価格と価値

半額値引き.jpgかつて「世にも不思議な物語」が存在したのは、常識であることや変わらざることが当たり前の時代にごく稀に起こったからである。しかし、近年、ちょっとやそっとの出来事では人は驚かなくなった。いろんな価値観が氾濫しているし、かつて珍しかったものも珍しくなくなっている。どうやら発生頻度において、非常識が常識といい勝負をするようになってきたらしい。

つまり、当たり前なことと当たり前でないことの線引きがしにくくなってきたのだ。現代人はみな鈍感になってアンテナの感度を悪くしているのかもしれない。氾濫する奇妙な現象をちっともおかしいと思わなくなっている。だから、時々メンテナンスのつもりで、日々の暮らしの視点から価値観念をリセットしてみることが必要なのだろう。
 
自宅から徒歩10分圏内に同じチェーンのスーパーが二軒ある。土・日の午後、たとえば散歩の帰りや書店を覗いた後の午後4時頃にたまに立ち寄ることはある。以前から、午後6時以降に食品(とりわけ弁当、惣菜、揚げ物、寿司、刺身、サンドイッチなど)が値引き販売されることを耳にしていた。値引きタイムの直前になると、空っぽのカゴを提げてうろうろし始め、値引きシールが貼られるのを待つ客が増えるらしいのである。「現場監察派マーケッター」を自称する手前、現実をこの目で見るために、オフィス帰りの午後6時以降、日を変え時間帯を変えて何度か足を運んでみた。

いるわいるわ、商品を手に取るわけでもなく、お目当てのコーナーに時々流し目をしながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする人たち。まだ買物客と呼ぶにふさわしくない、値引きシールが貼られるのを待つ人たちだ。午後6時過ぎ、手にラベルを携えた店員が現われ、30%引きシールを矢継ぎ早に貼っていく。カラアゲや惣菜などがみるみる値を下げ始める。次いで寿司や刺身。チャーハンに焼きそば、カレーライスなどはいきなり半額という日もあった。
 
観察が目的だから、原則長居はしないので、つぶさに現象把握できているわけではない。ただ、たまたま買物がてらに寄った午後8時頃には「焼肉用ロース」が半額になっていた。毛ガニが半額になっていた日もあった。半額ラベルの常連はスーパーの戦略も心得ているようで、ピンポイント時刻にやって来ては安く買って帰る。ぼくなどは、午後8時までに夕食を終えるので、お得な食材にはありつけない。
 
午後559分に500円だったものが、1分後に350円になり、その時点から2時間後には250円になってしまう。こんな急激な価格変動は、かつては大晦日の市場の値引き交渉以外にはありえなかった。消費者が納得する価値にふさわしい価格を付けたはずだが、価格が下がれば実感する価値が反比例するように大きくなるのだろう……そんなふうに考えていた。だが、はたしてそうなのか。とある日の午後6時、いきなり680円の弁当に半額ラベルが貼られたことがあった。しかも、ぼくの目の前で。それを一つ取ってカゴに入れたのは言うまでもない。価格と価値の関係? そんな難しい話ではなかったのである。

妙薬依存症候群

ドニゼッティに『愛の妙薬』というイタリアオペラがある。観劇したことはないが、ラジオとCDでそれぞれ一度ずつ聴いたことがある。気弱でもてない男が薬売りから「飲めば恋が実るという妙薬」を法外な値段で買う。実はワインなのだが、プラシーボというもので、男はたちどころに陽気になり気も大きくなる……こんなふうに第一幕が始まる。野暮なので、結末を明かすのは控えておく。

妙薬に「愛」がくっつくと、どういうわけか秘薬や媚薬のニュアンスが漂うが、元来、妙薬とは病気に効き目のある薬のことだ。転じて問題のソリューション(解決)という意味で比喩的に用いられることもある。医薬品はもとより、「○○○に効く」というふれこみで次から次へと売り出されるサプリメントも妙薬として期待されているに違いない。
だが、実際に妙薬が効くかどうかはにわかに定まらない。オペラに出てくる男がその気になったように、多分に偽薬効果だろう。たとえば、「アントシアニンを摂取すれば血液がさらさらになる」もこの類。ぼくたちは、アントシアニンという物質の存在も名称も知らなかったはずだが、ちゃんと黒豆を食べてきた。「ようし、アントシアニンを摂取して活性酸素を抑えて血液をさらさらにするぞ!」などと決意して黒豆を食べているわけではない。

現代人は常日頃心身の不安に苛まれている。ドラッグストアを覗けば、対症療法的な医薬品やサプリメントがずらりと並ぶ。それを病の素人であるぼくたちが、自分の体調不良や体調不安、あるいは際立った症状に照らし合わせて買っている。考えてみれば、綱渡りのような選択なのである。もっとも、話は店売りだけにとどまらない。
昨年暮れに喉に痛みがあったので耳鼻咽喉科で診てもらった。「風邪ではなく、炎症でしょう」と診断されて痛み止めを処方された。同時に、「胃はお丈夫ですか?」と聞かれた。「ええ」とぼく。「では、胃薬は出さないでいいですね」と医者。つまり、この鎮痛剤が通常の胃の持ち主にとってはダメージが強いほどの「劇薬」であることを暗に示している。歯医者では、尋ねもせずに、自動的に鎮痛剤と胃薬の両方が処方される。
妙薬だけに、とても奇妙な話である。効き目を期待して飲みながら、その効き目の副作用を消すために別の妙薬を服用するのだ。妙薬にプラスとマイナスがあれば、差し引くと「妙味がない」ことになる。世間と時代はこぞって妙薬を求め依存し、その行為によって症候群に陥ってしまっている。とここまで書いて、月並みな教訓で終わることになりそうだが、経口するものだけが妙薬ではないことを知っておくべきだろう。情報、能率、他力、権威、仲間……これらもすべて毒性を秘めた妙薬なのである。

読むことと書くこと

2013新年明け古本 web.jpg

年が明けて三週間。かなり遅めの「初ブログ」になってしまった。書けなかったわけではないが、結果的には書かなかった。考えてばかりいてはいけないと思う。考えようとして考えられるケースはめったになく、書くことによって思考を誘発せねばならないとあらためて痛感した。というような理由から、本稿の「読むことと書くこと」について書こうと思った次第。
 
オフィスの一角に蔵書の一部を引っ越しさせようと思い立ってから一年近く経つ。そう思いついてからも本を買い漁ってきたので、自宅の書斎はもうパンク寸前になっている。間に合わせの片づけをしてはみたが、破綻は時間の問題である。これまでの蔵書から何百冊かセレクトし、それにこの一年買い集めてきた書物を加えて、3月末までに「文庫」を作るつもりだ。
 
さて、写真は「古本初買い」の13冊。すべての本を完読などしていないが、ざっと目を通したところでは、脳内に手持ちの「星々」と本の「星々」とを愉快な線で結べそうなものがある。独自の星座が見えてきそうだ。実社会に出た人間にとっては、読書という行為は書物内情報の自分への移植などではない。試験でチェックされることもない。忘れてしまってもいいし、どうしても覚えたければ再読すれば済む。読書は自分を高める触媒でありヒントなのである。

それでもなお、自力で考えることのほうが重要であって、読書はその補助にすぎない。本を買って読むことなど威張れた話ではなく、やむをえない行為だと思っておくのがいい。ぼくにとって読書は「道楽」だ。道楽だから関心のあるなしにかかわらず、ピピっと縁を感じたらとりあえず買っておく。買って気が向いたら拾い読みする。もちろん、しっかり読むものもあるが、知的刺激を楽しむことに変わりはない。何かの役に立てようなどという下心を捨ててこそ、じわじわと知の枠組みが広がっていく。
 
読むこととは対照的に、書くことは思考を触発し起動させる「闘争」である。ぼくたちは腕を組んで考えているようで、実は思考と程遠い行為であることがほとんどだ。時間を費やしてはみたが、結局は考えていなかったということが後でわかる。おぼろげな心象を言語で表現してみる、あるいはわけのわからぬまま書いてみることによって思考が具体化し知識になってくる。要するに、「書かなければ何も解らぬから書くのである」(小林秀雄)。
 
プロの著述家の話をしているのではない。書いて初めてわかることがあり、書くことによってのみ脈絡が生まれ断片的な知識が統合されることがある。ぼくの周辺に関するかぎり、若い人たちは書かなくなった。一過性の会話で饒舌に語ることはあっても、書かないから考えも浅く筋も通らない。だから、書かない人に会うたびに書くことを強く勧める。どうせ書くなら、ツイッターの文字数程度ではなく、原稿用紙二、三枚単位で書きなさいと言う。書くことの集中は読書の精読にもつながることは明らかなのである。

“アテンション、プリーズ”は効くか?

危険.jpg交通機関を利用すると、視覚的または聴覚的なアナウンスの洪水に見舞われる。アナウンスが双方向であるはずはなく、すべて一方的だ。とりわけ、注意喚起のメッセージがおびただしい。どのメッセージにも悪意は込められていない。ひたすら乗客の安全を願っての発信であることは言うまでもない。だが、過ぎたるはなお及ばざるが如し、である。

「ドアが閉まる直前の駆け込み乗車をおやめください」というアナウンスもあれば、「開く扉にご注意」というステッカーもある。忘れ物はないか、次の駅で乗り換え、今度は右側のドアが開く……など、次から次へと注意が促される。たまに「注意!」とか「危ない!」と言われるから、我に返ったり身が引き締まったりする。すべてのアナウンスが「アテンション、プリーズ」なら鈍感になってしまう。


日本全国から変てこな看板や標識ばかり集めた本に、「触るな! 触るとやばいです」というのがあった。禁止系の呼びかけに対して、人にはアマノジャクな反応をする性向が少なからずあるらしい。「どれどれ、どんな具合にやばいのか」と思って、恐々手を出したくなる衝動に駆られるというわけだ。もっとも、遅刻厳禁と書いても時間厳守と書いても、守れない人は守らない。「遅刻死刑!」はただの冗談になるし、「時間に遅れないようにお願いします」のような意気地なしでは、強制力が働かない。
このポスターの「飲酒後の転落事故多発!!」というメッセージは事実を語っている。しかし、「ここは交通事故多発地点」というのと同じではない。「ここ」という具体性は少なからぬ注意を引き起こすが、「飲酒後」というのは一般的に過ぎるので「ふーん」という程度に軽くあしらってしまう。「シラフの自分」とは無関係であるからだ。
では、「転落にご注意ください」はどんな機能を果たしているのか。誰も好きこのんで転落しようなどと思わない。シラフの人間は転落リスクなどよほどのことがないかぎり考えない。このメッセージは酔っ払いに向けられている。しかも、ほどよいお酒で足元もしっかりしている乗客にではなく、ホームと線路の見境もつかないほど泥酔している乗客に向けられている。だが、かろうじて改札口を通り、やっとこさホームに辿り着いた泥酔客にこのポスターが見えるはずもない。
正しくは、「シラフの皆さん、酔っ払いが転落しないように注意してあげてください」でなければならない。もっとも、この趣旨を一行スローガンで表現するのは至難の業だろう。結局、外部からの十のアテンション忠告よりも内なる一つのアテンション意識が勝るのだ。仕事にも同じことが言える。

年賀状と喪中はがき

2013年賀状.jpgこれは2012年の年賀状である。謹賀新年という文字以外にこれといった季節感は漂っていない。干支の話題もイラストもない。ぼくたちの仕事に関わる考え方の話が中心であって、何かのヒントにしていただければ幸いという思いで書いている。

企画の仕事の敵は外部環境にはいない。闘う相手はつねに内なる敵である。どんな敵か。発想的には固定観念であり常識への安住であり、言語的には陳腐な常套句である……こんなことに思いを巡らしながら、毎年、いくつかのキーワードを拾い上げる。そして、自省の意味も込めて、ありきたりなテーゼに対してささやかなアンチテーゼを投げ掛ける。弱者のつぶやきに過ぎないが、かなり真剣で本気だ。もう二十年近くこのスタイルを続けてきた。2013年度の年賀状は、何度も推敲を繰り返して、先ほど校了した。

さて、年賀状に取り掛かるこの時期、喪中のはがきも手元に届く。齢を重ねるにつれ、年々数も増えていく。今年もすでに十数枚にはなっているだろう。どなたが亡くなったのか明記していないのもあれば、義兄だったり叔母だったりもする。どこまでの親族に対して喪中や忌中とするのかよく知らないし、マナー本を開いてみようとも思わない。ただ、ここ数年、いただくのは喪中はがきばかりで、年賀状を久しくもらっていない人もいる。
親族が多くて高齢化してくると、年賀状と喪中はがきを隔年投函するようなことも稀ではなくなる。人が亡くなっておめでたいはずはない。知らぬ人であってもお悔み申し上げる。だが、縁あって一度だけ会い、お互いに義理堅く年賀状をやりとりしてきたが、その人自身もよく知らない関係なのに「義母が亡くなった」というはがきをいただいても、正直言ってピンとこないのである。
喪中はがきの差出人にもぼくは年賀状を出す。謹賀新年で表される良き年を迎えていただきたいからである。ついでに拙文にも目を通していただくかチラっと見ていただくかして、「相変わらず青二才だなあ」と思ってもらえればよい。かねてから喪中はがきの慣習に首を傾げる立場だが、人それぞれの考え方に寛容でありたいと思う。だが、自分が喪に服すことと年賀状を出すことが相反するはずもない。マナーの専門家が何と言おうと、前年にどんな不幸があろうと、お互いに新年を祝い多幸を祈ればいいのではないか。

ネーミング考

牛屋のテント.jpg名は実体を表わすようになるのか、いや、もともと実体にふさわしいと思われる名を付けるから名実一体に思えてくるのか……正直なところ、わからない。

「薔薇の花を別の名で呼ぼうと、香りに変わりはない」ということばをシェークスピアが残している。シェークスピアだから“rose”と言ったに違いないが、それを「ズーロ」と呼ぼうが「クサヤニンニクフナズシバナ」と呼ぼうが、芳香は変わらないということだ。人はそこまで名と実を合理的に分別できるとは思わないので、香りに変化が出るような気がする。少なくとも「クサヤニンニクフナズシバナ」を嗅ぐ気にはなれそうもない。
ぼくたちはいろんな実体とそれぞれに付与された名前も目にしてきている。名と実の違和感に意表を衝かれもするし、よくマッチして耳に快く響くこともある。山を「ウミ」と呼び、海を「ヤマ」と呼ぶのに慣れる自信はない。それほど、山も海も発音に代替がないほどピッタリくる。もっとも、ソシュールによれば、山をヤマと呼び海をウミと呼ぶことに必然性はなく、恣意的ということになる。
 

調べていないので、実存するかもしれないが、「そば処 手打うどん亭」、「割烹 マルゲリータ」、「喫茶 飯島善衛門」などはどうだろう? 違和感は強いが、いずれ慣れるようになるのか。ネーミングも嗜好品のようなものなので、人それぞれの好みもある。それでもなお、同時代を生きるぼくたちには共通感覚のようなものがあるはずだ。想像を逸脱するほど、名と実が乖離していたり整合していなかったりすると、不快感を催す。
もう長らく足を運んでいないが、大阪の日本橋に馬刺しの老舗「牛正ぎゅうしょう」がある。もともと牛肉を食べさせていたらしいが、馬肉専門店になった。そして、創業時の名を変えずに現在に至っているらしい。違和感もあり、牛肉もメニューにあるような印象を受けるが、いったん慣れればそれまで。「馬正」に変えられるほうが異様に響いてしまうから不思議である。
巻頭の写真の店名。この店には行ったことがないので、ぼくには「慣れ」が欠けている。テントには「Beef Steak ビフテキ / 牛屋 ushiya / とんとんびょうし」とある。どこにでもあるわけではないだろうが、「とんとんびょうし」などはありえない名ではない。それはともかく、ビーフステーキ店なのに「とんとん」とポークっぽく響かせるのはどういう理由なのだろうか。テントの上の看板には、小さく「牛屋」とあり、大きく「とんとんびょうし」と書いてある。後者が店名に違いなさそうだが、「ビフテキの牛屋」で十分なはずである。いろんな事情があるにしても、潜在顧客を惑わせるネーミングに首を傾げざるをえない。

失敗のセンス

家庭料理 天神橋近く.jpgいつもの散歩道から脱線して歩いていたら、だいぶ以前に脱線してそのままになっているであろう店の看板兼メニューに出くわした。シャッターの劣化ぶりから店じまいして久しいと想像がつく。

飲食店は、栄えたと思えばまたたく間に枯れる。盛り上がったり衰えたり。まさに栄枯盛衰だ。一年ぶりに行くとなじみだった店は消え別の店が構えられている。数年ぶりに飲食店界隈に出掛ければ、三分の一、場合によっては半数が入れ替わっていたりもする。十年経てば、総入れ替えということもなきにしもあらず。
タイトルの「失敗のセンス」とは、もしかするとわざと潰れるように経営しているのではないかと思ってしまうほどの、目を覆いたくなるような絶望的センスのことである。店を構えるかぎり、商売繁盛を画策するのは当然だ。にもかかわらず、少数のマニアックな常連だけが顔を出すだけ、やがて彼らの足も遠のいていく宿命を自ら選んでいるかのような店がある。成功するためのセンスを秘訣や法則にするのはむずかしいが、失敗の方程式は簡単に計算が立ってしまう。センスの悪さは失敗のための絶対法則なのである。


センスは、ともすれば感性的な領域に属すると思われがちだが、精神と行動が統一された思慮や良識が近い。ふつうに思考してふつうに実行すれば、大きな失敗を避けることができるのに、ふつうに考えないでふつうにも行わないから「失敗のセンス」が身についてしまうのだ。コンセプトの立て方、訴求点の選び方、情報の並べ方……いったいどうすればこんなセンスを身につけることができるのだろうと思ってしまう店がある。
『亜呂麻』なるこの店。看板兼メニューから読み取れる情報には危ういセンスと負のオーラが充満している。「家庭料理・酒・コーヒー」。どれもがふつうの単語なのに、このように配列してしまうとやるせない違和感で料理がまずそうに見えるから不思議だ。「カラオケ2500曲以上」と並列の「日本各地の名酒いろいろ」が合わない。2500曲も名酒もギャグっぽく見える。
極めつけは、驚きの「一汁三菜ヨル定食」。ヨルにも笑ってしまうが、夕方6:00から開店だからヨル定食に決まっている。メニューの最終行に到って何を今さら「一汁三菜」と本気になっているのか。気持悪いついでに、ここは「秘密のメンチカツ定食」か「ママの手料理15種類」のほうがこの店らしい。いずれにせよ、統一感を醸し出そうとしても失敗を運命づけられたセンスは救いようがない。芳香のアロマを『亜呂麻』と表記した店名までもが、店じまいによって滑稽な寂寞感をいっそう強くしている。立ち去った後、背中に寒いものが走った。

続・政治風土雑感

弁論術+政治学.jpgぼくたちは、この国で起こっていることの何から何までも承知しているわけではない。しかも、事実の真偽のほどもわからないことが多い。ひいては、そのような事実を前提として論議される政策の有効性を判断するのも容易ではない。だが、論理をチェックし論議の蓋然性を品定めすることはできる。

たとえば、「条件付きでTPP参加」という意味などは簡単に検証可能だ。そもそも、賛成とは全要素についてのイエスである。つまり、賛成とは全面賛成にほかならない。一つの要素でも保留や条件が付くならノーなのだ。したがって、「条件付きでTPP参加」とは「条件次第でノー」というのに等しく、どちらに転がっても後で言い訳がつくようになっている(「参加しないこともある」ということに言及していないだけの話である)。
このように、事実を知らずとも、言及されていることと言及されていないことをつぶさにチェックするだけでも、信頼に値する話かどうかはわかるのだ。人は不利になることや都合の悪いことをわざわざ言及しないから、そこに目を付ければよい。
 

 「政策を語ることが重要ではない! 政策を実行に移せるかどうかなんです!」とある政治家が街頭で訴えた。ふわっと聞き流してはいけない。アリストテレスの『弁論術』の中の説得推論の24番目が参考になる。
結果は原因から推論するものである。〔あること〕の原因が存在する時には〔あること〕は存在する。〔あること〕の原因が存在しない場合には〔あること〕は存在しない。なぜなら、原因とその結果とは共存し、原因なしには何一つ存在しないからである。
これは因果関係の論点である。政策という原因ゆえに実行という結果が存在するにもかかわらず、その政治家は原因を語らずして結果を出すと言っているにすぎない。ゆえに、彼が実行するものが政策である保障はない。何らかの都合があって急遽口走った言であると察しがつく。
 
政治家の揚げ足を取るのではなく、彼らの論理をチェックするのである。彼らの言が苦し紛れで発せられたのか、その場の空気に情動されているのか、きちんとした賢慮に基づくものなのかを見極めることは、できないことではないのである。
 
アリストテレスには『政治学』という書物もある。その第七巻第1章にはこうある。
最善の国制について適切な探究をしようとする者は、まず最も望ましい生活が何であるかを規定しなければならない(……)最善な国制のもとにある者が最善の暮らしをするのは当然なことである。
人生最上の価値を幸福としたアリストテレスらしいことばだ。最善の生活について、アリストテレスは、環境と身体と精神の善を説き、これらを至福な人の条件としている。
こうした価値を今日の政治思想が積極的に扱ってきたとは言い難い。誰のためになっているのかわからない集団価値が、ともすれば個人の日常生活価値よりも優先されてしまう。残念ながら、今から二千数百年も前に掲げられた理念にぼくたちの政治風土は未だに近づけていないのである。

政治風土雑感

投票.pngのサムネール画像一人ひとりは真剣に演じているつもりなのだろう。それぞれの劇団も本気で演じようとしているのだろう。こんなふうに百歩譲っても、真剣で本気の部分を全体として眺めると「茶番劇」が浮き彫りになってくるから不思議だ。不思議を感じるのは無論ぼくたちの理解不足のせいではなく、役者たちの芸の無さ、役柄認識の甘さゆえである。

テレビのニュース番組でキャスターが党名一覧のパネルを見せる。じっくりと見せてくれるのだが、あまりにも数が多いから、七つか八つまで数えたところで画面が切り替わる。とにかく、平成241121日現在、15の党が確認されている。もう党名のネタも尽き果てたかのようで、「反TPP・脱原発・消費増税凍結の党」まで誕生した。こうなれば、これから誕生する党はマニフェストの文言をトッピングよろしく並べていくことになるに違いない。かつて苦笑いしてしまったが、「みんなの党」がまともな党名に見えてくるから、これまた不思議である。

二大政党時代の到来を高らかに予見し、「必然!」とさえ太鼓判を押した政治評論家は慧眼不足を大いに反省しなければならない。かつてこの国に二大政党時代らしき時期がなかったわけではない。だが、長い歴史の中では一瞬の出来事であった。別に二大政党時代を待望しなければならない理由もない。世界的に見れば英米を除く大半の先進国には多党が存在しているのだから。そうそう一党独裁もある。
ただ、わが国の多党ぶりは乱立と形容されるように、節操がなさすぎるのだ。節操がないのは、選挙戦を勝つための卑近な術をこね回すからにほかならない。たった一つの政策で折り合わないという理由から党を離脱したり新党を旗揚げしたりする一方で、複数の政策において相違があるのに、妥協して統合するということが起こってしまう。折り合うためには「条件」が必要だ。なるほど、条件さえつければ両極だってくっついてしまうだろう。こうして、立党の理念や哲学は条件づけという妥協の産物によってものの見事にリセットされてしまう。
つまるところ、同質性の高いわが国では、エリートもそうでない者も差がないように、多様な意見が飛び交っているように見えても、実はみんな似たり寄ったりの考え方から抜け出せないのである。大同小異などキレイごとで、得策と見れば大異の溝すら簡単に埋めてしまう。要するに、ワンパターンな考え方しかできないから小異で差異化しようとしているにすぎない。たとえ15党が乱立しても、発想に大胆さなどなく、せいぜい「1℃前後の温度差」違いなのである。多党化現象は選択肢の豊かさを意味するのではない。ただただ潔い覚悟の無さを物語っている。
《続く》

エレベーターよもやま話

エレベーター.jpg直近のニュースを持ち出すまでもなく、便利で身近なエレベーターにも時々悲劇が起こる。便利と慣れにかまけて、エレベーターへの注意がなおざりになってしまうのも事故の原因の一つだろう。

狭小な閉じた空間であることとボタン一つで上下に移動することをあらためて認識してみれば、エレベーター内および乗降時に油断してはいけないことがわかるはずだ。但し、今日の記事は、悲劇や危険にまつわる深刻なものではなく、ぼくたちとエレベーター利用につきまとう日常的な考察に基づくよもやま話である。

1.ニアミス
一昨日マンションのエレベーターが1階に着き、ドアが開いて出ようとしたら、5階のがさつな三十代男性住人とぶつかりそうになった。ドアが開いた瞬間、男がぼくに気づかず乗り込もうとしてきたからだ。ぼくは透明人間ではないから、前方に目をやれば見えたはずである。エレベーターは電車と同じで、中から外へ出る動作が優先される。つまり、ぼくが出るのを見届けてから男が入るのである。
なお、エレベーターも車もボートも、「有事ゾーン」の移動手段とされているので、レディファーストのしきたりに従うならば、乗る時は男が先に乗ってから女性を導き、降りる時は先に女性を降ろす。
2.よく起こると実感すること
エレベーターというものは、急いでいる時には乗ろうとしている階の近くにはないものである。たとえば1階から乗って上層階へ行こうとするとき、2基が備わっている場合でも、2基の両方が上層階へと動いていることが多い。
3.矢印の意味
エレベーターホールには〔▲〕と〔▼〕のボタンがある。この矢印についてぼくは説明を受けたことがないが、今いる階よりも上に行きたければ▲、下に行きたければ▼を押すことを承知している。つまり「願望ボタン」なのである。
しかし、教わったことがないのであるから、高齢者の中には「命令ボタン」だと思い込んでいる人がいる。〔▲〕が「この階に上がってこい」、〔▼〕が「この階まで下りてこい」という意味だと思っているのである。どちらを押してもエレベーターはその階へやってくるが、そのまま乗ると、下へ行きたいのに上へ行ってしまうなどということが起こってしまう。
4.
昔のエレベーターには「釦」という一文字の漢字が書かれていた。小学生頃まで何のことかわからず、また知ろうともせずに乗っていた。「ボタン」と読むのだとわかったのは中学生になってからである。
5.アメリカンジョーク的クイズ
高層マンションの23階に住んでいる男がいる。朝、自宅を出るとき、彼は1階まで直通で下りる。しかし、帰宅時は21階でいったん降り、そこから2階分だけ階段を上る。なぜだろうか?
〈答え〉降りる時の押す1階のボタンは低い位置にあるが、昇る時に押す23階のボタンの位置は高い。男は背が低く、23階に手が届かず、ギリギリ届く21階のボタンを押す。