芸道や武道、茶道には型がある。いつの時代も、師から弟子への型の伝承は文化創造の要とされる。型を単純継承するだけでは発展はおぼつかない。それゆえ、師匠の型の模倣から始まって最終的には自分の型を生み出さねばならない。ここに〈守破離〉という考え方が生まれる。ところが、守破離は「(師匠の)型を守り、それを破り、そして型から離れて自由自在になる」と一般的に理解されてきた。はたしてそうか。
問題は、守破離の〈離〉のステージの解釈だ。脱型して自由自在になる状態だと言われる。しかし、そのステージに達したとしても、型が消えてしまうわけではない。誰かが「ついに型から離れた」と悟ったかのように言っても信用しかねる。師匠クラスの技や振る舞いに何がしかの型を知覚するからである。〈離〉は型の不在ではない。ある型から離れて辿り着く先が型無き混沌の状態であるはずもなく、そこには進化した別の型が姿を現わす。〈破〉のステージも同様である。型を破るにしても同時に別の型が生まれるのである。
守破離とは一つの固定した型を巡っての熟練化概念ではない。端緒を開くのは守るべき型だが、それを破ったとしても次に「型破りな型」が育まれるのであり、そこから離れても次に「型離れした型」が現れるのである。「守り破り離れる」を弁証法的に繰り返し、つねに新しい型を創造していく修行の過程を守破離は説いているのではないか。
何々道だけの話ではない。おこなうことも考えることも模倣から独創への過程を踏む。たとえ独創的な次元に達しても型なき行動も思考も想像することはできない。おそらく人は型に縛られて生きる宿命を背負っているのだろう。これは、しかし、一つの型に縛られるということではなく、つねに型から型への〈変態〉を免れないという意味である。ぼくの知る名人達人は誰もが型を持つ。微動さえしない型ではなく、自在性と可塑性を併せ具える型を持つ。型のないものをそもそも認識することはできないのである。道を究めた技を「自由自在」だとか「暗黙知」だと言っても、型がそういうふうに形容されたにすぎない。
型はヤドカリの住まいに似て、入型と脱型という新陳代謝を繰り返す。こうして身の程や技や力量に応じた型が研ぎ澄まされていく。守破離は型が洗練されていく道程であり、それは究極のシンプリシティへと向かう。「シンプリシティは究極の洗練である」というレオナルド・ダ・ヴィンチのことばが思い浮かぶ。こうしてみると、離れるとは技における余分の引き算ではないか。雑味を除いて純度を上げると言ってもいい。
「無用の用」ということばがある。無用も「用」である。そうであるなら、無型に見えるものも「型」に違いない。その型は絶対精神にも似た究極の洗練、シンプリシティを目指す。言うまでもなく、一人の人間の生においてそのシンプリシティを見届けるのは叶わないだろう。未来永劫、代々続く師弟関係においてこその守破離なのである。「芸術は長く人生は短し」というヒポクラテス由来の言がこのことを物語っている。