴った小文である。ただ、点メモの断片をページを繰って一冊分読んでみると、そこに過去から今につながる関心や考え方の線が見えてくる。ノスタルジーだけに留まらない、固有の小さな遺産になっているような気がする。現在を見るだけでは得られないインスピレーションも少なからず湧いた。ノート、侮るべからず、である。