寡黙なる人々

世代論には当たり外れが多く、あまり信憑性を認めない。「おれたちの世代は今の若者と違って……」という年配者の決まり文句はいつの時代にも聞かれたし、今も「最近の若者は……」という勇み足の一般論が後を絶たない。とりわけ「団塊ジュニア」などと新しい造語で世代を一括りするのは共通項のでっち上げになりかねない。

このような安易で強引な類型化に与しないが、例外的に「現代の若者」に感じている特徴がある。統計も理論的根拠もないが、直観的現象論でもない。まずまずの数の経験的サンプルから帰納したぼくの大雑把な感覚によると、彼らは先行する世代に比べて「寡黙な人たち」なのである。

残念ながら、彼らどうしのお喋りをつぶさに観察しているわけではない。ぼくが経験しているのは、ぼくや年長者と居合わせている時の彼らの寡黙ぶりである。問われたり導かれれば口を開くが、主体的に言を尽くすのは稀である。もし食事中にぼくもだんまりを決め込んだら、おそらく長い沈黙の時間が過ぎるだろう。出された宿題は解くが、自ら問いを発して問題を解こうとしないのに似て、促されなければ平気で黙っている。わずか数秒の沈黙にすら居心地の悪さを感じるぼくからすれば、驚嘆に値する忍耐力と言わざるをえない。

黙

黙る行為の内には功罪の価値が対立する。黙るのは喋ることに比べるとリスクが少ないとよく言われる。たとえばギリシアのシモニデスの「口をつむぐ時、愚か者は賢く、賢者は愚かになる」という格言が示すように、公開の場で愚者が賢者を逆転するには、自分が黙り、自分よりも賢い相手に喋らせればいい。早い話が、賢者のオウンゴール待ちである。公開の場でなくても、一方的に話し相手がただうなずくだけという場面で、もしかしてぼくのほうが愚かなのではないかと思うことがある。喋ると小人物が暴かれるが、黙っていると大物感が漂うから不思議だ。


実際、「心が広くなると口数が少なくなる」(中国の諺)や「口をつむぐ者は魂を守る」(旧約聖書の箴言)のように、寡黙礼賛の教えも少なからず語り継がれてきた。とは言え、ずっと黙り続けている者への教えではない。これらは弁舌を尽くしてもなお語りえない境地に到った賢者の寡黙のことだろう。ぼくは思うのだ。天に召されたら無条件で黙ることになる。永遠の沈黙が確実に保障されている。ならば、生あるうちに口ごもりながらも駄弁を弄しておいてもいいのではないか。

「沈黙は承認のしるし」(エウリピデス)や「無言の拒絶は半ば同意」(ドライデン)というのもある。ノーなのに黙っていればイエスと解釈されても文句は言えない。本心がノーならノーと言えばいいのに、黙っているから後々厄介になるのである。こうした沈黙者に対して一方的に語りかけるのがこれまでのぼくのやり方だった。最近は若い世代が話すまでぼくから口を開かない。意地悪だが、「口を閉ざしている者には、他人もいっさい口を閉ざす。その沈黙へのお返しだ」(ベーコン)に従うようにしている。「ほら、相手に黙られたら困るだろ?」というつもりだが、まったく動じない者もいるから、文字通り「閉口」する。

若い世代に寡黙なる人々が少なくないことは経験的にわかっても、なぜ彼らが寡黙なのかを説明する材料を持ち合わせていない。しかし、ぼくたちが生きているのは、話さなくて済むことよりも話さなければ始まらないことのほうが圧倒的に多い時代である。寡黙はおとなしさや誠実の象徴に見えるが、同時に、交渉時に本性を隠す時の常套手段でもある。つまり、寡黙の仮面を剥いだら危険極まりない人物であったりするのだ。事件後に「まさか、あのおとなしい人が……」と知人友人がテレビで語っているのはこのことである。他方、声高にまくしたてる人間には駆け引き下手が多く、ある意味で素直にホンネを開示しているとも言えるだろう。さて、寡黙なる人々へのぼくの今日この頃の印象はラ・フォンテーヌの思いと同じである――「黙っている奴は物騒だ」。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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