ニュアンス違い、読み違い、聞き間違い

2013 じごぜん牡蠣.jpg牡蠣のむき身を2.5キログラム取り寄せ客人も招いて堪能しようと目論んだ。「牡蠣づくし」と招待メールに書いて、ふと戸惑う。「牡蠣三昧」と書くのとはどう違うのだろう。「づくし」と「三昧」はまるで類語として相互代替的に用いられるようだが、手元の類語辞典では別の項目に収まっている。

旅行代理店や温泉旅館のパンフレットには、「づくし」もあれば「三昧」もある。蟹づくしvs蟹三昧、松茸づくしvs松茸三昧など、拮抗している。ここで、どちらが正しいかなどという追究をしても始まらないが、いったいどんなニュアンスの違いがあるのか興味津々になってきた。こうなると、今宵の牡蠣を食べる前に「気持ちの整理」をつけたくなるのがぼくの癖だ。
「花づくし」はあっても「桜づくし」とはあまり言わないはず。概念として、花にはいろんな種類があり、それらをことごとく並べ上げるのが「づくし」。類の一つに桜があり、その場合は「桜三昧」のほうがいいのではないかというのがぼくの推論。冬の「味覚づくし」を絞り込んでいくと「蟹三昧」になる。では、牡蠣の場合はどうか。貝類に対して牡蠣はすでに一つの類なのであるから、「牡蠣三昧」になる。牡蠣だけに集中して他の貝類には見向きもしないさまだ。もし「づくし」にしたいのなら、「貝づくし」と言うべきなのだろう。いろんな貝類を堪能するといニュアンスだ。今宵は「牡蠣三昧」と呼ぶべきだという結論に落ち着いた。
 

 先日、ある人が「邁進まいしん」と書いていたのを、ぼくが早とちりして「遭難そうなん」と読み違えた。もちろん、文脈を追っているから、すぐに読み違いだと気づいたが、この両者、似ていなくもない。別のときに、ぼくが「徒弟とてい」と書いたら、誰かが「従弟いとこ」と読み違えた。たとえば「あの先生には徒弟はいなかった」などという文章では、「いとこ」と読んでしまっても意味が通ってしまう。
 
同様に、「この時期、昼下がりの紅茶を堪能するのも悪くない」という文中の紅茶を「紅葉こうよう」と読んでも、これまた意味に支障をきたさない。じっくり読めば、「茶」と「葉」を間違えようもないが、「茶葉」という表現もあることだし、スキャンするように目を流したりすれば、起こりうる読み違いではある。
 
こんしゅういよいよオープン」というアナウンスを夏場に耳にしたことがある。春なら「今週」と理解しただろうが、暑さにうんざりしている身だから気分は秋を待望している。だから、ぼくは「今秋」と聞き間違った。このケースでは、責められるべきはぼくではなくアナウンスのほうである。では、今週をどのように表現すべきであったのか。生アナウンスでなく、録音して毎日流すのなら、「今週○曜日」と言うしかないのだろう。同音異義語や類似する漢字がおびただしいのがわが日本語のおもしろさ。同時に意思疎通不全の原因でもある。

「選ぶ」と「引く」

アホらしいと思ったが後の祭り。観てしまったのだからしかたがない。昨夜『マジカル頭脳パワー』なる番組のチャンネルを、ひょんなことからリモコンが拾ってしまったのだ(テレビの調子が悪く、リモコン操作を何度か繰り返さないと画面が映らなくなっている)。それはともかく……。

番組中、「この行為は何をしているのか?」という出題があり、行為を示す動詞が順番に出てきて、わかったところで答える。「払う」に始まり、「選ぶ→取る→開く→読む→たたむ→結ぶ」と続く。あるグループはたしか「開く」の時点で正解を出した。ぼくはと言えば、最後の「結ぶ」でやっと「もしかして、おみくじ?」と推論した次第。
どちらかと言うと、勘がいいほうなのだが、ぼくの推理推論では「おみくじ」はありえない。「選ぶ」という行為からはおみくじは導出できないのだ。なぜか? おみくじは、あらかじめ分かっている複数の対象から好みや条件に見合ったものを選ぶものではなく、何かわからないものを「引く」ものだからである。手元にあるすべての国語辞典やコロケーション辞典は、おみくじと結ぶつく動詞を「引く」としている。

不可解で不機嫌になっていたら、正解を裏付けるための映像が示された。お金を払ったあと、よく見かけるくじ引き箱の中に手を入れておみくじを指でつまみ上げているではないか。中身が見えない状態で取っているから、選びなどしてはいないのである。出題の二つの動詞「選ぶ」と「取る」を一つにして、「引く」にするのがふさわしい行為であった。
ぼくが年始に行く神社では、番号の付いた棒を「引く」。引いて番号を巫女さんに告げる。巫女さんは同じ番号の引き出しからおみくじを取り出す。そのおみくじは一枚の紙で、すでに「開かれている」。見てから、棒状に紙を巻くか折ってから、どこかに用意されている竹柵に結ぶ。おみくじ代は引いてから支払ってもいい。つまり、「(棒を)引く→(番号を)告げる→(代金を)支払う→(おみくじを)受け取る→(運勢に)目を通す→(吉や凶に)一喜一憂する→(おみくじを)巻くか折る→(竹柵を)探す→(竹柵に)結ぶ」という一連の行為がおみくじに当てはまる。
冒頭の写真は、基本語彙――とりわけ動詞――の細かなニュアンスを確かめるときにぼくが使う辞典である。【選ぶ】には、「複数の対象の中から、ある条件を満たすものを捜す」と書かれている。例として、「多くの応募作の中から優れたものを選ぶ」「卒業生の中から総代を選ぶ」などを挙げている。おみくじにおいては、条件(たとえば大吉や吉)を満たすものを自分の意志で捜すことはできない。偶然に委ねられるのだ。ゆえに「引く」なのである。選べるのなら、ぼくだって三年連続、好んで「凶」をもらいなどしない。