ジョアン・ミロと中華料理

四条大橋

昨日、半年ぶりに京都に出掛けた。京都市美術館で開催中の『ルーヴル美術館展』でヨーロッパの風俗画を鑑賞後、三条から祇園、四条大橋、河原町あたりを散策した。例によって四条大橋から北の方向を臨み鴨川風情に目を休ませた。この橋を川端通りから渡ると、東華菜館の建物が否応なしに視野に入る。絵画展の後にこの建物を見れば、少年から青年になった頃のある日を必ず回想することになる。

小学校と中学校時代、文学と絵画への好奇心は旺盛だった。中学二年になった時、学年1,100人中つねに成績が1番か2番のS君と同じクラスになった。十三歳にして老成した感のある彼は、できたのは勉強だけでなく多趣味で多芸だった。LPレコードでクラシック音楽を聴き、ほとんど手の内に入れていた。最初の数秒聴くだけで作曲者と曲名を瞬時に答えるほどの精通ぶりである。彼の影響を受けて、ぼくも「コンサートホール」というクラシック音楽のレコード頒布会に入った。最初に買ったのはシューベルトの『弦楽四重奏 ます』。入会記念プレゼントとして『未完成交響曲』をもらった。

普通の成績のぼくとS君との格差はかなりのものだったが、よく付き合ってくれたものだと思う。彼の家には各種ボードゲームがあった。ほとんどのゲームは彼から教わった。彼は読書家でもあり絵の腕前も本格的であった。中学二年の終わり頃、太刀打ちできそうもない音楽から遠ざかり、趣味を絵画一点に絞ることにした。別に競うつもりなどなかったと思うが、絵画なら個性を発揮してわが道を行ける予感があった。中学三年になって少々勉学もするようになり、無事普通の高校に入学できたが、受験勉強などというものに巻き込まれては美術どころではなくなった。


高校一年の十五歳。誰にぼくの趣味のことを聞いたのか知らないが、九歳違いの叔父が「絵を見に行こう」と言ってきた。国立近代美術館京都分館で開催されていた『ミロ展』だった。抽象画にも関心があったので二つ返事でありがたく誘いを受けた。季節のよい秋の京都だった。結論から言うと、その日からぼくの抽象画への思い入れは強くなり、たまには創作もしたが、もっぱらブラック、ピカソ、ダリ、クレーらの絵画鑑賞を楽しんだ。

当時二十四歳の叔父は甥や姪の面倒をよく見る人だった。定時制の工業高校に通いながら勤勉に働き、卒業後は大手薬品会社で、今で言うMRとして働いていた。ミロ展の後に四条大橋を渡り、そして連れて行ってくれたのが北京料理の東華菜館だったのである。たぶん酢豚とあと一、二菜を注文してくれたはずだ。下町の薄汚い中華料理屋で中華そばと餃子くらいしか食べたことのないぼくにはかなりのご馳走だった。特に炒飯は初めて食べる味だった。大人の雰囲気の店で身構えていたのを覚えている。昭和の初めの建物だと知ったのはそれから十数年後である。

ミロのモザイク(ランブラス通り)

時は流れる。たまに絵を描くことはあっても、ジョアン・ミロとも東華菜館ともまったく縁もなく長い月日が過ぎた。ぼくがミロと再会するのは2011年まで待たねばならなかった。バルセロナはランブラス通りの路上モザイク画である。モザイクを恐る恐る踏みしめながら、その時も若かりし頃のミロ展を思い出していた。そして、ミロを思い出すたびに四条大橋のあの建物につながるのである。昨日は彼岸の入りだった。叔父は七年前、67歳で永眠した。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です