水辺の散策

休日の今朝、ガラス窓の向こうの光が眩しかった。陽射し浴び放題のこんな日に引きこもっていてはもったいない。いつもとまったく違う道順が浮かぶ。素直にそのイメージに従うことにした。目論んだのは河畔の散策、とりあえず目指したのは旧桜宮さくらのみや公会堂から帝国ホテル。〈水都大阪〉と高らかに謳うトーンに実景のほうは追いついていないが、まずまずの癒しゾーンと言えなくもない。

大川河畔2

のらりくらりと小一時間そぞろ歩いて河畔へ。大川の水嵩がさほど増していないのは、岸の石積みの壁を見ればわかる。水面は跡形のついている水位には届いていない。しかし、川の流れに逆らって水辺を歩いていたから、波が風の力を借りて幾重にもくねり、目線上に迫るほど膨らんで見えた。鴨と鴎が水面に浮かび、大いに揺れている。白鷺は悠然と構えて動かない。どうせ餌のことしか考えていないくせに、まるで思索する哲学者のようだ。


晴れて明るく澄みわたり、陽射しがやわらかくて温かい。青色が誇らしげに威張れる日である。青が綺麗に見える日は、樹木や建造物が水辺の構図に無理なく溶け込み、切れ味のいい遠近感が生まれる。この川は蛇行している。セーヌ河がそうであるように、蛇行する川は物語性を帯びる。しかし、惜しいことに、このあたりに歴史の面影は色濃く残っていない。今の街はすでに過去と決別をしてしまった。過去と現在はもはやつながっていないのである。この意味では、ぼくの理想の魅力的な街ではない。だから、ここを歩く時は無理にでも過去と現在をつなぐ。つまり、本で学んだ過去を想像する。

馴染みのある場所であっても、散策経路は変わる。いや、変えなければマンネリズムに陥る。実は、散策道に飽きるなどと言っているあいだはまだ本物の散歩人ではない。毎日同じ道をそぞろ歩きしても退屈せずに意気揚揚としているのが遊歩名人の証だ。ぼくにとっては道険しい境地だが、フィレンツェの老人たちは黄昏の街の同じ道を何度も往復する。無言で歩く人あり、連れと語り合いながら歩く人あり。そんな散歩に憧れた。

大川河畔1

とは言うものの、どの道を行こうかとほんの少し逡巡する時間に心が動くことも否めない。真っ直ぐ行こうが右の小径を下ろうが、数十秒後には同じ場所で合流するのは知っている。しかし、この際、そのことはどうでもよく、結末に大差のない二者択一の岐路で立ち止まることに意味があるような気がするのだ。

そうそう、つまらぬことだが、途中で寄ったスーパーでもコロッケパンにするか高菜のおにぎりにするか迷った。二時間近く歩いた後は何を食べてもうまいから、迷うことなどないのだが……。青い空のもと、水辺に視線を流しながらコロッケパンを頬張って幸せになった。

寒の趣

かんおもむき」などと言えてしまうのは、純正の寒をほとんど知らないからだろう。冬枯れや雪景色に趣はあっても、身に応える寒さに風情や味わいはないのかもしれない。大阪に生まれ、ほとんど大阪で暮らしてきたとはどういうことか。それは土着性のお笑い風土に染められるというだけにとどまらない。雪や寒さと縁が薄いということをも意味する。京都や奈良で底冷えし雪が積もる日、朝の天気予報に今日は寒いと脅されても、大阪の寒さなどたかが知れているのである。

北海道は陸別の山間やまあいで、夏なのに震えあがるような体験をしたことがある。別荘の持ち主の知人は冬場にそこでクロスカントリーを楽しむと言っていた。しかし、招かれたのは六月。夏スーツ姿で大阪を出た。薪を炊いて焼肉をご馳走になった室内でもジャンパーを借りていた。午前五時頃に目が覚め、トイレに立った。トイレは屋外である。小用を足してしばらく天空を仰いでいたら冷凍人間になりかけた。寒さに襲われて「寒い!」と呻いている間はたいした寒さではない。寒い時、人はただ神妙になって黙る。

奈良に住んでいた二十代の頃には真冬のこれぞ寒という空気を何度か体験した。風邪を引いて出社し深夜になって坂道を歩いて帰った日。冷え切っているわ、悪寒は走るわで自宅に辿り着いた時には震えが止まらなかった。大晦日の薬師寺も底冷えしていた。空気が澄み、除夜の鐘を聞くという舞台装置が整えば、温度計の目盛を下回る寒さが募るものである。雪国の住民からすれば、何を大袈裟なという程度だろうが……。


生涯一番のしばれる体験は十数年前のウィーンである。三月初旬というのに稀に見るほどの雪が降った。市街の街歩きなのにいったいどれほどの厚着をしたことか。五枚? 六枚? 下着の上にパジャマも重ねたのを覚えている。持参した着替えを総動員したことは間違いない。雪は降り止んで解け始め、街はすっかり青空に包まれていた。にもかかわらず、澄み切った冷気は重ね着の武装をいとも簡単に通過した。まるで素っ裸のまま街なかに晒された寒中罰ゲームのようだった。

冬の古語表現に「つる」というのがある。寒風にさらされて凝り固まるという意味だ。実際に凍るモノに使われるだけでなく、凍らないものを比喩することもある。もう一つ、「ゆる」がある。鮮やかに澄み切りしんしんと冷え込むさま。いずれの語も「冷える」では物足りない、冬ならではの凛とした風雅な趣を際立たせる。それぞれの語に思いつくままの概念を合わせてみよう。

月冱つる、星冱つる、風冱つる、霜冱つる、波冱つる、煙冱つる、音冱つる
空冴ゆる、花冴ゆる、雲冴ゆる、色冴ゆる、街冴ゆる、路冴ゆる、樹冴ゆる

こんなふうにことばを紡げるのは、肉体にこたえる寒冷地に身を置いていないからに違いない。ぼくにとって寒は精神性の色合いが強い。どの風土に生まれ暮らすか……そこにはことばでは伝えがたい自然の五感への刷り込みがある。ともあれ、最低気温が零下になるのが年に六日しかない街にあって寒の趣は稀少である。

ジョアン・ミロと中華料理

四条大橋

昨日、半年ぶりに京都に出掛けた。京都市美術館で開催中の『ルーヴル美術館展』でヨーロッパの風俗画を鑑賞後、三条から祇園、四条大橋、河原町あたりを散策した。例によって四条大橋から北の方向を臨み鴨川風情に目を休ませた。この橋を川端通りから渡ると、東華菜館の建物が否応なしに視野に入る。絵画展の後にこの建物を見れば、少年から青年になった頃のある日を必ず回想することになる。

小学校と中学校時代、文学と絵画への好奇心は旺盛だった。中学二年になった時、学年1,100人中つねに成績が1番か2番のS君と同じクラスになった。十三歳にして老成した感のある彼は、できたのは勉強だけでなく多趣味で多芸だった。LPレコードでクラシック音楽を聴き、ほとんど手の内に入れていた。最初の数秒聴くだけで作曲者と曲名を瞬時に答えるほどの精通ぶりである。彼の影響を受けて、ぼくも「コンサートホール」というクラシック音楽のレコード頒布会に入った。最初に買ったのはシューベルトの『弦楽四重奏 ます』。入会記念プレゼントとして『未完成交響曲』をもらった。

普通の成績のぼくとS君との格差はかなりのものだったが、よく付き合ってくれたものだと思う。彼の家には各種ボードゲームがあった。ほとんどのゲームは彼から教わった。彼は読書家でもあり絵の腕前も本格的であった。中学二年の終わり頃、太刀打ちできそうもない音楽から遠ざかり、趣味を絵画一点に絞ることにした。別に競うつもりなどなかったと思うが、絵画なら個性を発揮してわが道を行ける予感があった。中学三年になって少々勉学もするようになり、無事普通の高校に入学できたが、受験勉強などというものに巻き込まれては美術どころではなくなった。


高校一年の十五歳。誰にぼくの趣味のことを聞いたのか知らないが、九歳違いの叔父が「絵を見に行こう」と言ってきた。国立近代美術館京都分館で開催されていた『ミロ展』だった。抽象画にも関心があったので二つ返事でありがたく誘いを受けた。季節のよい秋の京都だった。結論から言うと、その日からぼくの抽象画への思い入れは強くなり、たまには創作もしたが、もっぱらブラック、ピカソ、ダリ、クレーらの絵画鑑賞を楽しんだ。

当時二十四歳の叔父は甥や姪の面倒をよく見る人だった。定時制の工業高校に通いながら勤勉に働き、卒業後は大手薬品会社で、今で言うMRとして働いていた。ミロ展の後に四条大橋を渡り、そして連れて行ってくれたのが北京料理の東華菜館だったのである。たぶん酢豚とあと一、二菜を注文してくれたはずだ。下町の薄汚い中華料理屋で中華そばと餃子くらいしか食べたことのないぼくにはかなりのご馳走だった。特に炒飯は初めて食べる味だった。大人の雰囲気の店で身構えていたのを覚えている。昭和の初めの建物だと知ったのはそれから十数年後である。

ミロのモザイク(ランブラス通り)

時は流れる。たまに絵を描くことはあっても、ジョアン・ミロとも東華菜館ともまったく縁もなく長い月日が過ぎた。ぼくがミロと再会するのは2011年まで待たねばならなかった。バルセロナはランブラス通りの路上モザイク画である。モザイクを恐る恐る踏みしめながら、その時も若かりし頃のミロ展を思い出していた。そして、ミロを思い出すたびに四条大橋のあの建物につながるのである。昨日は彼岸の入りだった。叔父は七年前、67歳で永眠した。

都会、黄昏、孤独……

人と人が昵懇じっこんな間柄になると、親しき仲の礼儀が軽んじられる場合がある。これが高じると土足の領域侵犯が起こりかねない。人の街への馴化もこれとよく似た様相を呈することがある。

暮らしている街にすっかり馴染めば、見るもの触れるもの感じるものすべてが意識の底に沈み、もはやその街で生活することに新鮮の妙味を覚えず五感がなまくらになってしまう。視覚は行き先だけを捉え、聴覚は雑音を無反応に聞き流す。時間に追われて拘束されるその他の諸感覚も、最初に住み始めた頃に響いていた感受性をすっかり忘れてしまったかのようだ。

土着性が強かったかつての街や村ではありえなかった分散と孤立が生じ、心象風景からは街並みや現実の暮らしが消え、孤独や憂鬱が常態になる。一人で生きることが日常になれば、時折り集団と交わる場面が「ハレ」になる。ハレの場で人は日常のリズムとは異なる緊張を覚え、体験することや交わすことばに戸惑う。ある体系への慣れは別の体系への不器用にほかならない。これが現代の都会で生きる人の縮図である。不安が募れば、望みもしない群れに溶け込み匿名性によってつらさをしのぐ。


電信柱のある街風景
大阪市中央区谷町五丁目交差点から見る街並みと夕暮れ

一人になってはいけないのだろう。一人になってたとえば黄昏に遭遇すると、孤独の思いが恣意的に巡り、時には滅裂し、時には邪念となり妄想を培養する。月並みな雑踏も電信柱も心象の主役になるかもしれないのに、孤独に佇む者に対しては黄昏すら不自然な作り笑いをして人から落ち着きを奪い、好ましくない方のざわめきばかりを惹き起こす。もっとも、孤立の一人と自立の一人とは違う。孤立の心理は黄昏に襲われて孤独を増幅させる。自立の精神にとっては対象はつねに意味を持つ。ゆえに、夕景映える黄昏は美しい。

ボードレールの『巴里の憂鬱』の中の「黄昏」の書き出しを読んでみよう。

 日が沈む。一日の労苦の疲れた憐れな魂の裡に、大きな平和が作られる。そして今それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬほのかな色に染めなされる。
 かかる折しも、かの山の嶺から、薄暮の透明な霞を通して、私の家の露台まで、高まってくる潮のような、吹き募る嵐のような、ほど遠い距離がもの悲しい諧調に作りかえる、雑多な叫びの入りまじった、大きなうなりが聞えてくる。

まさかと思うだろうが、黄昏の苦手な都会人が大勢いるのである。彼らは憂鬱に、そして孤独に苛まれる。大都会は人から五感を抜き取るのか。自然の風景を前にしなければ五感は小躍りしないのか。

回りに誰かがいなくても、一人になってはいけないのだろう。見飽きた光景を、聞き飽きた雑音を日々更新しなければならないのだろう。路地裏、街角、公園、花壇、広場、交差点、横断歩道、看板、車、国道、人混み、街路樹、橋、バス停、歩道橋、喫茶店、旧町家、雑居ビル、小学校、電信柱、信号、大衆食堂、高層ビル、ガソリンスタンド、階段……。もう知り尽くしたと豪語できるほどにはたぶん知らない。孤独が都会の特産物であることを否まないが、せめて黄昏の憂鬱に打ち克つまなざしだけでも保ちたいものである。

風景に出合う

造形的な都市から郊外へ足を延ばせば風景に出合う。時には見晴らしのよい展望、時には空へ突き抜けるような構図。観賞する者それぞれの眺望のしかたによって多様な縁取りが生まれる。風景は自然界で芽生えるものであり、風景には自然の調和を感じさせるというニュアンスがまつわりついている。

言うまでもなく、風景は郊外に固有のものではない。行動範囲を日常次元に狭めても、風景の一つや二つは目に入るものだ。それが証拠に「街角の風景」と言うではないか。たとえばそれは、昭和初期に西洋を真似て建てられたビルの一画かもしれないし、新緑と色とりどりの花が協奏する公園かもしれない。さほど努力しなくても、どこにいても風景は視界に入ってくるだろう。そう、自然の要素に乏しい土地にあってもぼくたちは風景を感じるものだ。

『風景の誕生――イタリアの美しき里』(ピエーロ・カンポレージ著)によれば、14世紀から16世紀のイタリアでは人々は野生の自然にほとんど無関心であった。それどころか、嫌悪の念さえ抱いていた。彼らは自然に満ち溢れた風景という概念を持ち合わせていなかったのである。眺める以外に役に立ちそうもない自然の景色などに魅力を覚えなかった。鉱物や作物を産出してくれ、自分たちの暮らしを支えてくれる「有用で力強い土地」こそが美しかったのである。


この歴史考察が正しいなら、自然は人の存在とは無関係に存在するが、風景というものは人の認識次第ということになる。「対象に認識が従うのではなく、認識に対象が従う」というカントの慧眼がここに生きているような気がする。とは言え、やがて当時の人たちは自然を包括して目を楽しませてくれる風景に気づくようになった。いや、風景が概念であるならば、それは発見ではなく、発明と呼ぶべきかもしれない。ともあれ、人は風景に出合った。ある意味で、有用性から安らぎへ、さらには芸術への転回が起こったのだ。神を題材にして宗教画が生まれ、王侯貴族を題材にして人物画が生まれたように、風景を強く意識して風景画が生まれた。風景画は人が風景に出合って生まれた新しいジャンルの絵画だった。

自然から切り離されて生活するようになっても、風景画は連綿と受け継がれてきた。つまり、現代の都市にあっても人々は脱自然的な風景に日々出合う。かつて中世イタリア人が発想すらしえなかった風景を、ぼくたちは必死になって街の隅々に探そうとしている。探せなければ、観賞者それぞれの見立てによって思いの場所に風景を仮構する。絵心がなければ、カメラを向ける。カメラが手元になければ心ゆくまで佇む。

パリの夕景 4パターン

目を凝らせば、ぼくの住む雑踏でも風景に出合える。しかしながら、街角風景の宝庫と言えば、パリを挙げなければいけない。そこでは都市空間に身を置きながら風景に包まれる至福の時間が過ぎていく。その風景は写生や写真の題材にふさわしい。パリならではのカフェは、あぶり出された風景を心ゆくまで愛でるための文化的な装置なのに違いない。

街と固有名詞

「ところで、そのおいしかった料理って何という名前?」
「ええっと、何だったかなあ。忘れちゃった」

「すみません、この地図の場所に行きたいんですが……」
「常磐町一丁目ですね。ビルの名前は?」
「わからないんです」

現実というのは固有名詞と不可分の関係にある。固有名詞を伴ってはじめて自分の経験として刷り込まれていく。現実から固有名詞を引き算すると、この社会は……この現象は……というふうに語るしかない。そうすると、固有の経験だったものが概念として一般化されることになる。「高度情報化社会」だの「グローバリゼーション」だのと言って考えを片付けた瞬間、経験もことばも現実から浮遊してしまう。

ぼくたちは自分の考えを語ろうとする時、ともすれば固有名詞を封じ込めてしまいがちだ。考えは一般論へ、そしてできれば普遍性へと赴きたがる。その結果、具体的な日常の現実が剥がされるという負の見返り生じる。自らの反省を込めて言うならば、一部の哲学が得意とする形而上学的な語り口になってしまうのである。

考えはある日突然生起してこない。個人的な日常体験や観察が繰り返された上での考えである。そこにレアなままの固有名詞が散りばめられていて何の不都合もない。何よりも、固有名詞が使われているかぎり、多少の歪みはあっても、現実を見ているはずである。匿名のままで済ませて見ているものとは異なる、一度かぎり、その人かぎり、その場かぎりで見えてくるものがある。


理屈っぽいまえがきになったが、街の話を書きたいと思う。

年初にヨーロッパ鉄道紀行なる番組をテレビで観た。スペイン北東部を旅する取材者が「サラゴサに行くのだけれど、見所はどこ?」と尋ねた。地元の女性が間髪を入れず「ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂よ」と答えた。見所とは観光客にとっての名所である。しかし、この女性の誇らしげな話しぶりは、住民にとってもかけがえのない聖地と言いたげだった。ちなみに、この聖堂は世界で初めてマリアに捧げられた教会であり、二百年近くの歳月をかけて建てられたゴシック様式が特徴だ。

東京や大阪も固有名詞である。しかし、それだけでは不十分なのだろう。いや、たとえ東京や大阪と呼んでも、もはや都市と呼んでいるに過ぎず、固有性はすでに色褪せている。ようこそ日本へ、ようこそこれこれの都道府県へ……などでは体験的固有名詞になりえない。もっと小さな単位の現実を見なければならないのである。ヨーロッパの街を旅してずいぶん現地の人たちに見所を聞いたが、彼らはほぼ即答した。お気に入りの街自慢があるのだ。そして、自慢のほとんどはその街の教会であり広場。だから、お気に入りは街の総意とも言える定番でもある。

林立するビル群や新しく建てられたランドマークや巨大ショッピングモールが自慢であってはいかにも寂しい。迫りくる国際観光時代を謳歌しようとしても、それらのPRは長続きはせず、やがて飽きられる。第一、どこもかしこも都会化が進み、名所が伝統や歴史などの固有名詞的価値を孤軍奮闘で背負っている状況だ。海外から極東の小さな島国を眺めるとき、平均点の見所が分散しているよりも、これぞと言う見所が一極集中しているほうが街の魅力がわかりやすい。

ピサの見所は? とピサで尋ねたら、全員が「斜塔に決まってるだろ」と口を揃える。それでいい。とは言え、街の愉しみ方は人それぞれ、その見所の周辺に目配りする旅人も出てくる。ぼくもそんな一人。斜塔から目線をずらして近くの広場に佇んだ。

場所の名称を書いたメモが見当たらない。地図で調べたが不詳。スケッチに光景が残っていても、名を知らなければ少しずつ記憶が遠ざかっていく気がしてならない。

Pisa digital processing

Katsushi Okano
Pisa
2007
Color pencils, pastel (image digitally processed in 2015)

旅程点描

リヨン~シャンベリー~トリノ

20136月に書いた粗っぽい旅程表がある。一年後、同じ旅程に手を加えた。この旅程を思いついた時のことをよく覚えている。旅に対するある種のマンネリズムが消えたような気がして新鮮だった。そして今、またそのことを思い出し、机上で、脳内で、旅を組み立てている。それは「パリ~リヨン~シャンベリー~トリノ」の鉄道の旅である。

関空からエールフランスでパリに行く。パリに数日間滞在する。知っている通りやメトロやカフェに親しみ、新しい発見を楽しむ。荷物をまとめてアパートを後にし、パリ・リヨン駅からローヌのリヨンへ向かう。リヨンは人口165万人、パリに次ぐフランス第二の都市だ。パリから高速列車TGVテジェヴェでおよそ2時間。見所の多い街だから3泊は必要だろう。

パリは近代と現代を代表する都市だが、リヨンには古代や中世の足跡がある。ローマ帝国の時代から交易拠点として様々な物資がここに集められた。絹織物で名高いが、心惹かれるのは絹ではなく、リヨンのもう一つの顔「美食の街」のほうだ。

パリからリヨンに入ってくるTGVはリヨン・ペラーシュ駅に着く。そこから数百メートル北へ歩くとベルクール広場に至る。そこには『星の王子さま』でおなじみサンテジュグベリの像が建つ。レストランで賑わう地区も近いから、ホテルはその辺りが便利だ。翌日は広場のメトロ駅からソーヌ川の対岸のヴィユー・リヨン駅へ。そこからケーブルカーで上がればフルヴィエールの丘。展望台からは旧市街地、二つの川、新市街地が一望できるという。眺望を楽しんだら旧市街へ。ここはイタリアルネサンス様式の建築が目白押しである。


リヨンの後はアルプスで国境を越えて未踏の地トリノへ。かつてのサヴォイア公国の中心である。そこで数日間過ごす。街の顔サン・カルロ広場近くにまずまずのホテルを見つけているが、場合によってはアパートという手もある。メルカートへ買い出しに行って朝と昼は自炊。夜は出歩いてサヴォイア料理を堪能する。トリノはフレンチ風カフェが有名だ。そこでビチェリンを飲もう。コーヒーとチョコレートをバランスよく混ぜ合わせた飲み物である。トリノと言えばピエモンテ、ピエモンテと言えばワインの王様バローロである。バローロと相性のいい前菜には事欠かない。一番の楽しみは名物の手焼きグリッシーニ。折れやすいから土産には向かない。

リヨンからトリノへは4時間か5時間……これでおしまいになりかけた。しかし、時刻表から地図に目を転じたら、シャンベリーという地名に気づく。サヴォワ県の都市である。このサヴォワとトリノのサヴォイアの起源が同じなのだ。フランス語とイタリア語読みの違い。かつてサヴォイア家は、トリノのあるピエモンテとシャンベリー一帯と隣接するスイスの一部を支配していた。シャンベリーに衝動的な魅力を覚える。何も知らないのがいいかもしれない。アルプスの山あいの街で一晩を過ごすのも悪くない。

トリノの後は空路。パリはシャルル・ド・ゴール空港経由で関空へと戻ってくる。およそ半月の旅程である。今月に入ってこの旅程をもう一度なぞり、いろいろと下調べもした。机上であり脳内の旅でありながら、少しずつ現地に迫っているのがわかる。空気が匂っている。通りを歩き街角に佇んでいる。メニューを眺め料理を口に運んでいる。建物の中にいるし、鉄道駅で切符を買っているし、車窓から景色を眺めている。疑似体験以上と言えるかもしれない。だが、だいたいこんなふうに旅程をスケッチして楽しんだ時ほど、リアルな旅は遠ざかるものである。

座右の散歩道

「座右の散歩道」などというものは、現実にどこを探しても存在しない。そんなことはわかっている。仮に一度か二度歩いた道であっても、部屋の中にいるかぎり、そんな散歩道は想像の世界にしかない。しかし、気の向くままに出掛け、心弾ませて歩けるような道が机の上のどこかにあれば――もしあれば――愉快この上ないし、「ぼくには座右の散歩道があるんだよ」とちょっぴり自慢できる。

座右というのは、元々はその名の通り、座席の右のことだった。これが転じて「かたわら」を意味するようになったのである。座右と言えば、最初に浮かぶ連語は、ぼくの場合は「座右の銘」。つねに身近に備えて教訓としたり戒めとしたりする格言や名言である。「座右の書」を思い浮かべる人もいるだろう。あいにくぼくにはそのような終生繰り返し読むような本はない。机上には今月読む予定の本が十数冊置いてあるが、どれも座右になることはないはず。おまけに、すべての本は座席の左に積んである。

座右をもっと広義にとらえてみれば、つまり、身の周辺とか身近な場所にまで広げてみれば、座右の書店があってもいいし座右のカフェや居酒屋があってもいい。すぐに駆けつけることはできないが、訪れた経験さえあれば想像上で立ち寄ることはできる。したがって、座右の散歩道も記憶の中に存在し、居ながらにして遊歩を楽しめる機会を与えてくれる。


きみの持っていないものをぼくは持っている
誰かにもらった宝石箱には宝石は入っていないけれど
捨てがたい小物のガラクタがいっぱい詰まっている
そんなことよりも一番の自慢は座右の散歩道
きみの知らない道が日替わりで座右になっていく
気に入ったときに足を踏み出せば
そこがぼくの座右の散歩道
手を差し伸べたら愛読書がそこにあるように
座右の散歩道はぼくがやって来るのを待っている
(岡野勝志)

座右の散歩道2

座右の散歩道に出掛けるのに着替えはいらないし、革靴を履かなくていい。とても気が楽である。気楽というのは当てのないそぞろ歩きをするには絶対の条件だ。とっておきの座右の散歩道の一つがフィレンツェにある。観光客はバスで目的地に行ってしまうが、ぼくには彼らが見えない道が見える。あの有名なポンテヴェッキオの左岸から勾配のある裏道を上がっていく。瀟洒しょうしゃな古い家が点在する中をのどかに歩く。

この道はサン・ミニアート・アル・モンテ教会へと歩く人を誘う。アル・モンテとは「丘の上の」という意味。そこまで歩くと、やがてミケランジェロ広場を見下ろせる。広場のさらに先にはフィレンツェの中世の名残色濃い歴史地区を眺望できる。圧巻は花の大聖堂である。無言のまま軽めの動悸が収まるのを待つ。現地にいれば、そこからアルノ川に沿って旧市街へと戻るのだが、自宅にいる今は目薬をさしてからおもむろに地図を広げることになる。気がつけば実際の散歩と同じ時間が過ぎていた。

風景に重なる時間

天気予報に裏切られる。そういう日が二、三日続くことがある。季節単位では、暖冬という予報が大きく外れることがある。しかし、季節の移り変わりというのは案外安定しているし、わが国特有の半月ごとに区切った二十四節気に感心してしまうほど、暦と現実が見事に整合する年もある。

冬至を境にして日暮れの時は伸びてくる。この一ヵ月で午後五時、六時が冬至の頃よりも明るくなった。冬至から立春まで、さらにはその立春を過ぎた先まで、寒さは日毎つのるもの。おもしろいもので、ぼくたちにとって立春はまだまだ春は先という分節点だが、自然界にあっては、たとえば植物などは健気に春を感知し始めている。おそらく長くなる日や光の量に繊細に反応しているのだろう。


訪れようと思ったわけではない。もし縁がなければ生涯この地に自主的に赴くことはなかっただろう。訪れたい場所や街があれば事前知識を備えるが、仕事ついでに泊まる場所の立地だの由来だの名所だのをあらかじめ調べることはない。ともあれ、広島県安芸高田市の美土里みどりという村の一角にある温泉旅館に、仕事の縁あって二泊することになった。

湯治村1

地元の人たちには珍しくないが、ぼくにはきわめて珍しいまとまった雪に見舞われた。ただでさえ雑音めいたものがいっさい聞こえてこない環境なのに、雪がしんしんと積もってありとあらゆる微音をも吸引して静けさをいっそう深めていく。早朝目覚めれば積雪のかさがさらに増していた。空と緑が鮮やかな色合いで遠景を描き出している。

幸いなことに、風景と時間が重なる瞬間に居合わせたようだ。「これは東山魁夷の世界だ……」とつぶやき、〈時間的風景〉に響いた。しばらくのあいだ清閑の冷気に触れていた。我に返ると、身体は冷え切っていた。

新聞を買う、新聞を読む

「新聞はどこで買えるの?」と訊けば、「エディーコラ」と返事され、「えんやこら」のような響きにクスっと笑いそうになったのは、ローマのホテル。

新聞を読みたければたいてい買いに行かねばならない。イタリアやフランスでは当たり前のことだ。夏の暑い朝でも冬の寒い朝でも、最寄りの駅構内の、またはバス停留所近くの、あるいは広場や街角や通りのどこかのエディーコラ(edicola)まで足を運ぶ。キオスク規模の屋台のようなイメージの店である。雑誌を華々しくディスプレイしているから遠目にもわかる。現地の人には行きつけの販売店がある。

日々のニュースはネットで十分という向きが増えたものの、わが国は依然として新聞大国である。読売、朝日、毎日、産経、日経は自宅に配達してくれる全国紙。昨年11月の読売新聞の発行部数は1,000万部弱だった。イタリアの新聞ときたら、最有力紙でさえその5パーセント程度にすぎない。


大晦日も元日も、昨日も今日も新聞は配達された。一部のスポーツ新聞を除いて、ぼくたちは新聞を「買い出し」に行くことはない。一ヵ月単位で新聞代を支払えば自宅に毎朝毎夕届けてくれる。そのつど新聞を買わないで新聞を読むのがぼくらのスタイルである。他方、イタリアでは新聞を読みたければ出掛けなければならない。彼らは毎朝小銭を支払って新聞を買ってから新聞を読んでいる。

一杯のエスプレッソを飲むついでに新聞を買う。フランスでは焼き立てバゲットと新聞を買う。さぞかし面倒だろうと思うけれど、読むにしても食べるにしても、そのつど買うという習慣になじんでいるのである。その行為が、新聞販売店のたたずまいが、街の粋な光景に見えてくるから不思議だ。何でも恵まれすぎないほうがいいのだろう。暮れから10日ほどたまっている新聞にもう一度目を通し、必要な記事を切り抜きながらふとそんなことを思い出した。

IMG_5761Katsushi Okano
Edicola, Roma
2003
Pigment liner, color pencils, pastel