あのコマーシャルのように“What else?”(他に何が?)とまで言う気はないが、エスプレッソはよく飲む。深くて苦くて濃いエスプレッソだが、浅くて甘くて薄い話を書いてみる。
うどんを平らげ出汁も飲み尽くした直後のコーヒーになじめない。鰹昆布の出汁とコーヒーが胃袋の中で混ざり合うのを想像すると飲めない。同じくラーメンの後のコーヒーにも違和感を覚える。まったく平気な人もいる。ぼくには無理だ。食後のコーヒーは大いに歓迎するが、何を食べたかによりけり。別に和食でもいい。しかし、汁物の後のコーヒーには触手が伸びない。そんなぼくでも、後に控えるのがエスプレッソなら食事は和洋中を問わない。エスプレッソは少量だから気にならないのである。
鳴り物入りで大阪に一昨年開店したイタリア直営店が業態を変えた。事実上の店じまいか。本場のエスプレッソを何百杯も飲んでいるぼくだが、あの店の豆との相性はよくなかった。エスプレッソとエスプレッソベースのカフェラテやカプチーノが売りなのに、売れ筋はたぶんブレンドとアイスコーヒーだったと思う。本場から進出してきて腕を振るっても、エスプレッソは日本では絶対に主流にならない。イタリアンバール特有の立ち飲みスタイルが採用されていたら、それが敬遠の理由になるかもしれないが、そんな店はまだほとんど出現していない。だから、苦くて濃いコーヒーがおそらく日本人に向かないのだろう。
うまいエスプレッソの店もあるが、ぬるかったりする。ぬるいのは論外である。熱々のが出てきたと喜んでも、今度は味が薄かったりする。うまくて熱くても、紙コップで出されたら満足も半減する。一応合格点がつけられる近場のカフェはわずかに2店か3店。ならば自分で淹れるしかないと、しばらく休眠させていたエスプレッソマシンを5月頃から使い始めた。シングルは、とある協会公認の量は30ml。ダブルでも50ml強だからヤクルト一本分より少ない。自宅ではだいたいダブルを飲む。砂糖は専用のものを一袋か角砂糖一個を入れてかき混ぜる。イタリア人は一気または二、三口で飲むが、ぼくはちびちびと啜ることもある。
この少量という点も喫茶店で長居したがる日本人のネックに違いない。エスプレッソ(Espresso)は「特急」という意味だ。抽出が30秒ほどだから、注文してから1分以内に出てくる。いかにも特急。そして一気に飲むから、これまた特急だ。そして、さっさと店を後にする。これがカウンターで立ち飲みする本場の客の定番スタイルである。ぼくのようにちびちび飲んでも1分ともたない。もちろん、イタリア人でもよもやま話よろしく長居する連中もいるが、彼らはカウンターで飲むお代の倍額を払ってテーブル席に陣取る。
同じ機械を使っても味が変わる。季節が違い、豆が違い、豆の焙煎が違い、豆の挽きが違い、焙煎から何日経過したかによって味が変わる。これらの条件がまったく同じであっても差が出る。その差を決定づけるのがバリスタの腕である。端的に言えば、バスケットフィルターに粉を入れ、その粉をタンパーという道具で押さえるという、一見誰がしても同じようなタンピングの動作に熟練の差が出る。粉の入れ具合とタンピングの絶妙の加減で味が変わる。にわかに信じがたいかもしれないが、飲み比べてみればわかるから不思議である。
イタリアでは「ウン・カッフェ」で一杯のエスプレッソ。どこの街でもバールに入って毎日3杯ほど飲んだが、ハズレはなかった。特にうまい店は印象に残っていて、店名こそ覚えていないが、店の間取りもバリスタの顔や振る舞いも思い浮かぶ。店名をしっかり思い出せるのはローマの老舗La Casa del Tazza d’Oroだ。「金カップの店」という名である。焙煎所兼バールで、少し離れた所にまでアロマが漂ってくる。特急で出てくる1杯はたぶん30mlにも満たない。なにしろカップに2cmほどしか入っていないのだから。粘性が強いので砂糖を入れるともはや液状ではない。しかし、濃さと苦さでは体験上随一であった。
パリでは「アン・キャフェ」と注文する。イタリアのエスプレッソに比べれば、なみなみと入っている印象を受ける。トリプル相当である。飲みごたえがあるから、たいていテーブル席に座った。街角・舗道・通行人観賞代のつもり、隣のテーブルの会話聴取代のつもりである。エスプレッソを使ったアレンジ系で最も気に入ったのはウィーン版カプチーノであるメランジェ。場所はシェーンブルン宮殿内のカフェ。季節外れの寒波に襲われた極寒の3月初めのこと。身体が凍るのではないかと恐れ震えながら、廷内の登り坂を雪を踏みしめて歩いた。あの時の一杯のメランジェの味を身体が覚えている。