不在の発見

頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書する。余計にアタマを苦しめる? いや、必ずしもそうなるとはかぎらない。ぐっすり眠れてすっきり目覚めて、頭痛が消えていることがある。「知の疲れは別の知で癒せ」。これは案外確率の高い経験法則である。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋かもしれない。

その本のどこかの章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマが論じられていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま居酒屋で飲んでいれば、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。

ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? と考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし1点かもしれない。

不幸な状況にあっても、たった一つの小さな出来事で幸せになれてしまうのが人間だ。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心が晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。


いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるのが人の常。しかし、それでは凡人発想の域を出ることはできない。当然のことだが、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。「何があるか」はわかりやすいが、「何がないか」には気づきにくい。「テーブルの上にりんごがある」とは言えても、「テーブルの上にウィリアム・テルはいない」と言える人は少ない。

いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこからか安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることがあるのだ。

かつて“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。

“Teachers are conspicuous by absence.”

「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。あの番組にはパペットや近所のおにいさんやおねえさんは登場したが、教師は出てこなかった。教師はいなかったが、生きた教育を垣間見ることができた。足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。物事の編集には不在感や不足感が欠かせない。

日常について

普通のことを普通に毎日おこなうのが〈日常〉。何か特別な晴れがましい行為をするわけでもない。日常茶飯事や日常会話ということばに特段の意味や珍しさはない。そんな日常なのに、〈非日常〉と対比して捉えてみると、それが繰り返されることにある種の不思議を感じてしまう。

日常は文字通り「常」であり、普段の状態だ。たとえば日常を日記にしたためるなら、朝七時に起きた、トイレに行った、朝飯を食べて出掛けた、いつもと変わらぬ仕事をした……というような私小説的な事情を連ねることになるだろう。特筆すべきことは何もない。通常の生き方、あり方、おこない方を標準モードとして、人はありふれた日々を過ごす。日々はありふれた体裁と様子を繰り返しながら過ぎてゆく。


日常性とは、際立った変化が認められない、淡々とした暮らしぶり仕事ぶり、ひいては生き様である。柳田國男を引き合いに出すまでもなく、日常が〈ケ〉、非日常が〈ハレ〉とはよく言われること。いずれも時間に関わる生活世界の概念である。ケは「褻」と書く。日常生活のことだ。歳時記的な行事や冠婚葬祭の「晴」と対比される。

ハレの対極に位置する、そんな日常のことを言い表わすのが「日日是好日にちにちこれこうじつ」である。毎日同じようでも、日常は新たに生まれ、今日という日には、昨日とは違う好い日の趣が漂う。毎日同じ用品を使い、毎日同じ備品に囲まれて、気の遠くなるようなマンネリズムと折り合って暮らしていく。

今を――今のみを――生きることを日常と呼ぶならば、日常は過去を嘆いたり未来に逃げたりするよりも真剣に生に向き合っている。気づきにくいけれど、日常とはたぶん凄い力に満ちているのだ。だから、日常的であることを生活から消し去ってはいけないのだろう。めったにやって来ない非日常的な奇跡や感動ばかり夢見て、日常をおろそかに生きるわけにはいかないのである。

逆説の眩しい光

1975年、新潮社が読者向けに録音テープを流すサービスを始めた。読者が電話をかけると、作家の肉声による作品紹介が聞けるという仕組みである。その後30年間続いたらしい。残っているテープのうち星新一の肉声が何年か前にテレビで紹介された。「アポロ以来、宇宙がしらけてしまって書きにくくなった。これからは日常の異常に……云々」と言って、当時の新作『たくさんのタブー』の案内が流れた。

アポロが月面着陸したのが1969年。この頃を境に、知らなくてもいいこと、知らないほうがいいことまでもが広く伝達されるようになったような気がする。それでも、現在の情報過剰に比べればまだまだ大したことはなかった。当時、何かを知ろうとして調べものをするにはかなりの覚悟が必要だった。欲しい情報が見つかる保障がまったくなかったからである。

宇宙もそうだが、未来や過去の魅力と不思議に触れるのは愉快である。想像の限りを尽くしてもなかなか見えない。しかし、もし何もかもがはっきりと見えたりわかったりすると、おそらく想像力は出番を失い、ロマンティシズムの芽も摘まれるだろう。リアリズムだけの世界は殺風景である。


日常の種々雑多な現象や動向に目を向けると、「何かが違う、何かが変」という感覚に陥ることがある。そう感じるのは、自分のありようが常態で当たり前だと信じているからだ。現象や動向を不可思議だ不条理だと感じる時、実は、こちらの見方がまともだという前提に立っている。「?」を投げ掛ける側もまた、投げ掛けた相手からすれば「?」の付く存在であり、異様な発想をしているように映る。しかし、逆説を唱える側は逆説がタブーなどとは考えていない。

日常の異常にケチをつける。異常をもたらしている張本人は異常と思っているはずがない。そういう連中が多数派を占めると、ケチをつける少数派が異常だと見なされるが、何が正常で何が異常かはそもそも多数決で決まる話でもなければ、判断基準があるわけでもない。だから、「そうじゃないだろう」と逆説を示そうと意地を張る。

一見真理に反しているようであるが、真理の一面を表わすのが逆説。しかし、あくまでも説であるから、反真理的考え方や言い回しの真理性については決着を見ないし、仮に証明できたとしても、真理の一面などはいくらでもあるから、別の逆説を提起されることになる。であるなら、逆説に意義などないのではないか。いや、そうではない。逆説は眩しい光を放つ。結果としての正邪は別にして、日常の価値観をご破算にして見つめ直す機会を授けてくれる。だから、そう簡単に逆説癖を改めるわけにはいかないのである。

逆説の実像

夜明け前に東の空を眺める。まだ夜のとばりは下りたまま。しばらくすると、白み始める。周囲の闇に明るさの階調がゆるやかに滲み出す。暗さと対比された仄かな光が、実際以上に明るく見える。暗さが残っていてこその夜明けだ。

直線ばかりが集まる所では、一本の直線はほとんど注意を引かない。直線は曲線に混じった時にひときわ強さを感じさせる。直線と曲線は明るさと暗さの対比に通じるところがある。

何でも肯定していると、一つ一つの肯定が薄っぺらになる。否定のフィルターがかかると、肯定の意味は鮮やかに浮き彫りになる。あることの肯定は、おおむね相反するものへの否定の裏返しだ。否定のない所では、肯定の真意を量りかねることがある。


誰かが、おもしろい話を聞いて笑った。その様子に何か不都合があるわけではないが、もし「おもしろいから笑った」などと口走りでもしたら、ちょっとがっかりしてしまう。「おもしろい→笑う」という、一見自然な導出ゆえに、逆にそこから先の展開が見えてこないのだ。当たり前の一言なのに、凡庸の異様さが空気を支配する。

「おもしろいから不安になった」とつぶやけばどうだろう。「おもしろすぎて涙が出た」と言うよりもずっと奇妙である。奇妙ゆえに一瞬意図が飲み込めない。ことばに裏切られてつながらない。だからこそ逆説的な新鮮味を覚える。そして一歩踏み込んで、語の連なりから生まれるところに関心を向けてみる。この逆説に実像が隠れている可能性を期待してはまずいだろうか。

実像を素直に再現するのは写実だけの専売特許ではない。接続詞の前と後がつながっても素直とは限らない。論理や常識を逸脱したように見えるデフォルメやアマノジャクが実像の扉をこじ開けるかもしれないのだ。ありそうもないことへの試みを経ないで「ありそうなこと」を肯定するのは、実像の一面に光を当てているにすぎない。想像力を怠けさせてはいけないのである。

「人間の構想力は、明るい光のもとよりも、暗がりのうちでしっかりと働くものだ」(イマヌエル・カント)

私、~を変えました

知人からメール。「私、携帯を変えました。ガラケーです。メッセンジャーは見れません」。

スマホからガラケーに変わった。変わったのは本人が変えたからである。携帯電話会社の仕業ではない。

さて、国語の基礎をおさらいをしておこう。「変わる」は自動詞で、「変える」が他動詞。「ライトアップの光の色が変わった」とつぶやくとする。因果関係的には誰かがスイッチを操作したから変わったのだろうが、関心はそこにはない。これに対して、「部屋の灯りをLEDに変えた」なら、自分が意図的にそうしたことを伝えている。その時、自分は傍観者ではなく、変えた当事者である。

時代は巡る。巡って変わる。世界は動く。動いて変わる。自分の意思とは関係なく時代と世界が変わり、釣られるようにして自分の生き方も変わる、いや、変わらざるをえない。自分以外の力で生き方が変えられることには抗えない。けれども、ほんの少しでいいから自発的に変わる余地を残したいと願う。知らないうちに生き方が変えられるのではなく、はっきりと自覚して生き方を変えたいのである。

生き方などと言うと、人生観や仕事観を連想しがちだが、そんな大それた話ばかりではない。トーストに塗るのをバターからジャムに変えることも、メガネや小銭入れを変えることも、なにげなくつつましやかながらも、どこかで生き方につながっている。自分の主体性を発揮して変化を起こしたいのなら、まずは暮らしの中の小さなモノや習慣を変えることから始めるのがいい。


歳をとると生き方が変えづらくなる。勝手知ったやり方に頑なにこだわる。それでもなお、意思と無関係に、変わらざるをえない場面に遭遇する。変えるのは面倒、今のままのほうが楽だ、しかし変えられてしまう。どうしたものか。ジレンマに苛まれるくらいなら、自らの生活の一部分を変えるほうがよほどましだろう。変えるという意思が生きていることを実感させてくれるからだ。日々小さな変化を自ら進んで取り入れる。それは臨機応変かつ軽やかに生きることと同義なのである。

私、髪形を変えました。
私、散歩道を変えました。
私、万年筆のインクを変えました。
私、人との付き合い方を変えました。
私、部屋の模様を変えました。
私、愛読書を変えました。

この程度のことを変えても、別に人生の根本が180度転回するわけではない。ほんのささやかな揺らぎ程度にすぎない。しかし、「私が何かを変える」という他動詞的意識を強く働かせるうちに、「私が変わる」という自動詞的行為が導かれる。「私、携帯を変えました」とぼくに伝えた知人、それによって本人がどう変わるのか。熱いまなざしで注目するつもりはないが、変化がどのように生活に波紋を起こしたのか、今度会う時に聞いてみようと思う。「スマホをガラケーに変えた日から、ガラケーで私が変わりました」と言うだろうか。

配置と関係

全体と部分は切っても切れない関係にある。部分の集まりが全体になっている。他方、全体は部分という要素に分けられる。何だか同じことを言っているようだ。切っても切れないけれど、人の能力には限界があるので、全体と部分を同時に勘案することは難しい。どちらか一方を先に考えることになる。全体を見てから部分に入るのか、部分をつぶさに眺めてから目を全体に転じるのか……どちらを優先するかは悩ましい。

キッチンの設計はテーブル単体だけで決まらない。椅子も冷蔵庫も調理台も食器棚も考慮に入れなければならない。そうすると、複数のパラメーターを相手にしなければならなくなる。まずどれかを決め、次に別の何かを決める。こんなふうに一つ一つ固めていっても、パズルが完成するようにバランスのよい全体になる保障はない。部分から入れないのなら、全体を俯瞰して構想することになる。しかし、これもまた経験的に知っている通り、いつまで経っても焦点が絞れず、視線は空虚にあっちへこっちへと向けられるばかりだ。

そこで、ひとまず二つの要素をくっつけて願望をコンセプトにしてみる。たとえば「冷蔵庫を調理台の近くに」という具合に。焦点をパーツに向けた妥協策のように思えるかもしれないが、これは全体のありようを構想していることになる。そのコンセプトと釣り合いが取れるように残りの要素を配置していくのである。


住まいは暮らしの全体である。その主役を何にするかを決めないかぎり、具体的な間仕切りができない。たとえばリビングを中心に考えてみる。リビングにもいろいろなパーツがあるが、とりあえずソファともう一つの要素に焦点を絞る。「テレビ視聴しやすいソファの位置」とか「読書をするのに快適なソファの位置」などのコンセプトが生まれる。ソファと行為の関係がコンセプトの切り口、これが出発点になる。但し、ここから先、ソファの大きさや種類や材質によってさらに位置取りが変わるかもしれない。

人間どうしの関係を読む、看板と店の関係を読む、タイトルと内容の関係を読む、立場と意見の関係を読む……ここから「関係の読み」を基本とした編集作業がおこなわれる。物事を単独で見るよりも、二つ以上の物事を関係づけて捉えるほうが、それぞれがよりいっそう明快になってくる。ただ、先にも書いたように、関係づける対象が増えれば増えるほど混沌とするのが常だ。したがって、まず二つの関係を定義することに注力するのがいい。

モノであれ概念であれ、関係を明快にしなければ物事は始まらない。部屋のレイアウトにしても、自分一人で考える分には明快性は絶対ではない。しかし、要素を編集して誰かに示すということになると、自分が分かることのみならず、他人にも分かってもらわなくてはならない。自分と他者にとって明快になるように工夫しなければならないのである。何かを明快にして理解しようと思えば、そのことをコミュニケーションしてみればいい。うまくコミュニケーションできれば、ある程度分かっているということになる。もともと知識とはこの種のことを意味したはずだ。

全体を一つの概念として伝えれば漠然とするだろう。また、すべての要素をことごとく摘まんだからと言って明快になるわけでもない。分かりやすさには二つの事柄の配置と関係が絡む。一つの概念は別の概念との位置取りと関係によってあぶり出されるのである。

経験という装置

その場その瞬間、ある刺激に反応して経験を刻印する。その積み重ねによって新しい環境や状況に活用可能な固有の経験の体系が形成されていく。

経験を刻印する前提に、諸々の他者、事物、状況から成る環境への反応と適応が求められる。安穏と時の過ぎゆくままに生活を送り仕事をするのではなく、一人の個性的な人間の生命に関わるものとして経験を「肉化」しなければならない。これが習慣の形成ということであり、そのつどゼロから考えなくても生き延びる暗黙知になりうる。

人間にとって、〈環世界〉の認識装置は通常視聴覚であり読解である。聞き流すのではなく聴き取る、ぼんやり眺めるのではなく観察する、文字面を追うのではなく踏み込んで意味を解読する。ぼくたちは誰もが同じように言語を読み聴きし、現象を見ているのではない。人それぞれに経験の体系があり、それを辞書や受容器のようにして読み聴き、それに照らし合わせながら文脈や場面を通じて類推的に解釈している。環境の中のなじみの薄い情報も、この経験の体系によって搦め取ろうとする。


日本語だから立ち止まって深く考えないが、外国語の学習を想起すればよい。たとえばフランス語の文章を読む時に知らない単語に出くわす。既に知っている単語、文脈、そして知識によってその単語の意味を類推する。それはフランス語であるが、同時に日本語や英語の過去の学習経験を総動員している。文章の解読とは、全経験を装置とした判読の闘いでもある。裏返せば、経験の内にまったく手掛かりがなければ判読は不可能だということだ。

なにげなく読みなにげなく聞くことと、もう二度と出合わないかもしれないという思いで読み聴くことの違いは学びの真剣さの差にとどまらない。前者は単に行為することであるが、後者は経験することである。経験とは環境に適応しようとする生き様にほかならない。

適応力・判断力・認識力は経験の発動頻度におおむね比例する。誰も白紙状態のまま一人で生きることはできない。たとえごくわずかな知識であっても、たとえ狭い参照枠しか持ち合わせなくても、自らの経験の知によることなしに対象を捉えることはできないのである。

「全生物の上に君臨する客観的環境なぞ存在しない。我々は、認識できたものを積み上げて、それぞれに世界を構築しているだけだ」
(日高敏隆)

この認識を〈イリュージョン〉と呼ぶ。認識量が乏しければイリュージョンすらも枯渇し強く歪んでしまうだろう。どんなに多彩な経験を積んでも認識に到らねば、経験は生かされない。そして、経験が認識できたとしても、小窓から世界を覗き見しているようなものであり、もしかすると幻想に近いものかもしれないと覚悟しておく必要がある。

考えることの正体

考えるということは一筋縄ではいかない。考えると口で言うのはたやすいが、もっと考えようとかちょっと考えてみるかといつも言っている割には、それが一体どういうことなのか、実はよく分かっていない。食べること、出掛けること、趣味に励むことについては考えもするだろう。しかし、考えること自体についてしばし立ち止まってゆっくり考えることはめったにない。そこで、反省を兼ねて考えることについて考えてみることにした。正体が暴けるかどうかは分からない。

考えている時に一つ自覚できることがある。ありったけの分かっていることを起動して、分からないことを探ろうとしている点。既知から未知へと心を馳せている。我を忘れるほど考えることなど年に何度もないが、ある種の結論や判断に向けて一心不乱に考えることが稀にある。知っていることを前提にして、知の枠組みの中で参照できるものを見つけようとする。見つかる保障はない。支えとなるのは、先人たちの一見ありそうもないことを考えてどこかに辿り着いた実績である。不足気味の材料を以て、部分の総和以上の照見へと到ろうとする行為がまさに考えるということのようだ。


考えることは言語による未知の探索である。イメージの役割は想像と言えば済む。思考は想像と無縁ではないが、イメージも何もかもを集約した表現の内において、個々のことばの意味を考え、未だ知らざるものを既知や体験から類推していく過程である。これは面倒であるから、ついついさぼってしまう。しかし、冒険的で魅力のあるおこないである。これを放棄しては、人が人としての生き方を叶えるのは望みづらい。

考えることに関して、その機能の輪郭を明らかにする難しさに比べれば、考えないことは分かりやすい。考えないとは脱言語の状態である。言語不在の時でもイメージを浮かべるかもしれないが、それを考えるとは言わない。極論すれば、思考停止とは言語的行為の停止にほかならない。カフェに手ぶらで入るとする。コーヒーを啜りながら一見考えているようであっても、そこにイメージの言語化が起こっていなければ、店を出てから成果がなかったことに気づく。一冊のノートを携えて、イメージを丹念にことばで仮止めしてはじめて、少しは考えたと胸を張れる。

うわべの言語操作をして考えた振りをすることは可能だ。たとえば、ネット上の情報をコピーしたりペーストしたり、場合によってはシェアするのも、ある種の言語操作ではある。だが、そこに言語脳が参加したかどうか振り返ってみればいい。肝心の自分の脳が言語を機能させていなければ、考えていたことにはならない。では、会話をすればどうか。喋ったり聞いたりすれば言語が動き、必然いくばくかの思考も促される。ところが、音声は長く留まらず、やがて揮発する。と言うわけで、後々になっても読み返せるようにと書くことになる。何かについて書いているかぎり、言語は起動している。そして、巧拙の程はともかく、その時、人は考えているのである。

「ある」と「ない」

それは今ここにはないが、他所にはあるかもしれない。ぼくの机の上にカレーライスが盛られた皿は見当たらず、それは「ない」。しかし、カレー店には間違いなく「ある」。もちろん、ここにないことが他のどこかにあることの証にはならない。たとえば、生きた恐竜はここにも他の場所にも存在しない。

「ここにある」と言えても、それはここだけとはかぎらず、別の場所にもあるかもしれない。あるいは、他のどこにもないかもしれない。あるいは、ここになくてもどこかにはあるかもしれない。手元にある水性ボールペンは特注品ではないので、どこにでもあり、必ず誰かがぼくと同じように使っている。しかし、存在するものがこの世にたった一つであるなら、分身しないかぎり、それがここにあれば他には絶対にないと言える。

ぼくの愛用の手帳はここにある。それは市販品ではあるけれど、ぼくにしか記せないことが多々書き込まれている。したがって、ここにあるこの手帳は、今自宅にはないし、出張先で忘れて落し物センターで保管されてもいない。逆に、もし手帳がここにない時、どこかにあるだろうと軽く考えがちだが、ここにないからと言ってどこかにあることにはならない。ちなみに、キーホルダーではない、正真正銘の打ち出の小槌は、今のところここにないし、どこかにあるという話を聞いたこともない。


ここにないならどこかにあるはずと軽はずみに考えてしまう最たるものが幸福だろう。幸福はここにもあれば別のところにもあり、また、ここからもどこからも消え去るかもしれない心的概念である。

九月に入って秋の兆しを感じるようになった。何の変哲もない、一足先に紅く染まった一枚の葉に出くわす。見た目はおそらくどこにでもありそうだ。しかし、ここにしかないと言ってのけることができる。その場所に居合わせてしばらく時間を過ごすことがオンリーワン経験だと思えば、このシーンはここにしかなく、他のどこにもないのだ。

誰かが誰かに「前を向いて歩こう。うつむいていたら何も見えないから」と言って励ました。常套句だが、こんな一言で落ち込んでいた人が元気になるとは想像しにくい。これで元気になれるのなら、落ち込みようは他人が思うほどのひどさではなかったと思われる。ところで、この話と「ある・ない」がかなり似通っていることに気づく。

集中して前を向いて歩いたら、当然後方は見えない。空を見上げたら地面は見づらい。うつむいていたら、確かに前方も上方も見えにくい。当然だ。元々、全方向を見ることは不可能であり、どこかを見ている時は他の方向は見えないものである。しかし、うつむいて歩いていたら地面だけは確実に見える。敢えて言えば、地面だけが見えている時、地面以外の見たくないものを見ずに済ませることができる。会いたくない人と顔を合わさずに済む。

どこかにいれば別のどこかにはいない。何かを懸命に見ていたら別の対象は見にくい。そういう具合にできているのである。「うつむいて歩こう。前を向いていたら前しか見えないから」とも言えてしまうのだ。そして、前や上が後ろや下よりもいい感じに思えるのは、単純な刷り込みにほかならないということを心得ておきたい。

慮りすぎてはいけない

動物世界にはジレンマが生じるような目立った葛藤や自己矛盾はない。合目的的であり合理的である。DNAに組み込まれた習慣的法則に忠実に従えば、万事がうまくいく。食物連鎖の悲劇ですら自然の摂理に適っている。人間のように、その場限りの工夫をいちいち凝らさなくてもいいのである。極論を恐れずに言えば、そういうことになる。

人間どうしが付き合いことばを交わす。後味が悪くならぬほうがいいから、刺々しい言い回しを避ける。婉曲語法を使っても虚偽でなければそれでよい。気遣いもあるだろうから、まったく中身のない社交辞令よりはよほどましである。ぼくのような明け透けにものを言う人間でも、他人に対しては姿勢もことばもまずはやさしくなければいけないと思う。たとえ相手のことに言及する意見が批判めいたとしてもだ。

しかし、このことと、その場その場で相手の心理や立場をおもんぱかりすぎて自分の意見を歪めたりカモフラージュしたりするのは別のことである。自分の意見や考えを述べるに際して、どんな空気にも、そこに居合わせる他人の存在にも、世間の一般論にも左右されることはない。場に臨んで空気や他人や論を過剰に読み取ろうとすれば、自論が変わってしまう。議論し納得した後ならまだしも、意見のやりとりの前に自論を変えるのは情けないし、変えるのなら没個性である。


慮るとはどういうことか。周囲の状況に目配り気配りしてよく考えることである。思慮や配慮、あるいは深謀遠慮や賢慮良識に示される通り、慮ることはよいことだ。しかし、心配りや心遣い、しっかりと考えることも、度を越すと半強制的に空気を読まされるような結果になる。考えすぎたり思いすごしたりするのは「過慮」。賢さを失うと「愚慮」になり、考えれば考えるほど悩んでしまうと「苦慮」になる。いかに慮るかが重要であり、いい具合に慮らねばならないのである。

組織に属するかぎり、組織のコードを弁えねばならない。ルールに則りどのように振る舞うべきかを類推しなければならない。もうこれだけで十分慮っていると言える。その上で、自論を述べればいいのだ。組織のコードで意見を縛ることはない。コードと意見は別物である。ところが、慮りすぎると、暗黙のルールを探し出して先回りするかのように流れに棹差し、空気に染まる。

日本人は概して空気を読むようによく躾けられている。異文化に置かれると、不器用ながらも郷に入っては郷に従おうと振る舞う。そんな強迫観念に苛まれることなどないのだが、勝手にそうなってしまう文化的な刷り込みを侮ってはいけない。皆が皆というつもりはないが、欧米人や中国人らははなから空気を読む気がない。超ド級のKYだ。裏返せば、自論をはっきり言おうと思うのなら、郷の空気やルールを読み解きすぎてはいけないのである。意見を言うのなら慮らねばならない、しかし慮りすぎてもいけない。さじ加減は難しいが、難しいからこそ意見が価値を持つと言うべきだろう。