匿名から実名へ

個性の時代などと言うが、名も無き存在として身を潜めているのも一つの生き方だ。また、多様性の時代とも言うが、画一的にその他大勢に紛れておくのは楽かもしれない。大衆の時代が終焉したらしいことに気づいている、しかし、いざ個性的存在を自覚して生きていくとなると、それ相応の覚悟がいる。自分らしくありたいと言いながら、そして、それが許される環境にありながら、願いが叶わぬ選択肢のほうに傾くのも人の性である。

たとえ個性と自由が担保されるようになっても、習性は易々と変わるものではない。長いものに巻かれ、大樹の陰に寄り、小異を捨てて大同に就いておけば無難だからだ。こうして、何がしかの意見を持つ者でも、類は類を呼んで、十人一色のやるせなさに耐えて生きる道を選ぶ。「所詮サラリーマンですから」とタテマエで笑い飛ばしているうちに、それが習い性になってホンネになってしまう。買い手のつかない魂を売っているような図である。

やっとのことで口を開いて意見を述べるかと思いきや、あれこれと「条件」が付く。意見の精度を期しての条件ならそれもいいだろう。しかし、ほとんどの条件はリスク回避、わが身を守るためである。そんな条件付きの意見に強度と本気が備わっているはずもなく、おいそれと与するわけにはいかない。会議が茶番に終わるのはおおむねこのせいだ。


立場上、仕事柄、分相応という逃げ道がいつも用意されている。立場上言を差し控え、仕事柄言うべきことを言わず、しかし、分相応にだけ言い回しておくなどは、体裁のいい言い訳にすぎない。意見の適用範囲を制限するような物言いに頻繁に出くわすたびに、会議に出たことを大いに後悔する。意見の多様性を求めたはずの議論の場が、式次第優先の手打ちの会と化す。本来、意見とは穏やかならず、極論的な意味合いが強い。立場、仕事、分などの諸条件を差し置いて、また列席の面々との力関係に左右されずに、唱えられるものでなければならない。

意見に肩書が求められるケースもある。専門分野のテーマならその道の専門性の程度が少なからず問われる。しかし、一度専門分野から離れれば、一個人が述べる意見に肩書は不要である。肩書が不要だからと言って、匿名でいいというわけではない。意見は実名によって示されなければならない。芸術作品に作者不詳はあっても、意見に仮名や無名はない。大量の匿名性の情報や意見が流される今日、意見の身元証明のすべは実名以外にはないのである。

公的な入札コンペの民間審査員として招かれることが多い。審査結果に到るプロセスは誰にでも公開され、「岡野勝志」の名前が審査員一覧に出る。「匿名の審査員数名による結果」などと発表されたら、入札業者は結果を受容しがたいだろう。審査員の資質の証である肩書も重要だが、それ以上に実名であることに意味がある。

匿名ブログの的を射た意見よりも、実名の的を外した意見に耳を傾けたい。道徳教科書の、「にちようびのさんぽみち」の店がパン屋から和菓子に変えられた。文科省の誰の検定意見だったのか。パン屋が「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度に照らして不適切」だと意見した人物を、一人であろうと複数であろうと、実名で公表すべきだ。この検定意見には大いに異論があるのだが、相手が匿名であってみれば、いくらこっちが実名で頑張ってものれんに腕押しなのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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