「座右の散歩道」などというものは、現実にどこを探しても存在しない。そんなことはわかっている。仮に一度か二度歩いた道であっても、部屋の中にいるかぎり、そんな散歩道は想像の世界にしかない。しかし、気の向くままに出掛け、心弾ませて歩けるような道が机の上のどこかにあれば――もしあれば――愉快この上ないし、「ぼくには座右の散歩道があるんだよ」とちょっぴり自慢できる。
座右というのは、元々はその名の通り、座席の右のことだった。これが転じて「傍ら」を意味するようになったのである。座右と言えば、最初に浮かぶ連語は、ぼくの場合は「座右の銘」。つねに身近に備えて教訓としたり戒めとしたりする格言や名言である。「座右の書」を思い浮かべる人もいるだろう。あいにくぼくにはそのような終生繰り返し読むような本はない。机上には今月読む予定の本が十数冊置いてあるが、どれも座右になることはないはず。おまけに、すべての本は座席の左に積んである。
座右をもっと広義にとらえてみれば、つまり、身の周辺とか身近な場所にまで広げてみれば、座右の書店があってもいいし座右のカフェや居酒屋があってもいい。すぐに駆けつけることはできないが、訪れた経験さえあれば想像上で立ち寄ることはできる。したがって、座右の散歩道も記憶の中に存在し、居ながらにして遊歩を楽しめる機会を与えてくれる。
きみの持っていないものをぼくは持っている
誰かにもらった宝石箱には宝石は入っていないけれど
捨てがたい小物のガラクタがいっぱい詰まっている
そんなことよりも一番の自慢は座右の散歩道
きみの知らない道が日替わりで座右になっていく
気に入ったときに足を踏み出せば
そこがぼくの座右の散歩道
手を差し伸べたら愛読書がそこにあるように
座右の散歩道はぼくがやって来るのを待っている
(岡野勝志)
座右の散歩道に出掛けるのに着替えはいらないし、革靴を履かなくていい。とても気が楽である。気楽というのは当てのないそぞろ歩きをするには絶対の条件だ。とっておきの座右の散歩道の一つがフィレンツェにある。観光客はバスで目的地に行ってしまうが、ぼくには彼らが見えない道が見える。あの有名なポンテヴェッキオの左岸から勾配のある裏道を上がっていく。瀟洒な古い家が点在する中をのどかに歩く。
この道はサン・ミニアート・アル・モンテ教会へと歩く人を誘う。アル・モンテとは「丘の上の」という意味。そこまで歩くと、やがてミケランジェロ広場を見下ろせる。広場のさらに先にはフィレンツェの中世の名残色濃い歴史地区を眺望できる。圧巻は花の大聖堂である。無言のまま軽めの動悸が収まるのを待つ。現地にいれば、そこからアルノ川に沿って旧市街へと戻るのだが、自宅にいる今は目薬をさしてからおもむろに地図を広げることになる。気がつけば実際の散歩と同じ時間が過ぎていた。