語句の断章(6) 注文

今さら取り上げるまでもなく、〈注文ちゅうもん〉の意味は明々白々である。「カツ丼を注文する」「飲み物の注文を取る(または注文を聞く)」などの用例が示す通り。注文する、注文を取るという段階ではすでに対象が特定されている。カツ丼を注文して親子丼が出てくることはない。なお、飲み物や食べ物だけではなく、希望や条件を注文することもある。この場合、「注文をつける」という使い方をする。注文をあれこれとつけられる側は「小うるさい」という印象を持つ。

宮沢賢治に『注文の多い料理店』という短編がある。客に対して店側から注文がつけられるのだが、それがうまい料理にありつける条件と思いきや、実は客が食材として料理されてしまうという話。

出張先でチェーンの牛丼店に入った。久しぶりだった。そこで目撃したのは「注文の多い客たち」であった。食事時間わずか10分ほどの間に、誰かが「つゆだく」と言い別の誰かが「つゆなし」と注文をつけた。次いで聞こえてきたのは初耳の「タマネギ抜き!」だ。タマネギを抜いたらもはやそれは牛丼とは呼べないのではないか。以前、天丼の店で「上天丼。海苔とシシトウ抜きで」と注文をつけた男がいた。これは並のエビ天丼にエビが一尾トッピングされたものにほかならない。

何でもかんでも小さなニーズに細かく対応することが店のサービス方針になってしまっている。客も客なら、店も店なのである。メニューに載っているものを注文されたら、味加減も含めて自慢のレシピで料理を堂々と出し、客は出されるままに口に運べばいいではないか。牛丼店には望むべくもないが、物分りがよくて融通が利きすぎるのも考えものである。 

大量、集中、高速、反復

重厚長大じゅうこうちょうだい〉が遠い昔の幻影のごとく虚ろに見える。重くて分厚くて長くて大きいものが日本経済を支えた時代があった。造船、鉄鋼、セメント、化学などの産業が重厚長大の代名詞。半世紀前のこの国では「大きいことはいいこと」だったのである。しかし、高度成長時代の終焉とともに、そしてエレクトロニクスやサービス業の台頭もあって、重厚長大産業は急激に人気も業績もかんばしくなくなった。

代わりに主役に躍り出たのが〈軽薄短小けいはくたんしょう〉だ。多分に語呂合わせの要素もあるので、何もかもが軽く薄く短く小さくなったわけではない。省エネルギーや環境負荷の軽減の掛け声には軽薄短小のリズムがよく合ったようである。実際、身近な商品は多分にその方向にデザインされ製造された。とは言え、どれが軽薄短小かと自宅の中を見渡してみても、薄型テレビ、携帯電話、ノートパソコンくらいなものである。冷蔵庫や洗濯機は間違いなく大型化している。思うに、軽薄短小は目に見えない電子部品やソフトウェアを強く象徴したのだろう。

それはともかく、頼もしい雰囲気、語感という点で重厚長大に軍配を上げたい。「きみは軽薄短小な人だね」と形容されては喜べないだろう。環境負荷が大きくてエネルギーを食う重厚長大よりも優れているつもりで命名したはずの軽薄短小。なのに、なぜこんな響きの四字で命名してしまったのか。重↔軽、厚↔薄、長↔短、大↔小と、一文字ずつの漢字の単純反語を並べたのはいいが、もう少し知的に響かせる工夫があってもよかったのではないか。


ノスタルジックに重厚長大を志向する経済社会の復活を願うものではない。資源は希少であるから軽薄短小的に使うほうがいいだろう。ただ、ヒューマンリソースを同じように扱うことはない。個人の知的生産活動にあたっては軽薄短小に落ち着いてしまってはいけないと思う。読書も語学もその他の趣味も、大量かつ集中的に高速でおこなうのがよく、できれば何度も何度も繰り返すのがよい。何かに精通して生産的になるためには、大量、集中、高速、反復の要素が欠かせない。才能の有無にかかわらず、である。

大量、集中、高速、反復は、ムダな資源をダラダラと長時間浪費しないための心得だ。長時間取れないという前提、少なくとも決めた時間内だけの知的活動という前提に立っての条件なのである。大量とは、素材、すなわち情報に関わる条件である。多品種でも少品種でもいい、できるだけ多く扱い触れるようにする。以前3時間かけていたところを1時間でおこなう。これができれば、同時に集中と高速が実現していることになる。ぼくは速読の理解効果に関しては半信半疑の立場にあるが、速読の大量・集中・高速の効果を否定はしない。

しかし、勇ましい大量・集中・高速だけで終われば、バブリーな重厚長大の二の舞を演じてしまいかねない。知的生産活動には忍耐というものが必要だ。忍耐とは飽くことなく繰り返すことにほかならない。反復という単純行為は、大量・集中・高速で触れた素材を確実に記憶庫に落とす最上の方法なのである。記憶媒体や電子機器のなかった時代によく実践されたのは、音読であり紙に書くという身体的トレーニングであった。結局、読書にしても語学にしても、短時間で反復するほうが効果が上がっている。「継続反復は力なり」という格言を作ってもいいと思う。

すべて人次第

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記に「鋳物は型次第」のことばがある。これを、完成品に先立って構想や設計図が重要だと読み替えてみる。あるいは、「結果は前提に支配される」と抽象化してみる。「内実は形式に従う」でもいい。鋳物なら型の枠や形状が目に見えるが、型には見えないものもある。そのつど手が型を作る仕事もある。手で作った型がそのまま実になる仕事である。

少しジャンプする。もし「仕事は道具次第」ならどうだろう。仕事を極めてしまえば、後は道具で決まるというプロフェッショナルもいる。実際、「水彩画は紙次第」や「バイオリン演奏は楽器次第」という説がないわけではない。素人が「マイクが悪いからうまく歌えない」と言い訳するのとはわけが違う。そこで、ぼくにとって「それ次第」と言い切れる道具とは何かと考えてみた。しかし、企画をしたり講演したりするうえで、この道具でなければならないものなど思いつかない。筆記用具、紙、手帳、パソコン、マイク、演台……別に上等でなくてもいい。

仕事の出来はいいのに報われない。「講演は聴衆次第」や「企画は評価者次第」などと言いたくなる時もあった。しかし、そんな身の程知らぬ愚痴はもう20年前に卒業した。うまくいかない時はすべて人徳の無さ、実力不足と思いなすしかないのである。いずれにせよ、「ぼくの仕事は何々次第」の何々はぼくの技術・力量以外に見当たらない。ぼくのいる業界では、幸か不幸か、フランスの最高水彩紙アルシュやバイオリンのストラディバリウスに相当するようなものはない。出費が少なくて済むという点では、間違いなく幸いなるかな、である。


しかし、ダ・ヴィンチの原点に戻れば、「仕事は型次第」なら大いにありそうだ。固定した型などないかもしれないが、何がしかの型は仕事に先立ってつねに存在する。構想の型、企画の型、構成の型、手順の型、話しぶりの型、情報の型……探せばいくらでも出てくる。そして、この型を選び決めるのは、仕事をする本人以外に誰もいない。言い換えれば、「型は本人次第」というセオリーも見落とせなくなるのである。

さて、ここまで来れば、昔から繰り返されてきた「道具は使う者次第」にも共感せざるをえない。制度や仕組みや集まりの会を作る。インフラストラクチャでも法律でも何でもいい。明らかなことだが、作るだけで何もかもがうまく機能することなどありえない。機能させるには、意志と行動と能力が欠かせないのだ。道具を買い求める。その瞬間から便益が得られるわけではない。使う者の、善用に向けての良識が働かなければならない。

刃物も車も薬も、期待される通りにまったく同じ使われ方をすることなどない。すべての書物、すべての交通手段、すべての建物が同じ価値をすべての人々に供するわけではない。これらを便宜上すべて道具と呼ぶならば、人それぞれの道具の生かし方が存在する。「道具は使う者次第」とは、人が道具によって試されるということだ。道具を使う者が万物の尺度に値する良識を持ち合わせていることを願うしかない。

語句の断章(5) 推敲

書きっぱなしにして胸を張れるほどの文才に恵まれないから、書く行為に続けて文体や表記を整える編集は欠かせない。但し、書くのと同じ視点で編集はおこないがたい。いったん書いた文章を突き放さなければならない。日本語ならまだしも、外国語の場合は徹底的に読み手側に立たねばならない。英文ライティングを生業としていた頃、文体や表記の厳密さに舌を巻いた。千ページに近い分厚いスタイルマニュアルで調べるたびに、よくぞここまで細かく規定するものだと感心した。

〈ウィドウ(widow)〉と〈オーファン(orphan)〉という、見た目に関する禁忌事項がある。ウィドウとは未亡人、オーファンとは孤児のこと。いやはや過激なネーミングである。日本語の「段落の泣き別れ」に近いが、もっと厳しい。ウィドウとは、段落の最終行が次のページの一行目にくる状態である。短い文章だと宙ぶらりんに見える。オーファンには二つある。一つは、ページの最終行が新しい段落の一行目になる状態。もう一つは、ページの最終行が短行になったり段落の最終行が一語だけになったりする場合である。いずれも孤立したように見えて落ち着かないし、可読性も悪い。

上記のことは編集上のルールなので、明快である。しかし、〈推敲すいこう〉と呼ばれる語句の練り直しに決まりきったルールがあるわけではない。作者自らが納得の行くまで表現や語感を研ぎ澄ます。五七五の余裕しかない俳句などにおいては推敲そのものが作品を形成すると言っても過言ではない。先日、古本屋で函に入った立派な『芭蕉全句集』を買った。前後して『日本語の古典』(山口仲美著)を読んでいたら、『奥の細道』にまつわる推敲のエピソードに出くわした。高校の古典の教師に聞かされたか別の本で読んだような記憶がある。

静寂な空間に大舞台を連想させる、「しずかさや岩にしみる蝉の声」が完成するまでの練り直しの過程が紹介されている。最初に「山寺や石にしみつく蝉の声」が詠まれ、次いで「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」と書き直された。これら二作なら自分でも作れそうだと思ってしまう。下の句の「蝉の声」だけ変化していないが、動詞は「しみつく」、「しみこむ」、「しみいる」と変化している。このように比較すると、「しみいる」が絶対のように見えてしまうから不思議である。なお、蝉の種類についてはアブラゼミかニイニイゼミかで論争があったそうだが、岩にしみいるのは「チー……ジー……」と鳴くニイニイゼミだろうという結論のようである。

「文章をチェックしました」よりも「文章を推敲しました」と言われるほうが信頼性が高そうに思える。「すいこう」という音の響きには文章が良くなったという印象が強い。推敲は「僧推月下門」に由来する。中国は唐の時代の賈島かとうという詩人の詩の一句だが、門をすの「推す」を「たたく」にするかどうかで迷っていた。韓愈かんゆの奨めで「推」を「敲」に変えたので、推敲が字句を練ることに用いられるようになったのである。

スタイルや表記の統一はある程度可能だが、こだわり出すと推敲は延々と続く。類語辞典を引いて、類語が三つや四つならいいが、何十とあると困り果てる。推敲は重要な作業ではあるが、語彙以上の表現やこなれ方を欲張ってはいけないのだろう。

流れと成り行き

流れと言えば、つい最近では「立ち合いは強く当たって、後は流れでお願いします」が傑作だった。完全なシナリオを作ると八百長がバレる。かと言って、まったくの白紙状態では想定外の変化に対応できない。というわけで、「初期設定」だけしておいて、「後は流れ」になるのだろう。ゼロの状態から流れは生まれない。最初の動きや方向性を踏まえてスムーズに流れてもらわなくては困る。

流れで行くのも様子を見るのもいいだろう。だが、往々にして、「流れでいきましょう」と発言する張本人が流れも様子も読めないから滑稽である。会合に遅れてきて、それまでの経緯がまったくわからないまま、流れに乗れていると錯覚する御仁。「ちょっと様子を見てきます」ということばなどほとんど信用できない。そもそも流れや様子という表現で場を凌ごうとする魂胆が見苦しい。

頭が状況についていけていないのに、舌だけが空回り気味に滑るアナウンサーが、びわこマラソンの実況放送の冒頭でつまらぬことを口走った。先頭集団が競技場をちょうど出たあたりで、「昨年はここで若干アクシデントがありました」と言ったのだ。当然続くはずのアクシデントの中身を待っていたら、話はそれきりで、レース実況を平然と続けている。何が若干のアクシデントなのか。みなまで言わないのなら、こんな話を持ち出す必要はなかった。同じ場所を走る選手たちを見て昨年の光景が浮かび、流れで喋った。しかし、昨年のマラソンを見ていない視聴者はその流れに乗れない。


何もかも予定通りに運ぼうとすれば、発想は硬直化するし手順はマニュアル化する。だから、流れや様子を見る余裕――あるいは経過観察――があってもいいし、成り行きを見て臨機応変に振る舞うのも悪くない。しかし、成り行きには功罪がある。臨機応変という〈功〉になればいいが、主体性の放棄という〈罪〉もある。

仕事でも生活でも一度決めたことを変更せざるをえないことがある。たまにはいいが、のべつまくなしでは主体性はおろか自分をも見失ってしまう。日々の先約や主体的な計画が、いとも簡単にふいの来客や雑用によって潰れてしまう。崩れるような意思は意思ではなかったと言わざるをえない。趣味にしてもメセナなどの企業活動にしても、やろうと決めたなら外的な変化に右往左往して断念してはいけないのである。

「忙しくて、◯◯したくてもできない」という愚痴をこぼしているうちに、人生はあっと言う間に過ぎてしまう。流れや成り行き任せは多忙の原因の一つである。そして、多忙ゆえにできなかったことは、しなくてもよかったことに違いない。やろうと思っていてやらなかったことなどは、強い意思に支えられた、真に欲することではなかったと見なすべきだろう。平然と流れに棹差す生き方を目指すなら、桁外れの才能と決断力を身につけるのが先だ。

休日のぶつくさ

「今年のゴールデンウィークのご予定は?」と聞かれ、「どこにも出掛けない。たぶん散歩と思索三昧」と答えたのが先月の下旬。思索三昧などと言っているが、別に大したことを考えるわけではない。考えることと話すことはぼくの仕事の中核だから、休日でも仕事をしていると言えばしていることになる。本を読んだり美術館に出掛けたり散歩をするのは趣味であるが、仕事につながると言えばつながるかもしれない。「いいですねぇ。羨ましいですねぇ」などと言われるが、いいも悪いもない。もう30年以上そうして生きてきた。

連休が始まる前に「ゴールデンウィークはカレンダー通りですか?」とも聞かれ、「そのつもりだけど……」と答えてカレンダーを見たら、見事な飛び石であることがわかった。先月29日から3日間休み、今月2日に一日だけ出社して、3日・4日・5日と3連休。そして、6日に出社すると、続く土・日がまた休みである。誰の仕業でもあるまいが、休日が煩わしい並びになったものである。というような次第ゆえかどうか知らないが、2日と6日を休みにした企業がある。そうなると10連休だ。一ヵ月足らずしか働いていないのに、新入社員にはご褒美過多ではないか。


根は飽き性なのだが、三日坊主の空しさを何度も痛感してきたから、一度決めたことは決めた期間中継続するよう強く意識している。一番果たされない約束は自分との約束である。自分でやろうと決めたが、仮に反故にしても誰にも迷惑がかからない……こんな思いから平気で三日坊主を演じてしまう。「まあ、いいか」が終りの始まりなのである。ところが、こんな人間ほど「継続は力なり」を座右の銘にしているから開いた口が塞がらない。

ぼくのような大した実績もなく権威でもない者がいくら諭しても聞いてくれない。そこでよく持ち出すのが孟母の話だ。孟母がらみの教えは二つある。

一つはよく知られたエピソード、「孟母三遷の教え」である。墓地の近くに住めば葬式ごっこ、市場の近くに済めば商人ごっこ。これでは教育にならぬと学校のそばへ引っ越せば、孟子は礼儀作法をまねた。今なら職業差別沙汰になるが、まあ大目に見ることにして、〈環境と刷り込みの関係〉を読み取ろう。環境要因を抜きにして学びを語ることはできない。

もう一つの教え。実はこちらが三日坊主への直接的な戒めになる。「孟母断機の教え」がそれ。断機の戒めとも言われるが、学業を途中でやめてはいけないという教訓だ。学業だけでなく、いったんやろうと決めたこと全般に通じる話である。この断機の機は「機織はたおり」の機のこと。勉強を中途半端に放棄するのは、織っている機の糸を断ち切るのと同じことだと孟母は言う。


リラクゼーションも捨てがたいし、日頃できない遊びにも打ち込みたい。孟母三遷流に言えば、休日だからこそ環境を変えてみるのは良さそうだ。その一つが旅である。旅がままならないなら、一日の生活環境を変える工夫もあるだろう。ぼくは休日が断機にならぬように配慮する。せっかくの休日だからと緩めすぎては、せっかくの継続的習慣に終止符を打ってしまう。休日だから休めばいいというものではない。休日の過ごし方は実に悩み多いのである。

思い通りにならない……

まだクレジットカードもあまり普及していない時代、財布の中に入っている現金の範囲内でしか使えなかった。現金が一万円なら、いくら贅沢しようにも一万円が限度であった。したがって、財布に一万円ぽっきり入れるということは、「今日は一万円以上使わない」という決意の表われでもあった。ところが、財布の中にカードも収まっている現在、一日の予算が膨らんでしまった。要するに、予定外出費や衝動買いの可能性が高まっているのである。

まったく経験がないのでわからないが、大金を持つがゆえの悩みがあるらしい。正確に言うと、「持ち過ぎるがゆえ」である。過去にそんな知り合いがいないこともなかった。まだバブルがはじける前の80年代、三十歳前にして財布に一万円札がいつも十数枚入っている後輩がいた。それだけ入っていれば、ほとんど入っていない連中と飲食に出掛けるたびに、必然ご馳走する側を受け持つことになる。「いつもたかられる」と、持つがゆえの悩みを吐露していた。「悩みたくなければ、万札を持たなければいい」とよく彼に言ったものだ。

持たないゆえの悩みもある。しかし、持っていないのだから、少なくとも失う悩みはない。これに対して、持っていれば不安はないが、失うかもしれないという恐れと悩みはつきまとう。「ないものを失うことはできない。しかし、あるものは失うかもしれない」は真理である。それゆえ、持たない悩みも持つがゆえの悩みも存在する。持たない悩みは所有によって解消できるが、なかなか実現しづらい。だが、持つがゆえの悩みを解決するのはむずかしくない。持っているものを捨ててしまえばいいからである。捨てるときは辛いが、一度だけ思い切れば、金輪際悩むことはなくなる(髪の毛が抜け始めて少なくなってきたら、スキンヘッドにするのが正しいとぼくは思っている)。


「思い通りにならない」とうなだれるくらいなら、いっそのこと「思い」を捨てればいいのではないか。思いがあるから、思い通りに事が運ぶことを期待するわけだ。思いは独りよがりな目論見であるから、外れれば当然がっかりする。だから、最初から思いなど抱かなければいいのである。そう、ハズレ馬券が嫌なら、馬券を買わなければいいのと同じ理屈である。

ただ、これで「すべて世は事も無し」という具合にはいかない。たしかに、思い(または思惑)を捨てれば、思い通りにならない切歯扼腕と無縁でいられる。しかし、同時に、思い通りにいくという快感体験も放棄することになる。しくじるという感覚もない代わりに、思い通りの成り行きにほくそ笑むこともできないのである。両者を天秤にかけて、どちらを取るか。その取捨選択ぶりで性格がわかるかもしれない。思い通りにならない悔しさとおさらばするか、思い通りにいく愉しさを放棄するか……。

ややトリッキーに二者択一の答えを迫ったが、律儀に一方のみを選ぶ必要などない。世の中には、思い通りになることもあるし、思い通りにならないこともあるのだ。複雑なことに、思い通りに事は運んだが結果が思い通りでなかったということもありうるし、思い通りの展開ではなかったが結果には満足しているということもありうる。月並みな結論になるが、その思いが自分自身の意見に裏打ちされているかぎり、思い通りにならない悔しさと思い通りにいく喜びのいずれにも意味がある。長いものには巻かれろ式に生じた思いでは、悔しさも喜びも体験できないだろう。

語句の断章(4) 安い・安っぽい

ことばは〈差異のネットワーク〉だから、違いを踏まえて複数同時に覚えていくのがいい。一つずつ順番に覚えていくのは効率が悪い。新たな語を学ぶたびに、既知の語の意味を微妙に修正しなければならないからだ。中学英語で“cheap”を教わったときは、品質が劣っているというニュアンスまでは知らず、「安い」と覚えた。高校英語で“reasonable”(お手頃な)や“inexpensive”(低価格の)に出合ってから、“cheap”は「安い」と言うよりも「安っぽい」に近いことを知った。

かつて「安い」と「安っぽい」が同義の時代があった。中学で英語を学んでいた1960年代の前半、日本製品には「安かろう、悪かろう」のイメージがこびりついていた。「安っぽい」は値段は安いが品質も悪い製品を表わす表現であった。長らくの間、安価は高価に対して質的にも劣るというイメージを背負ってきた。

だが、「安い」と「安っぽい」は本質的に同じではない。5段階で言えば、かつてはクラスAに対して、安いはクラスE(=安っぽい)だったが、今ではクラスCやクラスBにまで地位を上げてきた。価格の差ほど品質の差がなくなってきたのである。

低価格で品質に不満がなければ、高価格・高品質が苦戦するのもうなずける。高価格・高品質組は、ステータスとブランド以外に何か訴求点を見つけないと、先行き危うくなるだろう。安っぽさと決別した「安さ」を侮ってはいけないのである。

真偽を確かめる方法

推論や証明は直球で論じると不粋なテーマになってしまう。そうならないよう、肩の凝らない、気楽なエピソードを紹介したい。

初心者対象のディベートの勉強会をしていた頃、英国で出版された“Make Your Point”という中学生向けのテキストを参考にしていたことがある。議論の演習を目的としたもので、30の命題が設けられている。「美か知か」や「学生はアルバイトをすべきか」や「自動車―祝福か呪いか」などのテーマについて質疑応答をおこない、賛否を考え、最終的にフリーディスカッションで締めくくるという体裁に編まれている。英文もやさしく、よくできた本である(初版は1975年。手元にあるのは1987年版の11刷)。その本から「若い科学者: 残酷、それとも好奇心?」というテーマを取り上げてみる。次のような導入が書かれている。

蜘蛛にとても興味のある生徒がいた。「蜘蛛には耳がないようである」と「蜘蛛にはたくさんの足がある」という二点が気に掛かっていた。ある日、「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」とひらめいた。そして、生物の先生にこのことを話してみたのである。「それはおもしろい理論だね。でも、証明するには実験をやってみないと」と先生は言った。少年は実験をすることにした。


その実験が常軌を逸しているのだが、フィクションだと思えば許せる。少年が試みた実験の手順は下記の通りであった。

実験目的   :  蜘蛛が足で聞いているかどうかを調べる。
使用器具   :  鋭利なナイフ、蜘蛛、テーブル。

実験(i) :  テーブルの中央に蜘蛛を置き、「跳べ!」と命じた。
結果(i) :   蜘蛛は跳んだ。

実験(ii):   蜘蛛の足をナイフで切り落とし、蜘蛛をテーブルに戻し、「跳べ!」と命じた。
結果(ii):   蜘蛛は跳ばなかった。

さて、以上の実験と結果から少年はどのように推論して結論を導いたのだろうか。彼の仮説「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」は次のように証明されたのである。

結 論  : (足を切り落とした二度目の実験で)蜘蛛が跳ばなかったのは、「跳べ!」という指示が聞こえなかったからである。ゆえに、蜘蛛の足には聴覚がある。


残念ながら、少年が試みた証明は事実に反している。専門家やぼくたち一般人が承知している事実に、である。蜘蛛は足で音を聞いていないことをぼくたちは知っている。いや、それが事実かそうでないかを棚上げしても、この実験では不備が多すぎることを感知できる。蜘蛛は人間が発する「跳べ!」を解せるのか、「跳べ!」に対して跳んだのは偶然ではないのか、仮に「跳べ!」を聞いて意味を解しても、足を切り落とされたら跳びたくても跳べないではないか……。

ぼくたちの素朴な疑問に対して少年は必死に答えるだろう。ぼくたちが執拗に検証すれば少年は反論もするだろう。しかし、彼の証明は空しい。実験は不完全であり、既知の事実を覆すだけの新説を打ち立てるには到っていないからである。

ぼくたちが少年の証明を認めないのは、蜘蛛について、聴覚について、足について、跳ぶことについてすでに知っているからである。ぼくたちには経験と知識において、少年よりも一日の長があるように思われる。しかし、まったく経験も知識も持ち合わせないテーマの実験に対してはお手上げである。自力で真偽を確かめるすべはないから、真偽を権威に委ねざるをえない。そして、ぼくたちが頼りにしている権威が専門分野に関して何でもかんでもお見通しというわけではないことを知っておくべきだろう。

教訓:「よく知っていることについて真偽を確かめることはできる。あまりよく知らないことについては確かめるのは困難である。」

粉飾するイメージ、言い訳する言語

JRのチケットをネットで買うが、あれを通販とは呼ばないだろう。予約の時点でカード決済するものの、手元には届けてもらえない。出張時に駅で受け取るだけである。注文したものが宅配されるという意味での通販は、最近ほとんど利用していない。ただ一つ、お米だけホームページ経由で買っている。そんなぼくが、デパートに置いてあったチラシを見て、衝動的にオンラインショッピングしてしまった。お買い得そうなワインセレクションである。カード決済はすでに終わっているが、手元に届くのは一カ月以上先だ。

会員登録したついでにメルマガ購読欄にチェックを入れた。それから10日も経たないのに、あれやこれやとメルマガが送られてくる。数えてみたら9通である。読みもせずにさっさと「削除済みアイテム」に落としていったが、件名に釣られて「珍味・小魚詰合せセット」のメルマガを開いてみた。重々わかっていることだが、見出しが注意喚起の必須要件であることを「やっぱり」という思いで確認した次第である。

さて、そのメルマガ情報だ。一つずつ順番に珍味と小魚の写真と文章を追った。そして、カタログなどでよくあることだが、あらためてそのよくあることが奇異に思えてきたのである。北海道産鮭とば、北海道産函館黄金さきいか、国内産ちりめんじゃこ、ししゃも味醂干し、国内産うるめ丸干しの五品が写真で紹介され、それぞれの写真の下に注釈がある。商品個々の特徴はレイアウトの真ん中から下半分のスペースにまとめて書かれている。


個々の写真の下の注釈を見てみよう。鮭とば――「画像は200gです」、さきいか――「画像は250gです」、じゃこ――「画像はイメージです」、ししゃも――「画像はイメージです」、うるめ――「画像は150gです」。いずれも画像に関しての注意書きになっている。「実際は異なりますよ」が暗示されている。

では、実際はどうなのか。鮭とば――200gではなく100g、さきいか――250gではなく125g、じゃことししゃも――実物がイメージとどう違うのか不明、うるめ――150gではなく100g。要するに、写真は実物をカモフラージュしているのである。実際の売り物とは違う写真を見せ、しかも「これらの写真は虚偽です」と種明かしをしている。あまりいい比喩ではないが、超能力者が空中浮遊してみせ、自ら「これはインチキです」と言っているようなものだ。

パソコンやスマートフォンの画面でも「画面ははめ込み」という注がついていることがある。上記の「画像はイメージです」も不可思議で、イメージには日本語で画像という意味もあるから、「画像は画像です」または「イメージはイメージです」と言っているにすぎない。ここで言うイメージとは何なのか。「実物ではないが、実物らしきもの。実物を想像してもらうためのヒントないしは手掛かり」という意味なのだろう。では、なぜ実物通りの写真を見せないのか。これが一つ目の疑問。次に、実物とは異なる写真を掲げておいて、なぜ実物の説明をするのか、つまり、なぜ相容れない要素を同一紙面で見せるのか。これが二つ目の疑問。

一つ目の疑問への答えはこうだ。実物が貧相なのである。だから実物よりもよく見える写真や実物の倍程度増量した写真を見せるのだ。これはイメージの粉飾にほかならない。二つ目の疑問への答え。格好よく見せることはできたが、注釈不在ではクレームをつけられる。だから「本当は違います」と申し添える。次いで、「本当はこうなんです」と実際の量を明かす。嘘をついた瞬間「すみません、ウソでした。本当は……」と告白しているだらしない人間に似て滑稽である。

写真もことばも嘘をつくが、広告においてはイメージの上げ底を文章が釈明することが多い。信頼性に関しては、文章に頼らざるをえないのだ。もっとも、こんなことを指摘し始めると大半の広告は成り立たなくなってしまうのだろう。だが、自動車の広告で写真を見せておきながら、「画像はイメージです」とか「画像はタイヤが四輪です」などはありえない。実物が超小型車でタイヤが二輪だったら、それは自転車であってもよいことになる。珍味・小魚だからと言って大目に見るわけにはいかない。ぼくには、「画像はイメージです」と言われっ放しの「ちりめんじゃこ」と「ししゃも味醂干し」の実物がまったく想像できないのである。だから、そんなものを注文したりはしない。