人と人が昵懇な間柄になると、親しき仲の礼儀が軽んじられる場合がある。これが高じると土足の領域侵犯が起こりかねない。人の街への馴化もこれとよく似た様相を呈することがある。
暮らしている街にすっかり馴染めば、見るもの触れるもの感じるものすべてが意識の底に沈み、もはやその街で生活することに新鮮の妙味を覚えず五感がなまくらになってしまう。視覚は行き先だけを捉え、聴覚は雑音を無反応に聞き流す。時間に追われて拘束されるその他の諸感覚も、最初に住み始めた頃に響いていた感受性をすっかり忘れてしまったかのようだ。
土着性が強かったかつての街や村ではありえなかった分散と孤立が生じ、心象風景からは街並みや現実の暮らしが消え、孤独や憂鬱が常態になる。一人で生きることが日常になれば、時折り集団と交わる場面が「ハレ」になる。ハレの場で人は日常のリズムとは異なる緊張を覚え、体験することや交わすことばに戸惑う。ある体系への慣れは別の体系への不器用にほかならない。これが現代の都会で生きる人の縮図である。不安が募れば、望みもしない群れに溶け込み匿名性によって辛さをしのぐ。
一人になってはいけないのだろう。一人になってたとえば黄昏に遭遇すると、孤独の思いが恣意的に巡り、時には滅裂し、時には邪念となり妄想を培養する。月並みな雑踏も電信柱も心象の主役になるかもしれないのに、孤独に佇む者に対しては黄昏すら不自然な作り笑いをして人から落ち着きを奪い、好ましくない方のざわめきばかりを惹き起こす。もっとも、孤立の一人と自立の一人とは違う。孤立の心理は黄昏に襲われて孤独を増幅させる。自立の精神にとっては対象はつねに意味を持つ。ゆえに、夕景映える黄昏は美しい。
ボードレールの『巴里の憂鬱』の中の「黄昏」の書き出しを読んでみよう。
日が沈む。一日の労苦の疲れた憐れな魂の裡に、大きな平和が作られる。そして今それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬ仄かな色に染めなされる。
かかる折しも、かの山の嶺から、薄暮の透明な霞を通して、私の家の露台まで、高まってくる潮のような、吹き募る嵐のような、ほど遠い距離がもの悲しい諧調に作りかえる、雑多な叫びの入りまじった、大きな呻りが聞えてくる。
まさかと思うだろうが、黄昏の苦手な都会人が大勢いるのである。彼らは憂鬱に、そして孤独に苛まれる。大都会は人から五感を抜き取るのか。自然の風景を前にしなければ五感は小躍りしないのか。
回りに誰かがいなくても、一人になってはいけないのだろう。見飽きた光景を、聞き飽きた雑音を日々更新しなければならないのだろう。路地裏、街角、公園、花壇、広場、交差点、横断歩道、看板、車、国道、人混み、街路樹、橋、バス停、歩道橋、喫茶店、旧町家、雑居ビル、小学校、電信柱、信号、大衆食堂、高層ビル、ガソリンスタンド、階段……。もう知り尽くしたと豪語できるほどにはたぶん知らない。孤独が都会の特産物であることを否まないが、せめて黄昏の憂鬱に打ち克つまなざしだけでも保ちたいものである。