「講師の話には聞き慣れないことばが多く、一部ついていけなかった。可能であれば、事前に講義で出てくる用語を知らせてもらえれば、ことばの意味を調べる予習ができ、研修内容の理解が深まると思われる。」
ある研修が終わった後に送られてきたアンケートの中に上記のコメントがあった。一流企業に勤めるエリートの述懐に気分は複雑である。
プレゼンテーションの準備はできるだろう。しかし、それは自分が発話したり表現したりする時の話である。何かを認識したり理解することに関しては予習などできない。やってもやらなくてもどちらでいいという型通りの予習なら可能かもしれないが、たいていの打ち合わせや商談などは臨機応変を特徴とする。そこではこれまで蓄えてきた経験と知識がものを言う。相手が何を語るかをいくらかシミュレーションできたとしても、何から何まで予習するなど叶わぬことである。わからないことは、本番でわからなくなる場面を何度も体験してやがて理解できるようになってくる。
自宅とオフィスに十数冊ずつ各種辞書を座右に揃えている。マニアックな『民俗学辞典』や『実存主義辞典』も所有しているし、ソシュール言語学を理解するための『ソシュール小事典』なども揃えている。暇つぶしに本を読むように開くこともあるが、たいていの場合は、なじみのない術語やわからない事柄に出くわすたびに、意味を調べるために活用している。将来何ごとかをよく理解するために辞書を使ったり覚えたりすることはありえない。高校時代に英単語をA、B、C……順に覚えようとした愚を社会人になって繰り返すつもりはない。
ぼくたちは、辞書によって用語を一つ一つ覚えた上で対話をしているのではない。仮に部品のように単語を覚えるとする。たとえば英単語の丸暗記。それが当面のテストの空欄を埋めるのに役立つことはあっても、実践的な英語力の醸成につながる望みは薄い。ことばは他のことばとの配置関係、ネットワークや差異によって文脈上で意味を持つ。人と人とが繰り広げる対話は、文脈や構文から切り離された単語の足し算でおこなわれるのではないのだ。
冒頭のコメントを書いた研修生のために、ぼくが使う術語を事前に知らせてあげるとしよう。それでもなお、研修生が術語の意味を踏まえてぼくの話の文脈の線を追える保障はない。話を聴いて理解し、あるいは本を読んで理解できるのは、単語がわかるからではなく、メッセージに当たって砕けろの思いで対峙するからである。文脈が単語の意味を決定する。そして、わからない単語はそのつど復習するほかない。
『広辞苑』を電子的に脳内に埋め込んでみればいい。あなたの頭脳は24万語の語彙を内蔵することになる。その語彙によってはたして表現豊かな文章が紡げるか。その語彙によって誰かが書いた文章を、誰かが論う話を絡め取って意味あるメッセージとして理解できるか。語彙力は理解力に反映しない。理解力とは文脈を読み取る能力にほかならない。その能力があれば、少々知らない単語に出くわしても意味を類推することができるのである。もしそれで不安ならば、面倒ではあるが、そのつど辞書をひもとくしかない。語彙とはそういうふうにして増強されていくものだ。決して予習するものではない。