路地のある光景

「ろじ」を露路と表記すれば茶室へと導く通路の意味になる。そんな風情は周辺には見当たらない。だから、路地と書く。裏町の民家と民家の間の狭い通りのことである。

ぼくの住む街は、かつて町家だったと思われる痕跡を今もあちこちに留めている。実際、林立するマンション群の隙間に解体を免れている町家が少なからず点在する。町家ある所、路地も残る。表通りに佇んで路地を覗き、好奇心に促されてそろりそろりと進めば、狭い小道の左右に民家が立ち並ぶ光景に出合う。迷路と呼ぶほどの複雑な構造ではないが、近道だろうと思って入り込んだのはいいが、行き止まりということはよくある。

稀に旧住所を示す標識やブリキ製の看板が板塀に残っているが、路地を路地らしく装っていた小道具の大半は姿を消した。今では自転車やバイクが停めてあったりする。ちょっと奥へ進むと、町家を改造した雑貨店やカフェが出現する。それでも、表通りから眺める遠近感と光と陰翳の微妙な綾は、昔も今も大きく変わらない。


民家の立ち並ぶ表通りを歩けば、ちょうどいい具合に路地が一定のリズムで現れる。家、家、家、家……そして路地……という配置は心地よく、そぞろ歩きしていても飽きることはない。しかし、数カ月も経とうものなら、いくつかの隣り合った町家が壊されて更地になり、路地も消える。翌年になると光景がビルやマンションに一変していることも珍しくない。

ぼくにとっては路地ではない幅広い道なのに、それを路地と呼ぶ人もいる。その人の路地には軽自動車が入ってしまう。車が入ったりすると、もはや路地ではない。路地は人々の日常の生活と歩行を保障する治外法権的な地帯でなければならない。時に、よそ者の通行人も招き入れてくれる。

路地は暮らしやすさのバロメーターなのではないか。その街に住んでよし、歩いてよし。それはまた、街を小さく区分してちょうどよい戸数、ちょうどよい人数で共同生活する上での知恵のようにも思える。というふうに、懐かしく好意的に見るのだが、半時間ほど歩いてもなかなか子どもたちが遊ぶ姿にはお目にかからない。路地の奥まった家々ではひとりぽっちでゲームに興じているに違いない。路地の面影はかろうじて留めていても、人々のライフスタイルは様変わりしたのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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