昨年のとある日、在宅で仕事をしていた。電話やふいの来客に邪魔されない自宅のほうが仕事がはかどることがある。しかし、そうでないこともある。その日は少々順調さを欠いたので、気晴らしに外出することにした。いつもの古本屋に寄り、お決まりのように本を漁った。会計しようとして財布にポイントカードがないのに気づく。その数日前に出張があり、出掛ける前に分厚い財布が気になり、必要なさそうなカード類を数枚取り出していたのだ。
数冊のうちの一冊が『そら色の窓』。帰り道に喫茶店に寄ってその一冊をテーブルに置く。イラストレーターの著者自らがイラストを描いているらしい。自分が書いた文章の主題にふさわしいイラストは、絵心があるのなら自分で描くのがいい。意図からずれにくいからだ。著者はプロだから、当然自分で描いた。
本をめくる前に、この書名をどんなテーマイラストとして表現したのか想像してみた。絵は想像とはかなりかけ離れていた。鉛筆のアバウトな線で四角をかたどって窓枠に見立て、これまたアバウトなタッチで空色をささっと塗っている。窓が窓らしくない。理屈っぽい作家ならもっと精細に描いたに違いない。しかし、そのアバウトなイラストにほっとした。う~ん、人は理屈で疲れるんだなあ。
理屈をほぐすには、気ままな心象風景を主役にするのがよさそうだ。「そら色」に触発されて、いつぞや見た盛夏のあの緑を連想する。記憶はアバウトである。清新の気に満たされた午後になればと願いながらも、綴っている自分の文章には、気づかぬままに一本の理屈の線が引かれていた。習性を封じ込めるのはたやすくない。
ぼくのその習性とは、その時々の経験を点として放置せず、自分固有の経験と知識を一つの線にしようとすること。散在する点あっての線なのか、線あっての点の集まりなのか……よくわからないが、線を点よりも優位に置くことが多い。
人は誰しも、直近の点に、あたかも無私の境地に置かれたかのように、その点の瞬発力に機械的に反応してしまう。無私とは、それまでの経験や知識をリセットすることだ。そのつどの点の経験は一種のアドリブである。これをいちいち線の経験につなげようとするのは野暮かもしれない。しかし、点描画が無数の点を意味ある絵としてあぶり出すように、点の経験を過去の記憶につなげて線にしてみるべきではないのか。いや、線にしてみるべきだなどと肩肘張らずとも、無意識のうちに「過去は〈今ここ〉に立ち現れている」(中島義道)のではないか。その過去を見逃すのは惜しい。
大過去の彼方に消えて それがいま現れたなら不思議成立 / 岡野勝志