ある老夫妻

世間から見れば還暦は年寄りになるのだろうが、還暦を迎えたほとんどの人が「まだまだ若い」と自分では思っている。歳を取ったという自覚があっても、中年の仕上げという気分でいる。それが、たとえば後期高齢者の烙印を押される75歳あたりになると、もう老人であることを自認せざるをえなくなる。現役でばりばり頑張っている先輩もいるが、人生を無為に消化しているようにしか見えない人も少なくない。

高齢者はバリエーション豊かである。働き盛りの中高年がある程度類型化できるのに比べると、プロファイリングしにくいほど様々な「種」がいる。地域性も色濃く出る。先日病院で遭遇した老夫妻は後期高齢者の手前あたりと見受けたが、ある意味大阪的であり、また、大阪的でありながらも、そうそうお目にかかれる種ではなかった。実話とコントは同根で、違いがあるとすればギャラがあるかないかだと実感した次第である。


妻が院内の自販機でサプリウォーターを買ってきた。キャップを開けて夫に差し出した。黙って受け取って飲めばいいのに、夫はわがままである。「おれ、味のついた水は嫌いや。普通の冷たい水がええねん。」 そう言うから、飲まないのかと思いきや、ペットボトルをひったくるようにして飲んでいる。一言何か言わないと気が済まないのだ。一口飲んで物言わない。妻も黙っている。二人は向き合わず別々の方向を見ている。

しばらくして、夫の携帯が鳴る。マナーモードの切り替えを知らないから、高齢者の携帯はたいてい呼び出し音が鳴る。応答する声も大きい。「おお、○○か!?」 傍若無人な大声だ。大した話をするわけがない。夫の話を聞くだけで、電話の相手の問いまでわかってしまう。

(相手……)
「今な、病院で診察や。」
(相手……)
「膝に水が溜まっとる。」
(相手……)
「そうや、金も貯めんと膝に水溜めてるんや。」
(相手……)
「金も貯めんと膝に水溜めてどないすんねん!」

かなり気に入った表現か、あるいは常套句なのか、夫は二度繰り返した。

ディスプレイに番号が出て、ほどなく夫の名前が呼ばれる。ここは循環器内科なので、膝の水とは関係ない。つまり、夫は内臓にもどこか疾患があると思われる。診察を終えて夫妻が出てきた。開口一番、「今日は先生とは漫才にならんかったな、ハハハ。」 待合の人たちに聞こえるように言っている。妻は知らん顔。受付前でも虚勢を張った話しぶりだった。

夫妻は川面が見える窓際へ歩み、ソファーに腰掛けた。二人は黙っている。ぼくの診察番号がディスプレイに出たので席を立った。この先も沈黙が続いたのかどうかは知らない。

夫は普段から携帯以外にものを持たないのだろう。病院でも紙一枚すら手にしていなかった。ここに来るのも会計をするのも、おそらくすべて妻任せ。買物も一人でできない、買物弱者である。但し、携帯を持てば冗談を言い軽口を叩き、面と向かって喋れば強がってみせる。ギャグあり、虚勢あり、病気あり。そして、どこかに視線を向けて黙ると、背中に悲哀が漂う。高齢と折り合いをつけ、晩年を健やかに生きるのは容易ではない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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