初耳・初見が減っていく

情報化社会というのは便利なことばである。詳細に立ち入らなくても、情報が溢れるさまや大量の受発信行動をひっくるめることができる。日々の生活や仕事で、情報化社会のことを意識などしない。しかし、知りたいことはもちろん、知らなくていいことまで勝手に聞こえたり見えたりする。ぼくの経験では、1970年代は知りたくてもなかなか情報が手に入らなかった。一般人が頼りにできたのは新聞・雑誌・書物・テレビ。ありとあらゆる媒体を漁っても、ピンポイントで欲しい情報を見つけるのは難しかった。

1989年、リチャード・ワーマンは『情報選択の時代』(原題“Information Anxiety”)で次のように語った。で、情報不安という意味である。

「情報不安症」は、私たちが理解していることと、理解しなくてはならないと思っていることとの乖離が、ますます大きくなるところから生じる。「情報不安症」は、データと知識の間に横たわるブラックホールである。私たちが知りたいことと、あるいは知る必要があることを、情報が伝えてくれないときに「情報不安症」が生まれる。

コンピュータが普及し始めた頃の一つの予見だ。もっとも、コンピュータの有無とは関係なく、人はいつの時代も情報不安症に苛まれてきた。人はDNA的かつ生態的に「知りたがる動物」なのである。知りたい情報が手に入らないとフラストレーションが溜まる。仮に知ったとしても、その理解がはたして正しいのかどうかと不安に思う。やがて、知りたいことを知ったのはいいが、情報が自分の既知を脅かすとわかれば、都合よく情報を切り捨てて、自分が理解できる程度と範囲で折り合いをつけるようになる。


ともあれ、知りたいことのほとんどは調べればわかる時代になった。ぼくたちはありとあらゆる情報源に取り囲まれている。言うまでもなく、知る必要もなく、情熱や好奇心と無縁の情報が無限大と誇張してもいいほど大量に湛えられている。聞き覚えのあること、見覚えのあることはおびただしく、情報に新鮮味を知覚するほうが珍しくなった。

情報をヒントにして捻り出すアイデアも、いつかどこかで聞いたぞ、見たぞという感じがしてならない。企画研修で出てくる提案や入札案件の提案でもめったに初耳・初見に出くわさない。実際のところは初耳・初見なのかもしれない。しかし、情報化現象に晒されてきたぼくたちは既視感に支配されている。聞いた気、見た気になってしまうのだ。

先のリチャード・ワーマンは30数年前にすでに「溢れる情報から価値ある情報へ」と主張し、情報は集める時代から選ぶ時代になると推論した。にもかかわらず、企画提案者は、これでもかとばかりに情報の収集と分析に躍起になる。しかし、そのエネルギーが斬新な初耳・初見のアイデアとしてうまく結実しない。アイデアは陳腐もしくは二番煎じであり、アイデアの表現も常套句の寄せ集めに近い。なぜそうなるのか。結局、提案者は、自分の経験や専門知識でコントロールできないアイデアに不安を抱くと、前例の範囲に落としどころを見つけるからである。

情報が欲しいと願って労力を費やし、導かれたアイデアの処遇に戸惑う。情報不安症とアイデア不安症の複合症候群に見舞われたら、もはや新しいものは生まれにくいだろう。情報化社会の情報不感症のツケは大きいのである。ダイエットよろしく、一度どこかで自分を取り巻く情報源を枯渇させてみる必要がある。情報が枯渇すると、自力で考えざるをえない。そして、自力思考こそが、情報量優位のコピペ人間や左から右へのシェア人間から自分を差異化する唯一の道なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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