機嫌が良いこと

久しぶりに入った蕎麦屋でお気に入りの裏ごしおからを注文する。ざる蕎麦の前の一杯のつまみである。箸を動かして口に入れた瞬間、良くも悪くもなかった機嫌が良い方に動く。

オフィスに閉じこもって考え事をする。仕事が前に進まない時、機嫌が悪くなっている。そこで、遠回りかもしれないが手を動かしてみる。具体的には紙の上にペンを走らせるのだ。やがて凝り固まった考えがほぐれてくる。手を動かすという方法は「手法」である。理屈の技法よりも手法のほうが進展の可能性を秘める。腕を組んでいるよりも手を動かすほうが、少しは機嫌が良くなる。

もっといいのは、特別な用がなくても、川辺に行ってしばらく佇んでみることだ。川面に視線を落とし、溜め息か深呼吸か見分けのつかない動作をして空を仰いでみる。晴れていれば木漏れ日に巡り合う。この時、機嫌が悪いはずもない。裏ごしおからに舌鼓を打つのとは違う機嫌の良さ、気分の快さを自覚する。こんなタイミングで知り合いとばったり遭遇すれば、ちょっとコーヒーでもと声を掛けることになる。

誰にも不機嫌な時がある。その不機嫌を他人の前で露わにするのはなるべく避けたい。人間誰しも機嫌にむらがあるのはやむをえないが、それを見せてはいけないだろう。大人だからと言うつもりはない。ただ、明らかに機嫌にむらのある人を相手にしていると精神が消耗する。


無愛想な店主がいる。それが一つの個性になっているのなら、気にならない。無愛想と不機嫌は違うのである。必要以上に愛想を振りまかないが、淡々といい仕事をする一流の職人。それでまったく問題はない。機嫌が良くなくてもいい、悪くさえなければ。

こんな話を聞いたことがある。一時間以上も待たされた後に店に入り、うまい寿司を食った。しかし、店主はずっと不機嫌だったらしい。愛想も悪く機嫌も悪い。それでよく長蛇の列ができるとは不思議だが、それを受容する客がいるのも現実だ。店主は変人でも頑固でも無愛想でもいい、しかし、不機嫌がこっちにまで感染してはたまらない。不機嫌とうまさを天秤にかけたら不機嫌の方が重すぎると知人は感じた、そして二度と行かないと言った。

泣きそうな表情もだめだ。いつも暗い顔して負け犬のような生き方をして何が楽しいのか。人は勝ち続けられない。だから負ける。負けるのは非常事態ではなく常態だ。負けてへらへらと笑う必要はないが、暗い表情を浮かべることもない。もちろん、体調が悪くてつい顔に出ることがある。そんな時は人に会わなければいい。もし会うと覚悟したのなら、何があろうとも機嫌良く振る舞う。にこりと愛想することはできなくても、せめて機嫌だけを安定させる。

愛想とは「人あしらいのよいこと」であり、愛嬌があって、親しみやすさがあること。愛想がない、つまり無愛想でも許容できることがある。他方、機嫌が良いとは気持ちや気分の良さである。たとえば上機嫌と言うように。しかし、別に「上」でなくてもいい。気分が、機嫌軸の悪い方にではなく、少しでも良い方に振れていればそれで十分なのだ。最近、機嫌の良し悪しをテンションの高低と勘違いする向きがあるが、テンションが度を越す連中と一緒にいると、こっちの方の機嫌が悪くなる。独りよがりなハイテンションを機嫌が良いなどとは言わないのである。

コーヒーサイズの話

行き当たりばったりで飲むコーヒーに難癖はつけない。たとえば、食後にコーヒーが付いている場合とか、時間待ちするにもその店以外に選択肢がない場合など。しかし、半世紀近くコーヒーを飲んできたから、ある程度自分流が出来上がっている。自分流を貫くには気に入った豆を買い求め、自分で淹れて飲むのが一番。休みの日に体験する他流も、なるべく味や分量も自分流に近いものを所望するようにし、そうしてくれそうな店に入る。

コーヒーそのものについてはまずまず知っているものの、カフェチェーン店のコーヒーの注文サイズの呼び方にはまったく不案内だった。理由は簡単で、レギュラーコーヒーは例外なくレギュラーサイズで飲むからだ。ぼくが想定するレギュラーサイズは、よくある普通のカップに八分目、おおよそ一杯150mlである。コーヒーが冷め切るまでにおいしく飲むにはこれがちょうどよい。ところが、ある店でメニューを見ずに「レギュラー」を注文したら、それが3段階サイズの真ん中だったことがある。はっきり覚えていないが、S(スモール)/ R(レギュラー)/ L(ラージ)のような名称だった。おそらく240mlをゆうに超えていた。あまり飲みなれない量を飲み切ったから、胃袋はダボダボ。

どのチェーン店も23種類のサイズを用意している。S店などは4種類。当初は耳慣れないショート/トール/グランデ/ベンティに戸惑った。戸惑いはしたが、飲むのは決まって自分流のレギュラーサイズだから、それはショートなのだろうと想像して注文した。他店のレギュラーの1.5倍ほどの分量に驚いたものである。経験的にはコーヒーは大きすぎないカップで飲むのが快い。快いから習慣になる。習慣になるのは、それがおいしいという学習をしてきたからにほかならない。なお、S店のコーヒーはうまい部類に入らないので、ここ何年も行っていない。


エスプレッソにシングルとダブルがあるように、ブレンドコーヒーにもレギュラーサイズとそれよりも少し多めに入ったサイズの二通りの選択があってもいいだろう。それをR(レギュラー)/ L(ラージ)と呼んでいるのは、ぼくがたまに行く3店のみ。他の店はおおむねS(スモール)/ M(ミディアム)/ L(ラージ)の3種類。ぼくにはこれが「変」なのだ。個人的な偏見だと承知しているが、飲食を質よりも量でとらえがちなアメリカ流に従い過ぎではないのか。量を求める人はやがて冷める残り半分のコーヒーに平気なのだろう。

チェーン店ではない、街の老舗喫茶店でメニューを見る。コーヒーの種類はブレンドの他にモカやキリマンジャロなどいろいろ書かれているが、サイズはぼくが言うところのレギュラーのみだ。「大盛り」などはない。だから、レギュラーサイズという名称がない。一種類のサイズしかないことに何の問題もない。店主も自信を持って豆の種類を配合して、ブレンドコーヒーを淹れてカップに適量注ぐ。最後まで冷めない分量である。もしもう一杯欲しければ追加で注文すればいい。二杯目を半額で提供してくれる店もある。

先に書いたように、自分流の「レギュラーサイズ」の注文がミディアムサイズになることも無きにしもあらず。そこで、最近はメニューのパネルなどに見向きもせず、こう注文する。「ブレンドコーヒー、一番小さいのをください」。

秋の日和、雨、風

実況で小文を書き始めていたが、用事ができて途中でやめた。一昨日のことである。一昨日感じた雨の秋らしさを、晴れのち曇りで夕暮れた今、こうして書いている。

少年の頃まで、街はアスファルトで埋め尽くされていなかった。車が走っているのは珍しかった。歳時に四季それぞれの特徴があり、風物詩は現在とは大きく違っていた。夏の終わりとか秋の始まりなどといちいち言わなくてもよかった。夏から秋への移ろいは肌で感じ、風習に教えられたものである。

ぼくにとって、たとえば「秋日和」をことばで説くのは野暮である。説明しようとしても「秋」という文字を使うことになる。「秋らしい好日」と言うのが精一杯ならば、秋日和で事足りる。

一昨日、雨が降っていた。土砂降りではなく、しとしとと静かに細い雨がそぼ降って、ちょうどよい加減のお湿りなった。もし夜半まで降り続けば、それを長雨と呼ぶのだろう。長雨は秋の特徴だ。秋日和も秋雨も、それ以外のことばを尽くして説明してもらうには及ばない。

ところが、最近はそうもいかなくなった。表現に春、夏、秋、冬が含まれていても、ことばとイメージ、あるいはことばと体験的な現象が必ずしも一致しなくなった。秋日和や秋雨と言っても、若い世代にはどうやらピンと来ない人もいるようなのである。


『ことばの歳時記』(金田一春彦著)によると、昔は秋雨などということばはなかったらしい。江戸中期に春雨に対して生まれたことばのようである。春雨が先輩格というわけだが、濡れて情緒があるのは若葉だけではない。紅葉や落葉も雨で濡れる。それを秋雨と名付ければ風情に円熟の味が加わる。秋雨を造語した知恵者に感謝しなければならない。

秋の気配を感じさせるのは雨だけではない。風も秋の予兆や到来を知らせてくれる。秋風をぼくは「あきかぜ」と訓読みするが、漢詩の読み下しでは「しゅうふう」と読む。『漢語日暦ひごよみ』(興膳宏著)では「しゅうふう」となっている。同書に漢の武帝の「秋風の辞」の一節が紹介されている。

秋風しゅうふう起こって白雲飛び、草木黄ばみ落ちてかりは南に帰る。

船に乗って空を見上げれば白雲の流れが見える。秋の風の仕業である。雲を眺めて季節の移ろい、時の流れを認める。船上の酒宴に我を忘れて思う存分興じればいいのに、秋という季節は今のちょっと先、場合によってはずっと先へと心を向かわせる……そして、秋風に頬を撫でられながらセンチメンタルになる……というような心理になる人が少なくないが、実にもったいない。こんないい季節に哀愁に苛まれるのは、多分に刷り込みだとぼくは思っている。

二度あることは……

高知に三日間出張していた。その時のちょっとした話。それは、愛用の手帳の置き忘れから始まった。

「二度あることは三度ある」という。実際は、三度で終わらず、四度、五度、六度……と続くことが多いのだが、「二度あることは何度もある」などと言っては締まりが悪い。二度の次の三度を一応の区切りにするほうがわかりやすい。実際のところ、二度あることは何度起こるかわからない。しかし、一つだけ確かなことがある。「二度あることは三度ある」と言えるためには、一度目の経験がなければいけないということだ。

さて、今回の二泊三日の内に、一度あったことが二度あり、二度あったことが三度あった。滞在が長かったら四度、五度になっていたかもしれない。ともあれ、三度で終わってくれた。大した事態にはならなかったが、そのつど一瞬ハッとし、ほっとさせてもらった。


一度目。ホテルのチェックインが午後2時だったので、フロントに荷物を預けて食事と喫茶に出掛けた。手には分厚いシステム手帳と、財布や小物を入れた小さなバッグ。ホテルに戻る途中、ドラッグストアに寄る。ポイントカードは?……持っているが今はない……ではレシートに印を、一ヵ月以内に……出張だから来年まで来ない……どこの店でもポイントが付きます……などというやりとりをしながら、釣銭を受け取りコインケースをバッグに入れた。

店を出てまもなく店員が追いかけて来て、手帳を差し出した。命より大切にしていると周囲に吹聴しているくせに、時々置き忘れてしまう。バッグから財布を出し入れし、財布から紙幣を出し入れし、お釣りをコインケースに入れたりする動作にたわいもないやりとりが重なる。そうこうしているうちに、商品を受け取るまでの間に手帳を無意識にカウンターに置いてしまう。

二度目。日付が替わって研修日。午前の講義を終えて昼食。仕出し弁当ではなく、外出することにした。軽食してアイスコーヒーを飲んで戻ってきた。しばらくしてホテルのカード式のルームキーが届けられた。ズボンのポケットから滑り出して椅子の上に落ちていたらしい。店の常連の研修担当の男性が同伴せず、ぼく一人だったら届けられることはなかっただろう。カードキーのようなものがポケットからはみ出すことはめったにないが、腰掛ける椅子が低かったりソファーだったりする時は要注意なのである。

三度目。帰路、高知空港に着いた。出発まで小一時間余裕があったので喫茶店に入った。その時点では異変はなかった。保安検査場前で、タブレットとスマホを小さなトレーに、往路の検査で引っ掛かった金属製のケースやハサミなどを別のトレーに入れた。キャリーバッグを預けようとしてハンドルを押し下げたが縮まらない。そのまま係員に手渡した。係員は画像検査員に「ハンドル出たまま通します」と告げた。

検査直後にちょっと不安がよぎった。ハンドルがバッグ内に収まらないと持ち込めない、荷物を預ける手続きをさせられるのか……などと思いながら、トレーに出した小物をバッグに戻す。待合室へ移動し、座ってからスマホがないことに気づいた。少々慌てて立ち上がり、検査場に戻る途中、向こうから歩いてきた検査員がぼくを見つけてくれた。


こと今回の出張に関するかぎり、二度あることは見事に三度あった。もう少し長い目で見れば、過去に何度か起こったことであり、これからも何度か起こりそうなことだ。それにしても、今回のいずれのケースでも届けてもらえたのは幸運だった。手帳もルームキーも届けられるまで忘れたことに気づいておらず、まったく不安に陥っていない。最後のスマホだけほんの数秒間ドキッとさせられただけだ。

ところで、キャリーバッグの伸びたままのハンドル。搭乗前に一か八か力一杯押したら縮んでくれて機内に持ち込めた。大阪に着いたら、今度はハンドルが伸びてくれない。つまり、手で提げなければならない。帰宅後、ドライバーで分解してみた。プラスチック部品の一つが割れていた。瞬間接着剤で手当てをする。伸ばしてみたら伸びたが、途中で止まって動かない。もはや伸びも縮みもしない。と言うわけで、キャリーとしても手提げとしても使いづらい状態で部屋の片隅に置いてある。一瞬だが、このバッグをスマホ忘れの原因にしたことを少々反省している。

小題軽話(その5)

今日のネタ  20139月~11月」と表紙に書かれた文庫本サイズの過去ノート。ぺらぺらとめくって文字を追えば記憶がよみがえる。読まなければ忘却の彼方。加齢によって覚えることがままならなくなる。だから、ノートをきっかけにして時々思い出してみるのだ。知り合いを観察していると、読まない人ほど記憶が衰えやすい。要注意。

難字  難解な漢字には、❶読みが難しいもの、❷意味がわからないもの、❸ほとんど再現できないものがある。
❶は知らなければ読めない。字画の少ない「小火」も、字画が多くて見慣れない「麺麭」も、初見だと読みづらい(それぞれ、「ぼや」「ぱん」)。
「拳拳服膺」は❷の例。この四字熟語は「けんけんふくよう」とまぐれで読めたのだが、何のことかさっぱりわからない。辞書を引いて「つねに心中に銘記して忘れないこと」という意味を知る。しかし、この表現を使うことはまずないだろう。
ワープロ時代になって、実際には書けない漢字が画面上に明朝やゴシックで再生できるようになり、❸を実感しにくくなった。本ブログを9年間書いてきて、改竄かいざん軋轢あつれきはそれぞれ一度ずつしか使っていない。使用頻度が低い漢字は書けなくてもよく、使う段になってそのつど調べればよいと思う。しかし、よく使う漢字は書けるようにしておきたい。ぼくは揶揄やゆという表現をたまに使うが、ペンを手にしてから、いつも戸惑っている。ワープロは字画の多い文字を簡略表示するので、間違った漢字を覚えてしまう。贅沢の「贅」なども侮れない。

妬み、嫉み、僻み  それぞれ「ねたみ」「そねみ」「ひがみ」と読む。これらの用語は、ニュアンスの違いがわからないと使いづらい。と言うわけで、たいてい嫉妬、やきもち、羨ましいなどで代用される。嫉妬とは「そねみ・ねたみ」のことである。
手元にある簡易版国語辞典を引いてみた。ねたみ【妬み】の見出しには「しっと。そねみ」とある。そねみ【嫉み】をチェックしたら、一つ目の定義が「自分よりすぐれている人をうらやみにくむ」、二つ目が「ねたみ」。結局、ねたみとそねみのニュアンスはわからずじまい。ちなみに、ひがみ【僻み】には「ひがむこと」と書いてあった。辞書編纂者は利用者の知力を過信している。

おざなりとなおざり  201310月、関西で有名なHHホテルズの食品偽装が発覚した。記者会見で関係者は「おざなり」を詫びたが、自覚しながら七年間も誤った表示を続けてきたのは「おざなり」ではない。おざなりは急場しのぎのことばである。「適切に表示するシールがなくなり、間に合わせに手書きしたところ、それが誤っていた」なら、おざなりである。
ずっとおざなりだったのである。習慣化していたのである。ならば、おざなりではなく「なおざり」なのだ。なおざりだったのに、おざなりという表現で済まそうとしたところに狡猾さが見え隠れする。いや、関係者はそもそもそんな用語の違いも知らなかったと思われる。ところで、おざなりは「御座なり」、なおざりは「等閑」と表記する。

羊頭狗肉ようとうくにく  上記の不祥事は、芝エビとバナメイエビ、サーロインステーキと牛脂入り加工肉の偽装表示であった。羊頭狗肉とは「立派そうに見せかけて、実は卑劣なことをする」のたとえである。バナメイエビと加工肉に非はない。卑劣なのは行為者である。
サーロインと謳われて成型加工肉をうまいうまいと口に運んだ消費者。舌を巻く前に己の舌の程度も心得るべし。車も芝も、エビはエビ。違いがわからなければ、ブランドとは味ではなく名ということになる。「おいしいもの」と「もののおいしさ」は違う。
ところで、狗肉は犬の肉だと思われているが、馬の干し肉、ホースジャーキーである。羊肉のほうが馬肉よりも上等だった国の話。

忘れるのは勝手?  前世期の悲惨な事件の記憶が薄れる。それどころか、今年の事件でさえ忘れる。歴史も忘れる。BSテレビでヴェルサイユの街を紹介していた。17世紀まで牢獄だった施設跡がリフォームされ居酒屋になっている。壊さずに残す。客の一人が言った、「ぼくたちには記憶の義務がある」。聞き慣れないが、記憶の義務とはすばらしい発想だ。「オレの頭だ、忘れようと勝手だろ」ではないのである。

小題軽話(その4)

地と図  地と図には関係がある。あるもの(図)が他のもの(地)を背景にする時、図が浮き上って見えてくる。何かを別の何かになぞらえる、あるいは見立てるということが生じる。ルビンのさかずきと顔の絵でよく知られている。言うまでもなく、ルビンのあの絵にはゲシュタルトが仕込まれている。絵だけでなく、ことばでも起こる。何ら仕込みをしなくても、あることばが他のことば群の中で際立って知覚されることがある。たとえば、あるテーマについて考えるとする。それをテーマという対象と自分とのやりとりに見立てることができる。実際にやりとりしてみると、すでにわかっていることが地になり、わからないことが図として現れる。そして、考えるという行為が不足探しだということに気づく。

強がる弱さ  臆病で引っ込み思案のくせに、見栄だけは一人前に張ってみせ、力関係を天秤にかけては虚勢を強さに変えようとする。「強がり」は真の強者には無縁。それは弱者の振る舞いだ。老子は「柔弱」の価値を讃えたが、「強がる弱さ」はもっとも柔弱から遠いと言わざるをえない。強かろうが弱かろうが、短絡的に弱さを見せることもなければ強がってみることもない。分相応に力を発揮すればいいわけだ。外交戦略のように駆け引き過剰、強がり一辺倒には芸がなく、逆に相手に手の内を読まれてしまいかねない。あれこれとカモフラージュする暇があったら、素直に徹するのがいい。素直が強いのである。

疲れたらどうする?  根岸英一博士は「根岸カップリング」で有名だ。根岸カップリングとは、有機亜鉛化合物と有機ハロゲン化合物とを……から始めて最後まで説明できないし、仮に説明できたとしてもこの際あまり関係がない。その根岸博士が、ある時チャーチル首相の本を手に取り、その冒頭の文章に大いに刺激を受けたという。「Aで疲れたら、何もしないのではなく、Bをやってみる」。うまくいかないことや疲れることがあれば、凡人は何もしない時間を作ろうとする。しかし、何もしない時間が過ぎれば、やがてうまくいかなかった作業に戻らざるをえない。以前にもまして疲れるかもしれない。もとより、何もしないことで疲れが癒される保障などない。Aで疲れてBでも疲れる可能性はあるが、BAへのヒントになるかもしれないと考えるのが非凡な発想なのである。

おばあさんの手紙は長い  「時間をたいせつに」とか「忙しければ、ひとまず短い簡単なメールか電話を」などという。ビジネスマナー論として語るまでもなく、みんなわかっていることだ。わかっているのにできないのは、時間がないとか忙しいと言いながらも、能力がないか暇な時間があるからだろう。英国に「おあばあさんの手紙は長い」という言い回しがある。毎日時間がたっぷりあるお年寄りは、いったん手紙を書き始めたらなかなかペンが止まらない。冷静に考えれば、お年寄りは日々時間があっても、人生の時間は残り少ない。人生のことを考えたら、長い手紙ばかり書いているわけにもいかないはず。しかし、時間は量なのではなく、感覚だ。時間はあると思えばあり、ないと思えばないのである。

小題軽話(その3)

懲りずにノートの話  何かが気になるのは、その何かを覚えているから。脳やノートに手掛かりのある状態だ。しかし、たいていの事柄は「時限記録」。安物の感熱紙かホワイトボードに書かれた文字のように、いずれは消えるか消されてしまう。消えるのは思い起こしをしないから。消されるのは外部から刺激的な情報が入り込んできて取って代わるからである。インプットした情報は脳に永久記憶されるのではない。ノートに書いても、書いたことを即座に思い出すには別の能力がいる。「参照力」とか「引き出し力」のことだが、書いたものを何度も読み返し、書いた当時の思いを再生する以外にこの能力を維持する方法はない。

思い出し笑い  たとえば喫茶店で一人でいる時、自分が思い出し笑いをしていても気づきにくい。しかし、斜め向かいのテーブルの他人が思い出し笑いをしているのには気づく。思い出し笑いを観察する趣味はないが、一度見てしまったら、何度か視線を向けることになる。どうでもいいのに、なぜ笑っているのだろうか……と想像したりする。やがて気味悪くなる。しかし、もっと気味悪いのは「思い出し作り笑い」である。

強い意志!  すごい決意表明をした男がいた。「何が何でも決めたことをやり遂げる。これまでの悪習を排除して、日々小さな善行に努める。これは自分との絶対に破らない約束だ。これからは他人の模範となる存在として生きていく」。彼のことをよく知っている。三日坊主を絵に画いたような人物である。寒気がした。そして、ふと思った。「理念やビジョンを語るのに能力はいらない、ただ厚かましく意志もどきを表明すればいい」。

ブランドとブランディング  そもそもブランドとはすでに顧客が認めている価値ではないのか。長年にわたって共感や信頼を得てきたイメージではないのか。しかも、ほとんどのブランドは「ブランドとして認知されるように育て上げよう」などという戦略を立てたとは思えない。企んでブランディングした俄かブランドははたしてブランドなのか。うわべはそうかもしれないが、ブランドの体幹が違っている。正真正銘のブランドに注釈はいらない。余計なことを言ったり示したりしなくてもいいのである。

銅板と銅製品  「平たい銅版から銅製品が作られる」(A)と言えばわかりやすい。誤解の余地はない。しかし、この一文は銅にしか通用しない。銅以外の素材や製品にも使える表現はないものか。ある。「二次元の材料から三次元の造形をおこなう」(B)と言えばいい。Bの表現にはAに比べて抽象的で小難しいというケチがつく。このような概念的言い回しはとっつきにくいが、高次の知には欠かせない。Bは、Aにはもちろん、それ以外の諸々にも還元できるのである。

小題軽話(その2)

汽車か馬車か  旅するにあたって、アンデルセンは馬車よりも汽車のほうがよいと考えていた。常識的に考えれば、馬車のほうが旅情に溢れていると思うのだが、「汽車では旅情が失われるというのはウソだ」とアンデルセンは主張した。ぎゅうぎゅう詰めの馬車よりも汽車のほうが快適、しかも景色をよく見せてくれる、馬車は旅の時間を間延びさせているにすぎない……というのが理由だった。きっぱりと過去への未練を捨てたのが産業革命時代だったが、その一つの例かもしれない。

ジョークのマナー  「あの人はにこりともせず淡々とジョークを語る。クールだが、とっつきにくく、不気味でさえある」と評された男がいる(どちらかと言えば、ぼくも同類だが、その男はぼくではない)。彼の肩を持ちたいと思う。にこにこ笑ってジョークを披露するなどありえない。素人や安物の芸人ならやりかねないが、ジョークの達者な語り部は表情一つ変えない。過剰なジェスチャーもしない。それがマナーなのだ。

ジョークの役割  これはぼく自身の話である。講演や研修でコミュニケーションや思考、企画やリテラシーを扱う都合上、どうしても難解な術語が出てきたり硬派な講話に傾いたりする。少しでもやわらげるために笑話やジョークをはさむ。一種の糖衣効果、あるいは、話がやさしく聞こえるプラシーボである。しかし、後日よく言われることがある。「いやあ、核心の話はほとんど覚えていませんが、講義で聞いたジョーク、あちこちで使わせてもらっています」。

幸せは束の間  やせ細ったねずみが果樹園に小さな穴を見つけた。まったく苦労なく中に入れた。各種フルーツ食べ放題。その日からねずみは頬張り貪り、毎日腹いっぱい幸せいっぱいの日々を送った。ある日、ねずみは仲間のことが無性に恋しくなった。抜け穴から外に出ようとするが、すっかり太ってしまって穴を通れない。「元のようにスリムにならないと古巣に戻れないのか……」。ねずみはその日から一切フルーツに手をつけず絶食した。すっかりやせ細ったねずみは穴をくぐり、腹を空かせながら仲間の所に帰って行った。おしまい。

スイッチのON/OFF  オン/オフというのは切り替えである。仕事と休暇、気分、緩急、公私……どんなことにも切り替えが必要。誰かに命じられて切り替えるよりは、自らスイッチを操りたい。上手にスイッチを切り替えて他者に働きかけ、人間関係の中で生きていることをつくづく実感したい。ところが、最近感じるのだが、スイッチを持っているのにずっとオンずっとオフのままで、切り替えない人がいる。故障しているのに修理しない人もいる。そして、とても不思議なのだが、そもそもスイッチを持たない人が急増中なのである。

小題軽話(その1)

一つのテーマについて一応の筋道を立てて小文を書くのは、たとえそれが仕事ではなく、私的な慰みのブログであってもエネルギーを使う。頭が働かない夏場は特にきつい。と言うわけで、先月から整理していた過去ノートから断片メモを拾い、小ネタを肩肘張らずに扱うことにした。〈小題軽話〉という表題を掲げたが、この意図通りに書けるかどうかは不明。

すぐに気づかないダジャレ  書評会で立川談四楼の『もっと声に出して笑える日本語』を取り上げたことがある。実話をネタにしたダジャレや小話満載の文庫本。たとえば、クイズ番組でパネルの好きな番号を選んでもらったら、具志堅用高が「ラッキーセブンの5」と言ったという話。このおかしさにはすぐに気づく。しかし、次のはどうだろう。

面接官 「ところで、家業は何ですか?」
応募者 「カキクケコです」。

これ、文章を読むとすぐにピンとこないが、聞くだけなら「家業」と「か行」のダジャレに気づきやすい。笑わせる小話を文で綴るのはやさしくない。

星占い  いつぞやの水瓶座の今日の占いに「自分へのご褒美に少しぜいたくを」と書いてあった。大した仕事ができていない日々で、ご褒美などありえなかった。それに、休みの日ならともかく、平日に仕事の合間をぬってのぜいたくにどんなものがあるのか思い浮かばない。朝一番にこの占いを見ていたら、提案に乗ってステーキランチという手もあっただろうが、占いを見たのは夜も更けてからだった。今日の星占いは朝一番に見るもので、一日の終わりに見てしまっては後の祭りである。

悩んだらサイコロ  悩んだら、「えいやっ!」と答えを出せばいいと思うのだが、悩む人の場合はなかなかそうはいかないようである。答えが見つからないから悩む。正しい答えを出さねばならないと思うから決断が遅くなる。正しい答えではなく、納得する答えを選べばいいのに。とは言え、たとえばABの選択にあたって悩むのは、AにもBにも納得できず、第三の道も見つからないからだ。あるいは、ABの納得度が五分五分で踏ん切りがつかないということもある。限界まで考えても悩みが消えず、しかも時間が切迫してきたら、覚悟を決めてサイコロを振るしかない。このような助言をしたことは何度もあるが、そもそも悩む人は、サイコロを振るか振らないかで一から悩み始める。

記憶と世界  記憶力がよいのも良し悪しと言う人がいる。記憶が良すぎると嫌なことも覚えてしまって困ると言うのだ。記憶力の悪い人への慰めにすぎない。記憶力が悪ければ、嫌なことを忘れるが素敵なことも忘れるではないか。最近とみに、ぼくの周囲の四十代半ばを過ぎた面々に物忘れのひどいのが増えてきた。良きも悪しきも分別なく平気で忘れてしまう。本人に困っている様子はない。困るのは回りの人間のほうである。ぼくたちは過去と記憶で繋がっている。過去の経験や思い出は写真や記念品を介して甦ることがあるが、写真や記念品に頼らずに脳内で自力再生できる記憶力が重要なのだ。四十代で思い出しづらい兆候が出てくると、還暦過ぎる頃には危険である。記憶を通じてぼくたちは世界とも繋がっている。記憶が弱まり衰えると世界が見づらくなる。ここで言う世界とは、現在の仕事や私事、他人、日常生活、言語のことである。

点と線の経験

昨年のとある日、在宅で仕事をしていた。電話やふいの来客に邪魔されない自宅のほうが仕事がはかどることがある。しかし、そうでないこともある。その日は少々順調さを欠いたので、気晴らしに外出することにした。いつもの古本屋に寄り、お決まりのように本を漁った。会計しようとして財布にポイントカードがないのに気づく。その数日前に出張があり、出掛ける前に分厚い財布が気になり、必要なさそうなカード類を数枚取り出していたのだ。

数冊のうちの一冊が『そら色の窓』。帰り道に喫茶店に寄ってその一冊をテーブルに置く。イラストレーターの著者自らがイラストを描いているらしい。自分が書いた文章の主題にふさわしいイラストは、絵心があるのなら自分で描くのがいい。意図からずれにくいからだ。著者はプロだから、当然自分で描いた。

本をめくる前に、この書名をどんなテーマイラストとして表現したのか想像してみた。絵は想像とはかなりかけ離れていた。鉛筆のアバウトな線で四角をかたどって窓枠に見立て、これまたアバウトなタッチで空色をささっと塗っている。窓が窓らしくない。理屈っぽい作家ならもっと精細に描いたに違いない。しかし、そのアバウトなイラストにほっとした。う~ん、人は理屈で疲れるんだなあ。


理屈をほぐすには、気ままな心象風景を主役にするのがよさそうだ。「そら色」に触発されて、いつぞや見た盛夏のあの緑を連想する。記憶はアバウトである。清新の気に満たされた午後になればと願いながらも、綴っている自分の文章には、気づかぬままに一本の理屈の線が引かれていた。習性を封じ込めるのはたやすくない。

ぼくのその習性とは、その時々の経験を点として放置せず、自分固有の経験と知識を一つの線にしようとすること。散在する点あっての線なのか、線あっての点の集まりなのか……よくわからないが、線を点よりも優位に置くことが多い。

人は誰しも、直近の点に、あたかも無私の境地に置かれたかのように、その点の瞬発力に機械的に反応してしまう。無私とは、それまでの経験や知識をリセットすることだ。そのつどの点の経験は一種のアドリブである。これをいちいち線の経験につなげようとするのは野暮かもしれない。しかし、点描画が無数の点を意味ある絵としてあぶり出すように、点の経験を過去の記憶につなげて線にしてみるべきではないのか。いや、線にしてみるべきだなどと肩肘張らずとも、無意識のうちに「過去は〈今ここ〉に立ち現れている」(中島義道)のではないか。その過去を見逃すのは惜しい。

大過去の彼方に消えて それがいま現れたなら不思議成立 /   岡野勝志