思い通りにならない……

まだクレジットカードもあまり普及していない時代、財布の中に入っている現金の範囲内でしか使えなかった。現金が一万円なら、いくら贅沢しようにも一万円が限度であった。したがって、財布に一万円ぽっきり入れるということは、「今日は一万円以上使わない」という決意の表われでもあった。ところが、財布の中にカードも収まっている現在、一日の予算が膨らんでしまった。要するに、予定外出費や衝動買いの可能性が高まっているのである。

まったく経験がないのでわからないが、大金を持つがゆえの悩みがあるらしい。正確に言うと、「持ち過ぎるがゆえ」である。過去にそんな知り合いがいないこともなかった。まだバブルがはじける前の80年代、三十歳前にして財布に一万円札がいつも十数枚入っている後輩がいた。それだけ入っていれば、ほとんど入っていない連中と飲食に出掛けるたびに、必然ご馳走する側を受け持つことになる。「いつもたかられる」と、持つがゆえの悩みを吐露していた。「悩みたくなければ、万札を持たなければいい」とよく彼に言ったものだ。

持たないゆえの悩みもある。しかし、持っていないのだから、少なくとも失う悩みはない。これに対して、持っていれば不安はないが、失うかもしれないという恐れと悩みはつきまとう。「ないものを失うことはできない。しかし、あるものは失うかもしれない」は真理である。それゆえ、持たない悩みも持つがゆえの悩みも存在する。持たない悩みは所有によって解消できるが、なかなか実現しづらい。だが、持つがゆえの悩みを解決するのはむずかしくない。持っているものを捨ててしまえばいいからである。捨てるときは辛いが、一度だけ思い切れば、金輪際悩むことはなくなる(髪の毛が抜け始めて少なくなってきたら、スキンヘッドにするのが正しいとぼくは思っている)。


「思い通りにならない」とうなだれるくらいなら、いっそのこと「思い」を捨てればいいのではないか。思いがあるから、思い通りに事が運ぶことを期待するわけだ。思いは独りよがりな目論見であるから、外れれば当然がっかりする。だから、最初から思いなど抱かなければいいのである。そう、ハズレ馬券が嫌なら、馬券を買わなければいいのと同じ理屈である。

ただ、これで「すべて世は事も無し」という具合にはいかない。たしかに、思い(または思惑)を捨てれば、思い通りにならない切歯扼腕と無縁でいられる。しかし、同時に、思い通りにいくという快感体験も放棄することになる。しくじるという感覚もない代わりに、思い通りの成り行きにほくそ笑むこともできないのである。両者を天秤にかけて、どちらを取るか。その取捨選択ぶりで性格がわかるかもしれない。思い通りにならない悔しさとおさらばするか、思い通りにいく愉しさを放棄するか……。

ややトリッキーに二者択一の答えを迫ったが、律儀に一方のみを選ぶ必要などない。世の中には、思い通りになることもあるし、思い通りにならないこともあるのだ。複雑なことに、思い通りに事は運んだが結果が思い通りでなかったということもありうるし、思い通りの展開ではなかったが結果には満足しているということもありうる。月並みな結論になるが、その思いが自分自身の意見に裏打ちされているかぎり、思い通りにならない悔しさと思い通りにいく喜びのいずれにも意味がある。長いものには巻かれろ式に生じた思いでは、悔しさも喜びも体験できないだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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