門と閂

幸福と不幸は正反対なので、今が幸福か不幸かは誰にだってわかりそうなものだが、実は必ずしもそうではない。望む幸福と招かざる不幸を見分けるのは案外難しい。幸せになるつもりでやっていたことが、不幸せへとまっしぐらだったということがある。

対立概念が入り混じるのは常。晴れているのに雨が降る狐の嫁入り。甘辛い料理も味が混じっている。痛いけれど気持いいというのもある。だから、幸福と不幸が混じっても何ら不思議はない。いや、ずっと幸福、ずっと不幸のほうがむしろ稀かもしれない。それが証拠に、不幸中の幸いという言い回しもある。

「天は、(……)幸福の中にいくらかの不幸を混ぜるのが常」(シャルル・ペロー)

天はなぜそうするのか。人をいつも満足させるのに疲れるからだという。天に幸福を授けてもらおうと甘えている者はいくばくかの不幸も覚悟しなければならない。そのいくばくかは天のさじ加減なので、不幸の割合のほうが多くても文句は言えない。


先日仕事で赴いたビルの一角に、杉と松と鉄を素材にした展示作品を見つけた。『幸福の門1』と題されている(チェ・ソクホ作)。

幸福の門にはかんぬきがかかっている。門を施錠するために横に棒を一本通す。すると、かんぬきになる。かんぬきは「閂」と書く。よくできた漢字である。

門から幸福側に入るにはかんぬきを外さねばならない。しかし、かんぬきは門の内側に付けられているから、正しくは「外してもらわねばならない」。門外の人間にはかんぬきは外せないのである。では、お願いする幸福の門の門番とは誰なのか。それが、ペロー流に言えば「天」ということになるのだろう。

ところで、門の外が不幸で、門の内側が幸福という考え方は、幸不幸が混在する現実に反している。幸福というのは、ある心的状態を現わすことばであり概念である。どこかに存在しているわけではない。不幸側にいて勝手にかんぬきをかけている人もいる。かんぬきを外して門を開けたら幸せになれるのに、かんぬきを外さない。おそらく門も閂も外界にあるのではなくて、自分の内にある。この作品をしばらく鑑賞しながら、人がなかなか幸せになれない理由が少しわかったような気がした。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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