公開される偏差値

情報公開の時代である。ぼくが関わる領域では、行政職員の研修講師として市民に公開されることがある。簡単なプロフィールと研修タイムテーブル、研修のねらいなどがPDFになっている。やがてこのような公開情報が加速すると、ランキングや通信簿が掲載されても不思議ではない。そんなに下手くそではないと自負しているので怯えはないが、時給報酬が丸裸にされてはたまらない。

二年前にロサンゼルス近郊のコストコに行き、レジで勘定を済ませた。目の前の壁に大きな貼り紙がしてある。「会員サービス優秀従業員一覧」がそれだ。レジで処理する個数、スピード、ミスの少なさなどに基づいてランキングを毎日更新して発表しているのである。

Costco.jpgランキング上位ならいいが、実名で下位に名を連ねるとさぞかしつらいだろう。レジで名札を見れば、その社員がどんな成績か一目瞭然である。アメとムチという表現があるが、上位者にとってもこの成績発表はアメとは思えない。明日はわが身、誰にとってもムチなのではないか。

日本で大手のウェアハウスやメガマーケットに出掛けることはないので、類例があるのかどうか知らない。仮にあるとしても全名簿の全成績はちょっと考えにくい。あったとしても、おそらく上位数名の表彰にかぎられるのではないか。

☆     ☆     ☆

そんなふうに思っていたが、3月上旬にデジタルカメラの新機種を求めて家電量販店に行ったところ、貼り出されている通信簿を見つけたのである。携帯電話会社の一角、「お客様サービス満足度ランキング」と題して1位から17位までの全員が発表されている。お目当てはデジカメだったが、この機会を逃してはならぬとばかりに、スマートフォンに興味を示す振りをして近づいた。説明を担当してくれた三十代半ばの男性はスマートに説明してくれた。少しマイペースに過ぎる話しぶりだったが、まずまずの満足度。後でランクを見たら4位だった。

こうなると最下位チェックをしてみたくなる。名前はSだ。ちょうどいいタイミングでスマートフォンにちなむイベントが始まった。三十人近い客が説明役のコンパニオンを囲む。客の群れの周辺には数名のスタッフがスタンバイしている。コンパニオンの説明をそっちのけで、少しずつ場所を移動して最下位のSを探しあてた。「ちょっといいですか」と声を掛け、「別会社の携帯を法人契約しているのだけれど、たとえばナンバーポータビリティで法人契約のままスマートフォンに切り替えられますか?」と尋ねた。でっち上げの質問ではなく、現実に関心のあった質問である。

とても人あたりのいい表情のSは「ちょっとお待ちください」と言って走り出し、先輩風のスタッフと一言二言交わしてから戻ってきた。4位に比べればたどたどしい話しぶりだが、悪くはない。次いで別の質問をしたら、明快ではないものの答えが戻ってきた。「なるほどね」と言ってぼくが黙っていると、Sも笑みを浮かべて黙っている。次なる質問を待っているのである。その後もぼくがリードする形でやりとりをした。この彼が最下位とは、さぞかし他のスタッフの水準は高いのだろうと推測した。もしかすると、これはSという標準クラスをわざと最下位に置いた戦略ではないのかと思ったりした。

帰路、冷静に振り返ってみた。はたしてSは合格か不合格か? 二者択一ならやっぱり不合格なのである。最下位になるかどうかは客全体の総評で決まるだろうが、ぼくの評定は失格だった。自ら問いかけのできない顧客に対してSはおそらく非力に違いない。顔の表情や話の上手下手などどうでもいい。接客担当者は何よりもまず、自らコミュニケーションをリードしなければならない。問いのないところに分け入るタイミングと話題づくりにおいてSは何もしなかった。あれから3ヵ月が過ぎた。さて、順位が下がりようのないSのランキングはどうなっただろうか。もしかすると、名前が消えているかもしれない。

一年前の今頃

かつて、温故知新の「ふるき昔」が一年前などということはなかっただろう。昔と言えば、「むかしむかし、あるところに……」という物語の出だしが思い浮かぶが、この昔は「ずっと昔」のことであった。どのくらい昔であるか。時代を特定するのは野暮だが、理屈抜きで何百年も前のことを語っているはずである。登場する人物は、昭和や大正や明治のおじいさんやおばあさんでないことは間違いない。

かつての昔は間延びしていた。時間はゆっくりと過ぎた。何世代にもわたって人々はまったく同じ家で育ち、同じ慣習のもとで暮らし、同じ風景を見て育った。なにしろ新聞も電話もインターネットもなかった時代だから、大半の情報はうわさ話だったろうし、仮にニュース性の高い異変が生じたとしても、知らなければ知らないで済んだのである。ところが、現代においてぼくたちが言う「昔」はそんな時間的な遠過去を意味しない。なにしろ一年前がすでにだいぶ前の過去になっている。もしかすると現代の半年や一年は中世の頃の百年に匹敵しているのかもしれないのである。

こんな思いはいつもよぎるが、ドタバタ政治劇を見ていて愛想が尽き果てたので、久しぶりに一年前のノートを繰ってみたのである。昨年64日、「異質性と多様性」と題して次のように書いた。

米国の二大政党は多民族・多文化国家の中で維持されてきた。異質性・多様性ゆえに、二項のみに集約されている。ところが、同質性の高いわが国では多様性が謳歌される。これまで評論家や政治家自身がさんざん〈自民党 vs 民主党〉の二大政党時代を予見し待望してきたが、いっこうにそんな気配はない。現代日本人は発想も思想も似たり寄ったりなのである。つまり、大同だからこそ小異を求めたがるのであり、気がつけば小党がさらに乱立する状況になっている。同一組織内にあっても派閥やグループをつくりたがる。ほんの微かな〈温度差〉だけを求めて群れをつくる。虚心坦懐とは無縁の、小心者ばかりなのである。


ついでに20105月現在のエビデンスを書き写してある。衆参合わせて、民主党423名、自由民主党188名、公明党42名、日本共産党16名、社会民主党12名、国民新党9名、みんなの党6名、新党改革6名、たちあがれ日本5名、新党日本1名、沖縄社会大衆党1名、新党大地1名、幸福実現党1名。以上。笑ってしまった。民主党が解体していれば、もっと増えることになったかもしれない。いや、一寸先は闇だ。何が起こっても不思議ではない。もしかすると、大連立の一党独裁だってありえる。そうなると、同質的で均一的な、日本人にぴったりの政党が出来上がる。名づけて「金太郎飴政党」。

昨年65日のノートにはこうある。

ぼくは変革については前向きであり好意的である。知人の誰かに変化を認めたら、「変わったね」と言ってあげるが、これは褒め言葉である。決して「変わり果てたね」を意味しない。しかし、政治家に期待するのは、〈変える〉という他動詞的行為ではなく、まずは〈変わる〉という自動詞的行為である。自分以外の対象を変えようと力まずに、軽やかに自分が変わってみるべきではないか。組織の再編の前に、己の再編をやってみるべきなのだ。

おまけ。67日のノート。

新任首相は、政治家を志すためにとにかく名簿を作らねばならなかったようで、方々を歩き回りコツコツと活動を積み重ねたという。ファーストレディ伸子夫人はこう言う。
「菅には看板も地盤もなかった。私は自分が売らねばならない〈商品〉のことをよく知らねばならなかった。他の人よりもどこが”まし”か――そのことを伝えることができなければならない」
 

嗚呼、菅直人と伸子夫人に幸あれ!

政治家は「他人よりまし」を競っているのか。これなら楽な世界だと思う。ビジネスの世界は「まし」程度なら消えてしまうのだから。ぼくだって看板が欲しい。地盤も欲しい。しかし、偽ってはいけない。売り物がナンバーワンである必要はない。しかし、「まし」で済ませてはいけない。胸を張れるレベルまで高めた売り物と巡り合って幸福になってくれる人々が必ずいる――これこそが信念である。信念とは、揺蕩たゆたえども貫くべきものである。

語句の断章(8) 剽窃

学生時代、アルファベット順に英単語を覚えようと何度か試みた。今にして思えばバカらしい方法ではあるが、大まじめに取り組んだ。ところが何度も頓挫するから、気持ちを入れ替えて再び最初の“a”から始める。その結果、“abandon”という動詞だけをみんなよく覚えたはずである。この動詞、ぼくはこれまで英語の原書や雑誌で二、三度しか出くわしていない。あまり頻出しない単語なのである。

剽窃ひょうせつ」も頻出語ではない。しかし、どういうわけか覚えている。剽とは「かすめ取ること」、窃とは「盗むこと」。ゆえに、剽窃とは盗みのダブルなので強い意味になる。「へぇ~、こんなことばがあるんだ」と驚いたのは三十代半ばだったろうか。よく類義語辞典を引いていた頃だ。ほとんど盗作と同じ意味なのに、なぜわざわざ剽窃という表現を使う必要があるのかと疑問を抱いたのを覚えている。

死語にならずに生き残っている類義語には、それぞれの存在理由がある。盗作でなく剽窃でなければならない理由もある。うまく説明はできないが、単純なコピー&ペーストが盗作で、他人の作品の一説や学説そのものをいかにも自分のオリジナルであるかのように発表するのが剽窃のようである。共通概念は「パクリ」である。

情報は極限まで自由貿易され無償公開されるようになった。もはや何でもありの様相を呈している。したがって、原典の流用であるか変形であるか、インターネットからの引用であるか、はたまた「他に類を見ないオリジナル」なのか、剽窃などではなく偶然の一致であるのか……などを判じることができなくなっている。

いずれにしても、ぼくたちの誰もが「その知識はオリジナル?」と聞かれたら返答に困ってしまう。素性を明らかにできるほど知識が確かではないから、情報源を遡ることははなはだ困難だ。ぼくたちの知のトレーサビリティは、信頼できる無農薬野菜ほど高くはないのである。学んだ引用先も示さず無断で薀蓄を傾けている知識の大部分は、「剽窃だろ?」と迫られれば、素直なぼくなどは「は、はい」と言ってしまいそうだ。

剽窃と疑われたくなければ、固有経験的なオリジナリティを用いなければならない。あるいは、少なくとも誰からどのように知りえたのかの経緯または出典を示すべきだろう。わざわざ知識の起源まで調べることはないし、そんなことをしてもキリがない。ただ、できるかぎり自分がその知識といつどのように出合ったのかという記憶をまさぐってみせるのが良識というものだ。

最後にずばり書いておく。ぼくの知識の大半は剽窃でありパクリである。人の話、書物、マスコミなどからやってきたものである。但し、ぼくの意見と論拠は大部分ぼくに由来するものだと自負している。そして、意見と論拠は他者によって「知識」と呼ばれて誰かに剽窃され、稀に微かに役立ってもらえるのだと思う。人類の知の歴史は剽窃の伝承によって成り立ってきたのである。

棘のあるコミュニケーション

「批判される」の能動形は? ふつうは「批判する」。当たり前だ。否定形は「批判されない」。では、「批判は受けるもの」の反対や逆は? 「批判は受けないもの」? いや、おもしろくない。もう少しひねってみよう。一方的に批判を受けるのではなく、言い返したり反論したり。批判からたいかわす方法もありうる。しかし、とりあえず、「批判は受けるものである。決して受け流してはいけない」と言っておこう。

体を躱したついでに、批判や反論の矢から逃れることはできる。知らん顔したり黙殺したりすればいい。しかし、逃げれば孤立する。さわやかな議論であれ真剣勝負の論争であれ、当事者である間は他者や命題と関わっている。逃げてしまえば、関係は切れる。ひとりぽっちになってしまう。本来コミュニケーションにはとげと毒が内蔵されている。にもかかわらず……というのが今日の話である。


「みんな」とは言わないが、大勢の人たちが錯覚している。親子のコミュニケーションや職場のコミュニケーションについて語る時、そこに和気藹々とした潤滑油のような関係を想定している。辛味よりは甘味成分が圧倒的に多い。フレンドリーで相互理解があって明るい環境。コミュニケーションがまるで3時のおやつのスイーツのような扱われ方なのである。コミュニケーションに「共有化」という原義があることを承知しているが、正しく言うと「意味の共有化」である。このためには、必ずしも批判を抜きにした親密性だけを前提にするわけにはいかない。差し障りのない無難な方法で「意味」を扱うことなどできないのだ。

家庭や行政にあっては、たとえば子育て。職場にあっては、たとえば顧客満足。いずれも人それぞれの意味がある。子育ての意味は当の夫婦と行政の間でイコールではない。顧客満足の意味は社員ごとに微妙にズレているだろうし、売り手と買い手の意味が大いに違っていることは想像に難くない。意味の相違とは意見や価値観の相違にほかならない。互いの対立点や争点を理解することは意味の共有化に向けて欠かせないプロセスであり、単純な賛成・合意の他に批判・反論も経なければならないのである。棘も毒も、嫌味のある表現も、挑発的な態度もコミュニケーションの一部である。これらを骨抜きにしたままで信頼できる人間関係は築けるはずもないだろう。


Aは賛否両論も踏まえたコミュニケーションをごく当たり前だと考え、強弁で毒舌も吐けば大いに共感もする。誰かに批判され反論されても、どの点でそうされているのかをよく傾聴し、必要があれば意見を再構築して再反論も辞さない。要するに、Aは酸いも甘いもあるのがコミュニケーションだと熟知しているのである。

ところが、Bはお友達関係的であることがコミュニケーションの本質だと考えている。意見の相違があっても軽く流して、極力相手に同調しようと努める。こんな等閑なおざりな習慣を繰り返しているうちに、安全地帯のコミュニケーションで満足する。ちょっとでも棘のあることばに過剰反応するようになり、次第に先のAのようなタイプを遠ざけるようになる。このBのようなタイプにAはふつうに接する。むしろ距離を縮めて議論を迫る。しかし、BにとってAはやりにくい存在だ。

Aを敬遠するBは議論の輪に入れず孤立するだろうか。いや、この国の大きな組織では孤立してしまうのは、むしろAのほうだ。残念ながら、コミュニケーションを正常に機能させようとする側がいつも貧乏くじを引く。それでも、言うべきことは言わねばならない。相手に感謝されるか嫌がられるかを天秤にかけるあまり、言うべきことを犠牲にしてはいけないのである。

当世マーケット雑感

「利己から利他の時代へ」とつぶやかれる。わかってはいるけれども、懐具合がよろしくない。景気がかんばしくない時代、かつての「損して得取れ」は通用しそうにないのである。高度成長時代の真っ只中、接待漬けは当たり前だった。下流の職種にある人々は上流の顧客に対して接待攻勢をかけた。そして、それなりの見返りがあったのである。

利益はついてくるものである。利益の前によい仕事をすることが必須である。ゆえに、目先の小さな利にこだわらず利を先に送る教えも成り立つ。たしかに信用と安定の時代には通用したのであるが、今となっては一度損をしてしまうと後々に利として回収できる保証はない。小さな損はさらに大きな損になる可能性を秘めている。利他という綺麗事ばかりでは生存が危ういことも現実味を帯びてきた。

「損して得取れ」にぼくはある種のさもしさ、腹黒さを逆に感じてしまう。プロフェッショナルとしての倫理を保っているのなら――そして、よい仕事にコミットしているのなら――「ほどよい利」を取ることに遠慮はいらない。利は懐を温めるだけではなく、よい仕事を続けていくための条件の一つなのだ。大欲で利を貪るのは戒めなければならないが、今の時代、下手にピンチを招いてしまうとチャンスの芽が摘まれてしまう。ピンチはチャンスと鼓舞されてぬか喜びしていてはいけない。


ぼくのような年齢になるとIT不感症になりがちである。パソコンを使うだけでも精一杯だ。スマートフォンやタブレット型のPCまで手が回らない。若い人はぼくをフェースブックに誘ってくれるが、まだ踏ん切りがつかない(ツイッターははじめから捨てている)。しかし、同時に、新時代の利器に億劫であってはならないとも思う。先日デジタルカメラのSDカードがパソコンで動作しないので、量販店で調べてもらった。子細は省くが、いろいろと教わりSD対応のケーブルを買ったらうまくいった。最新のIT情報についていくのはつらいが、四苦八苦はよいトレーニングになっていると思いなしている。


先週の講演会で久しぶりにジョー・ジラードの話をした。そして、「人は商品を買うのではなく、人を買う」という名セリフを紹介したのである。ここまで豪語できるセールスマンはそうは多くはないだろうが、商品を売っているのは人であることは間違いない。どんなメディアを通じて商品を買おうが、人は人から商品を買っている。ぼくたちが手掛ける広告、イベント、販促活動は商品を売るためであるが、もっとたいせつなのは、売る人と買う人を支援しているという発想である。人が売りやすく人が買いやすくするための環境づくりという視点からマーケットを眺めてみると、アイデアがいろいろと浮かぶ。


「折り込みチラシを作ったら、競合相手に真似られた。どうしたらいいでしょう?」という相談を受けた。悩み? その経営者にとってはそうらしいが、なぜ悩むのかぼくにはわからない。真似られるのは「本家としての認証」を得たことである。類似することによって顧客が向こうに流れるから、部分的には機会損失になるだろうが、お互いさまだ。相乗効果を期待するくらいに腹を据えておけばよろしい。もし真似されるのが嫌なら、真似が不可能な商品なりサービスなりを取り揃えるしかない。一番真似しにくいのは人である。人で差異化するのがいい。

コンセプトと属性

使用頻度が高いにもかかわらず、適訳がないため原語のまま使っている術語がある。ぼくの仕事関係では〈コンセプト(concept)〉がその最たるものだろう。ちなみに社名の「プロコンセプト研究所」の中でも使っている。近いのは「概念」ということばだが、これでは響きが哲学的に過ぎる。「核となる概念」や「構想の根源」などは的確に意味を示せているものの、こなれた日本語とは言えない。やむなくコンセプトをそのまま流用することになる。

商品コンセプトや企画コンセプト、さらには広告コンセプトなどとも使われる。多分にイメージを含んではいるが、イメージとは呼ばない。「こんな感じ」と言って誰かと共有するのもむずかしい。“Conceive”という動詞から派生したのだから、やっぱり「考えたり思いついたりすること」である。ならば、その商品で、その企画で、その広告で一番伝えたい考えや命題を言い表わすものでなければならない。ことばに凝縮表現できてはじめてコンセプトなのである。

企画を指導するとき、コンセプトは欠かせないキーワードになる。「もっとも重要な考え」という意味では〈ビッグアイデア(big idea)〉と呼んでもいい。「この企画で一番言いたいこと、伝えたいことは何か?」とぼくはしょっちゅう質問している。言いたいこと、伝えたいことがぼんやりしているうちは、まだコンセプトが見つかっていない、あるいは作り込まれていないということだ。企画をモノにたとえたら、モノの最重要属性を決めかねているなら、「これがコンセプト!」と答えることはできない。


リンゴとは何か? 定義を知りたければ辞書を引けばいい。手元の『広辞苑』には「バラ科の落葉高木、およびその果実」と書いてある。さらに読む進むと、「春、白色の五弁の花を開き、果実は円形、夏・秋に熟し、味は甘酸っぱく、食用(……)」とある。だが、企画において「リンゴとは何か?」と尋ねるときは、リンゴのコンセプトを聞いている。「リンゴの最重要属性は何か?」、または「リンゴの売りは何?」とずばり問うているのである。定義はコンセプトと同じではない。

リンゴには形があり、色があり、味がある。場合によっては、好敵手のミカンと対比されたうえでの「関係性」もある。半分に切れば、そこに断面が現れるし、そのまま皮を剥けば白い果実に変身する。黒い鉛筆で描いたモノクロのリンゴの絵を二歳の子に見せたら、「リンゴ」と言った。では、ただの赤い円を見せても「リンゴ」と言うだろうか。いや、言わない。幼児にとって、リンゴの最重要属性は色ではなく、ミカンやイチゴとは異なる、あのリンゴ特有の形なのである。

赤い色は大半のリンゴに共通する属性の一つである。しかし、同時に、赤い色はリンゴ固有の属性ではない。リンゴをリンゴたらしめているのは色や味ではなく、どうやら他の果物とは異なる形状のようである。話を企画に戻す。企画のコンセプトもかくあらねばならない。もっともよく差異化され固有であると言いうる属性をコンセプトに仕立てるのである。「際立った、それらしい特性」を抽象して言語化したもの――それがコンセプトだ。抽象とは引き出すことであるが、この作業には「それらしくない性質」の捨象しゃしょうが伴う。何かを「く」ことは別のものを「捨てる」ことにほかならない。

語句の断章(7) 万端

この歳になるまで、「万端ばんたん」を単独で使った用例にお目にかかったことがない。単独用法があるのかもしれないが、ぼくの知るかぎり、準備万端か用意万端のいずれかである。類義語に「万般ばんぱん」があるが、これも「万般の準備を整える」のように使い、辞書には「万般にわたるご支援」という用例もある。しかし、「万端にわたってお世話になり……」などは見たことも聞いたこともない。「万事」は万般に近く、事柄のすべてを意味する。しかし、万端は事柄だけでなく手段も含んでいそうである。

彼はメールで「万端を排してやり遂げる」と書いた。「そこは万端ではなく、万難だろう。万難を排して、だろう。万難とは困難や障害のことだから、排除したり克服したりする。万端には悪い意味など微塵もない」と指摘した。彼は何かのきっかけで「万端を排す」と覚えてしまったらしいのである。むずかしく考えることなどない。万難は「すべての困難」、万端は「すべてのはし」である。

自分が心得ている慣用句や用法が正しくても、そこに居合わせる自分以外のその他大勢に「あなた、間違っている!」と言われたら、なかなか説得しにくくなる。あまりお利口さんでない人や勘違いしている人たちがいるところでは、辞書を携えているのが望ましい。かく言うぼくも誤用のまま使ったりうろ覚えしたりしていることが時々ある。彼のミスを「他山の石とせねばならない」と思う。この用法はおそらく正しい。

遠近にとらわれない記憶

記憶に遠近感があることに誰もが気づいている。脳には遠い記憶と近い記憶が入り混じって同居している。直近の事件や事故は大きく見え即座に想起できるが、実質的にはより深刻だった過去の事件や事故が小さく見え意識に上ってこない。高齢になると例外的に逆の現象が起こるが、病理的な原因もあるだろうし、最近の出来事への関心が薄れるという理由もあるだろう。美空ひばりの思い出が強く、AKB48には興味がないという場合などだ。直近の事柄が記憶にすら入っていないから、想起できないのもやむをえない。

数百年前の人々が生涯に見聞してきた情報量に、現代人はほんの数日もあれば曝されてしまう。日々忙しく生きているから「点情報」を動態的に追い掛ける。憎しみや悲しみはさっさと忘れてしまいたいという心情もある。しかし、忘れることができても、憎しみや悲しみはいくらでも更新される。マスコミは情報を垂れ流すし、ぼくたちも最新の事件ばかりに目がくらむ。大震災があって津波があって原発事故があった。悲惨である。しかし、すべての媒体が「悲しい色」に染まるべきではなかった。NHK教育テレビぐらいは子ども向け番組を編成してずっと放送し続けてもよかったのではないか。

直近の悲劇を深刻に受け止める代わりに、その直前までに起こっていた大小様々の問題や怠慢や失態を忘れる。もっと恐いのは、やがて一段落すると、次なる目先の「どうでもいい芸能ニュース」が復活し始めることである。実際、そうなりつつある。熱しやすく冷めやすいと揶揄され続けてきた国民性だ。何度も見てきた「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がまた蘇りそうな空気が漂う。執念や執着のプラス側にも目を向けておきたい。同時に、どんな悲劇があっても、それまでの幸福や恵みを忘れてはならない。


口の中に入った瞬間は熱くてたまらないから身に染みる。しかし、いったん飲み込んでしまえば、喉を火傷していないかぎり、ついさっきの熱さもすぐに忘れてしまう。苦い経験も苦痛も、過ぎ去れば忘れる。嫌なことをいつまでも覚えているのはストレス因になるから、忘却は脳生理学的には健全であるとも言える。人間は「忘却の生き物」なのである。しかし、よいことも忘れる。恩も忘れる。学んだことも教訓も忘れる。あれほどまでに憤り憎しんだ記憶も彼方に消える。カレー事件はすぐに思い浮かぶか、耐震強度偽装問題はどうか、食品偽装の数々はどうか。裁判で結審の報道があるたびに、「そう言えば、そんな事件があったなあ」という始末である。

記憶全体の地図上で行き先の一点のみを見ているようなものだ。直近の外部からの刺激に過剰反応して行動するのは、「目の前のエサしか見えないカエル」と同じである。カエルをバカにするわけにはいかない。あまりにも多種多様な情報が飛び交っているから、同時にあれこれと想起し考えられなくなっている。やむなく一つずつ処理する。目の前の事柄のみに日々追われる。まるで情報浮浪民である。

点しか見ないから、昨日の点を忘れる。点と点がつながらない。過去からの経験が連続体として生かされず、今日の記憶から過去の記憶が排除されてしまっている。記憶の線が途切れれば、論理的思考どころではなく、刹那的発想しかできなくなる。一見すると、〈いま・ここ〉の生き方をしているようだが、〈いま・ここ〉を通り過ぎるばかりで、〈いま・ここ〉に集中し注力しているわけではない。遠近両用の記憶を保つためには、もっと頻繁に過去や歴史への振り返りをするほかない。場合によっては、瑣末な最新情報に目をつぶることも必要ではないか。

「だから?」と言いたくなる時

誰が言ったか忘れたが、「人は頭で納得して動くわけではない」という発言が耳にこびりついている。いつもそうとはかぎらないし、人それぞれなのではないかと反発した。だが、冷静に考えてみれば、「ぼくたちは必ずしも・・・・頭で、あるいは理性的に納得して行動するとはかぎらない・・・・・」と丁寧に――つまり、現実に即して部分否定的に――読み下せば、このコメントは間違いではないだろう。問題は、この発言に続くべき「だから……」が抜け落ちている点だ。

「人は頭で納得して動くわけではないから、説得する側はこうせよ」と言いたいのか、「人は頭で納得して動くわけではないが、そんなことではダメだぞ」と言いたいのかが語られていない。素直に尋ねてみよう、「人は頭で納得して動くわけではない。だから?」 もう一つ聞いてみよう、「では、人は何に納得して動くのか?」 さらにもう一つ。「人は発作的に動いたり思いつきで動くのか?」 これらの問いにまっとうな答えが返ってくる気がしないのはぼくだけだろうか。

相手に頭で納得してもらおうとする人は、おそらく論理的説得を試みる。したがって、この発言は「論理的説得で人を動かせるわけではない」と置き換えられる。しかし、そこで終えてはいけない。それはやむをえないと言うにせよ、ハートに訴えかけよと言うにせよ、前言をつなぐ意見を明らかにしなければ、ただの評論的な独り言で終わってしまう。「人は頭で納得して動くわけではない」という言説に分があるのなら、誰も頭を説得しようとしなくなるだろうが、適当な説得や衝動的な納得でいいわけでもないだろう。


定期的に送られてくるメルマガに次のようなくだりがあった。

「日本人は情緒的な民族でロジックが苦手です。理詰めで考えることに違和感を持つ人が多いのではないでしょうか。」

「人は頭で納得して動くわけではない」と似通っている。論理や情緒の話になると、なぜこうもステレオタイプな一般論が平然とまかり通るのか、不思議でならない。「あなたは情緒的で、ロジックが苦手、おまけに理詰めで考えることに違和感を持っているだろ?」と言われて、どんな気分になるか。これは「あなたはバカです」と言われているに等しいのである。

「日本人は論理は苦手だが、繊細で感性にすぐれている」などという論評は通俗的にすぎるし、かなり認識不足と言わざるをえない。仮にこの主張が現実を正しく言い当てているとしても、それでいいのかと問うのが論評する者の義務である。そう問い掛けて、このままでいい、いや、このままではいけないと意見を述べてもらわねば、時間を割いてメルマガを読んでいる意味がない。

深刻化する原発問題を見て、わが国の世論が情緒的解決を望んでいるのか。まさか。論理的思考に違和感を強めているとはとても思えない。仮にロジックが苦手であっても、この局面で「理詰めで考えることが苦手です」などと言っている場合ではないのである。それはそうと、世界の民族を情緒優位系と論理優位系などに二分することはできるのだろうか。もしできるのならば、アメリカ人などはどちらに属するのか、聞いてみたいものである。

たとえば米軍の「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」は情緒的なのか論理的なのか。情緒的動機から生まれた論理的行動なのか、それとも論理的判断に基づいた情緒的行動なのか。こんなことは永久にわからないし、問う意味もないだろう。なぜなら、どう考えるかは定義次第だからだ。ついでに言えば、米軍は壊滅された東北の街を救済する作戦も立てるし、リビアの市街地を破壊する攻撃作戦も立てる。両方を同時にやってのける。この状況を見て、「だから……」という意見や論拠を持つべきだろう。ぼくには頭以外の納得も説得の方法も思い浮かばない。

時間の目測感覚

「時間がわかる」のは大人の証である。時間という、見えない何か――おそらく概念――についての感覚を子どもたちに語り教えることははなはだむずかしい。毎日食べて遊んで学び、何年もかけて他者とともに生きていくうちに、生活と心身のリズムが一つになって時間を認識するようになる。ぼくたちは時計によって具体的に時間を認識するが、時計がなくても時間感覚は身に染みついてくるようになる。やがて瞬間瞬間の連なりを時間の流れとして感じる。

今日が月曜日だとしよう。そして、仕事の期限が金曜日の正午だとしよう。このとき、四日間と数時間という時間の目盛は万人に同じである。しかし、こと時間の目測ということになると、能力や段取りとも相まって、人それぞれの感覚が生まれてくる。あまり仕事上手でない人間が「まだだいぶ時間がある」と考えたり、処理能力の高い者が期限の目印をごく間近に見ているということがありうる。

歩いて5分の距離を「遠い」と感じたり、何十キロメートルを「近く」と感じたりする。誰かが言っていたが、オーストラリアで隣の牧場でパーティーがあるから行こうと誘われたので気楽に応じて出掛けたら、車を飛ばして1時間もかかったらしい。ぼくも、10年ほど前に帯広に滞在した折り、帯広の知人の「もう一泊して陸別の別荘に行きませんか」という申し出にオーケーしたことがある。とても近いと言われたからだが、実際はたぶん100キロメートル以上で、2時間半ほどかかったような気がする。


二段一気に上がれると見込んだ階段なのに、実際には一段半しか足が上がっていない。若かりし日々の駆け上がりの記憶、老いかけている硬い足の筋肉という現実。身体的な運動神経の現実を脳が目測違いしているのである。人柄がよくて人懐こいAさんに気軽に親しく声を掛けたら、怪訝な顔をされた。親近感と礼儀の目測を誤ったらしい。テリトリー感覚の相違かもしれない。距離と同じく、時間の目測感覚も人によってだいぶバラつきがある。

時間の目測間違いには想定間違いという甘さも含まれる。3日後にできると思っていた仕事だが、ふいの来客とクレーム対応に追われて、結果的に5日後になったなどというケースだ。さらに、リズムも時間の目測に影響を与える。生活リズムと仕事リズムである。そして、このリズムは性格、ひいては楽観主義や悲観主義などの人生観によって大いに左右されると思われる。新幹線にギリギリに乗り込む者はいつもたいていそうなるし、半時間以上余裕をもって喫茶してから早めに指定席に着く人はいつもそうしている。

「楽観主義者はドーナツを見るが、悲観主義者はドーナツの穴を見る」という表現がある。時間感覚に置き換えるとき、時間を少なめに感じるほうが仕事のミステイクや遅延は少ないだろう。実際、時間はたっぷりあるようで、あっという間に過ぎていく。ゆったりと過去を回顧したり未来に想いを馳せるのも悪くないが、こと仕事に関しては身を引き締めるように時間を目測すべきだろう。なお、楽観主義者がドーナツを、悲観主義者がドーナツの穴を見るが、ドーナツをさっさと食べてしまうのが現実主義者である。