ジョークにもなっているように、サッチャー元英国首相の傑出したディベート能力は神をも泣かせてしまうと誉めそやされた。首相在位期間は1979年~1990年、11年という長きに及んだ。この間のわが国の首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹の六人の顔ぶれであった。
ドゥオーモ、広場、街。
最初に訪れたイタリアの都市はミラノだった。ミラノのドゥオーモはその規模において世界最大級である。恥ずかしいことに、あのミラノ大聖堂のことをドゥオーモと呼ぶのだと思っていた。しかし、それも束の間、続いてヴェネツィアを、フィレンツェを訪れるうちに、どこの街にもドゥオーモがあることに気づかされた。
アルゴリズム話法の限界
コンピュータの世界では普段着の術語になった〈アルゴリズム〉。一般的にプログラムと呼ばれているのは、このアルゴリズムをコンピュータに指示するものにほかならない。では、アルゴリズムとは何で、どんな役割を果たしているのか。
お勘定の話
二十代半ばになって自分のお金で飲食して会計し始めた頃、たとえば寿司屋で「おあいそ」などと告げるのが心地よかった記憶がある。このことばには、どう好意的に解釈しても、ちょっと威張った客目線が見え隠れする。
三十過ぎになって「お勘定してください」と言うようになった。こっちのほうがいいと思ったからである。しばらくして、「おあいそ」は店側が発することばであることを知った。「せっかくのお食事のところ、勘定の話で愛想づかしなことですが……」が転じて「おあいそ」になったらしい。「ご馳走さま、お勘定してください」と客が言い、「おあいそですね。ありがとうございます」と店が返す、調子のよいやりとりが定番なのだ。
ところで、お勘定にはぼくたちの想定する以上に間違いが起こる。たとえば、注文していない料理が運ばれてきて、「それ、頼んでいないけど……」「あ、すみません。あちらのテーブルでした」というやりとりの後は要注意だ。会計時には明細をレシートでチェックしておくのがよい。すでに注文が記入されていて、アルバイトの店員が訂正忘れしていることがありうる。これまで何度もそんな経験をした。

ひときわユニークな会計をしていたのが、パリの有名レストラン『シャルティエ』だ。数字を書き込んだ紙はレシートではない。エンボスの入った紙製のテーブルクロスである。ウェイターやウェイトレスは注文を受けるのも料理を運ぶのも同一人物で、いくつかのテーブルを担当している。そして、料理を一品ずつ運んでくるたびに、テーブルクロスの端に直接ボールペンで品名と金額を書くのである。まだ出されていない料理と金額は記入されないから、間違いようがない。料理のすぐそばに見えているので、客もいつでもチェックできる。何よりも客が数字をごまかすことも不可能である。
日本ではかなりの高級店でも、客が帰り支度をして勘定書きを手にしてレジへ向かい、そこで機械的な処理を受けて支払う仕組みになっている。食べたり飲んだりする場をレストランと言うが、これは本来「休息の場」という意味だ。客どうしの会話もさることながら、料理人や店員とのやりとりももてなしの一つである。お勘定にも人間味があってもいいと思う。
アッシジのフランチェスコ
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アッシジはローマから北へ列車で2時間前後の所に位置する。ウンブリア州ペルージャ県のコムーネ。コムーネというのは地方行政体で、イタリア独特の概念である。大都市ローマもコムーネなら、人口約2万5000人のここアッシジもコムーネと呼ばれる。「サンフランチェスコ聖堂と関連遺跡群」は2000年に世界遺産に登録された。その翌年の3月にこの聖地を訪れる機会があった。
修復工事以外に目立った開発が一切ありえない土地柄。緑溢れる平野を抜けた丘陵地帯の小村、その自然の一部を建物が借りている風情である。かなり辺鄙な印象を受ける。だからこそ、聖地と呼ぶにふさわしいと言えるのだろう。コムーネ広場からほどよい距離を歩くと、聖人フランチェスコゆかりのサンフランチェスコ聖堂に着く。聖人はここアッシジで生まれた。
ところで、十数年前にタイムスリップしたのはほかでもない。新ローマ法王フランチェスコ1世の名が、アッシジの聖人フランチェスコにちなむと聞いたからだ。ローマ法王の名として「1世」がつくのだから、歴史と伝統の名跡ではない。それでも、フランチェスコはイタリア男性に多い名前で親しみやすい。アッシジの守護聖人でありイタリアの国の守護聖人でもあるフランチェスコ(1182?-1226年)は裕福な家庭に生まれた。若い頃に放蕩三昧したあげく、神の声を聞いて聖職への道についたと言われる。
聖堂で希少なフレスコ画を見た後、フランチェスコの墓のある地下室へ入った。過酷な修道生活の日々が浮かんでくる。キリスト教や聖書についてまったく無知ではないが、信仰者でないぼくでも敬虔にならざるをえなかった。質素だが、どこまでも続きそうな錯覚に包まれて、教会の回廊をゆっくりと歩いた。
20世紀 vs 21世紀
21世紀を間近に控えたある日、当時主宰していた《談論風発塾》の塾生たちに「20世紀と21世紀のキーワード」を対比的に列挙してもらった。全員の語句をぼくの一存で座標に配置したのがこれ。
ニュアンス違い、読み違い、聞き間違い
牡蠣のむき身を2.5キログラム取り寄せ客人も招いて堪能しようと目論んだ。「牡蠣づくし」と招待メールに書いて、ふと戸惑う。「牡蠣三昧」と書くのとはどう違うのだろう。「づくし」と「三昧」はまるで類語として相互代替的に用いられるようだが、手元の類語辞典では別の項目に収まっている。旅行代理店や温泉旅館のパンフレットには、「づくし」もあれば「三昧」もある。蟹づくしvs蟹三昧、松茸づくしvs松茸三昧など、拮抗している。
ここで、どちらが正しいかなどという追究をしても始まらないが、いったいどんなニュアンスの違いがあるのか興味津々になってきた。こうなると、今宵の牡蠣を食べる前に「気持ちの整理」をつけたくなるのがぼくの癖だ。
テレビコマーシャル考
今もマーケティングの企画をしたりコピーを書いたりもする。かつては広告の仕事をしたことがあるので、少しは制作の裏事情もわかっている。デフォルメはやむをえないが、ウソをついてはいけない。このことは心得ておくべきことだ。
何度見てもぼくが苦笑いするのが、「♪ う~がい、手洗い、にんにく卵黄~」である。健康の三点セット? たしかにそんなふうに聞こえる。そして、「♪ ばあちゃんの言う通り」と続く。ばあちゃんは年中うがいをして手洗いをしてにんにく卵黄を一日何粒かを目安に飲む。そのことをばあちゃんは孫たちに教えているようだ。孫の年齢にしてにんにく卵黄というのも不思議だが、「ばあちゃんの言う通り」というくらいだから、もしかすると愛用しているのかもしれない。極めつけは「♪ あ~あ、ばあちゃんにゃかなわない」だ。もうお手上げなほど、ばあちゃんは偉いのである。つまり、にんにく卵黄も偉いということだ。フィクションかノンフィクションか……わからない。
“Retrospect”という発想
タイトルの“Retrospect”は「回想」とか「回顧」であって、どうひねって解釈してもそこから「発想」という意味などは出てこない。けれども、発想にしても何かを前提にしているはずではないか。何かを起点にして新しいことを考えるのが発想ならば、その何かに過去を振り返ることがあってもいいだろう。回想を「時を越えた脳内情報のシャッフル作業」ととらえてみたい。
体験とこだわり
こだわりは「拘り」と書く。漢語的に表現すると「拘泥」。近年このことばは、たとえば職人らの固有の思い入れを良好なニュアンスで使うようになった。スープにこだわるラーメン店、秘伝と称してタレにこだわる鰻屋、卵の鮮度にこだわるパティシエなど、とりわけ食材の品質やレシピに関してよく用いられる。
以前、生パスタにこだわるイタリア食堂のオーナーシェフがいた。ところが、場違いなアニメのフィギュアが飾ってあって、「店に合わないねぇ」とつぶやくと、「でも、好きなんですよ」と強いこだわりを示した。生パスタへのこだわりはぼくにも便益があるが、フィギュアは趣味のわがままな発露に過ぎない。このタイプに「こんな雰囲気じゃ足が遠のくよ」と冗談の一つでもこぼすと、「じゃあ、来なくていいですよ」と言いかねない。実際、軽めの皮肉だったのに、彼はぼくに対してあらわに不快感を示した。当然ぼくも不快だから、行かなくなった。
こだわりとは、他人から見ればどうでもいいことに自分一人だけがとらわれ、そのことを自画自賛よろしく過大に評価することだ。いいだろう、ここは一つ譲るとする。それでも、自慢を秘めておくのがプロフェッショナルではないか。こだわりについて長々と薀蓄してもらうには及ばないし、それなくして物事が成り立たないかのように吹聴するのは滑稽である。
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