夏特有のステレオタイプな匂いがありそうだ。街から離れたら、潮が匂い、樹木が芳香を放つ。その気になれば、日光も風もアスファルトも匂う。汗が匂うのは言うまでもない。鰻のかば焼きが匂い、蚊取り線香が匂う。視力だけと思われがちな既視感だが、本来は「感じたような気のする感覚」だ。嗅覚にも当てはまる。
今日、イタリアンブレンドのコーヒー豆をエスプレッソ用に細かく挽いてもらった。挽き始めた瞬間、閉じ込められていた香りが解放されて辺りに広がる。横を通る女性がつぶやいた、「わ、いい匂い」。ぼくの注文の品だが、香りは独り占めしない。どうぞご自由に、嗅ぎ放題ですから。
嗅いでいるつもりはないが漂ってくる匂いがある。その匂いは二つに分かれる。逃げたくなるほど閉口する匂いと、自主的に嗅いでみたくなる快い匂いである。前者の匂いは「臭い」とも書く。後者の匂いは「香り」とも呼ぶ。
くすのきの成分を抽出したアロマミストを使っていて、出張時にも持って行く。フェイスシートよりも手軽だ。と言うか、汗を拭く用途と違い、ミストは気分転換のため。駅のホームで数分待った後に新幹線に乗り込む。首筋にワンプッシュすると、ほのかな森の香りと冷感で安らぐ。深呼吸して積極的に嗅ぐ。
ぼくの住む街には川があり運河がある。数キロメートル先には港もある。夏になると、昼間に温められた水面から湿気が立ち上がり、微風が特有の匂いを運んでくる。かすかに生臭い潮の匂い、藻のある池で澱んでいるような水の匂い。水際からかなり離れていてもそんな具合である。夜更けて温度が下がり、匂いはやっと緩和される。
川と運河の他に古い町家も方々に残っている。そぞろ歩きすれば、いくつもの路地を左右に眺めることになる。路地からは、寒い時期には感覚できない匂いが夏になると漂い始める。決して香しい匂いではないが、悪臭でもない。日焼けした畳のような匂い、虫と草の青臭い匂い、地面が土だった時代の湿気た匂い……どれもこれも、嗅ぎ覚えのある懐かしい匂いだ。
夏は匂いの季節なのだろう。入り混じる各種の匂いに困惑されてはいけない。濃く味付けした食材を焼けば特有の生温い臭気を退治できる。夏場の鰻や肉がうまいのはそのせいかもしれない。