「ある」と「ない」

それは今ここにはないが、他所にはあるかもしれない。ぼくの机の上にカレーライスが盛られた皿は見当たらず、それは「ない」。しかし、カレー店には間違いなく「ある」。もちろん、ここにないことが他のどこかにあることの証にはならない。たとえば、生きた恐竜はここにも他の場所にも存在しない。

「ここにある」と言えても、それはここだけとはかぎらず、別の場所にもあるかもしれない。あるいは、他のどこにもないかもしれない。あるいは、ここになくてもどこかにはあるかもしれない。手元にある水性ボールペンは特注品ではないので、どこにでもあり、必ず誰かがぼくと同じように使っている。しかし、存在するものがこの世にたった一つであるなら、分身しないかぎり、それがここにあれば他には絶対にないと言える。

ぼくの愛用の手帳はここにある。それは市販品ではあるけれど、ぼくにしか記せないことが多々書き込まれている。したがって、ここにあるこの手帳は、今自宅にはないし、出張先で忘れて落し物センターで保管されてもいない。逆に、もし手帳がここにない時、どこかにあるだろうと軽く考えがちだが、ここにないからと言ってどこかにあることにはならない。ちなみに、キーホルダーではない、正真正銘の打ち出の小槌は、今のところここにないし、どこかにあるという話を聞いたこともない。


ここにないならどこかにあるはずと軽はずみに考えてしまう最たるものが幸福だろう。幸福はここにもあれば別のところにもあり、また、ここからもどこからも消え去るかもしれない心的概念である。

九月に入って秋の兆しを感じるようになった。何の変哲もない、一足先に紅く染まった一枚の葉に出くわす。見た目はおそらくどこにでもありそうだ。しかし、ここにしかないと言ってのけることができる。その場所に居合わせてしばらく時間を過ごすことがオンリーワン経験だと思えば、このシーンはここにしかなく、他のどこにもないのだ。

誰かが誰かに「前を向いて歩こう。うつむいていたら何も見えないから」と言って励ました。常套句だが、こんな一言で落ち込んでいた人が元気になるとは想像しにくい。これで元気になれるのなら、落ち込みようは他人が思うほどのひどさではなかったと思われる。ところで、この話と「ある・ない」がかなり似通っていることに気づく。

集中して前を向いて歩いたら、当然後方は見えない。空を見上げたら地面は見づらい。うつむいていたら、確かに前方も上方も見えにくい。当然だ。元々、全方向を見ることは不可能であり、どこかを見ている時は他の方向は見えないものである。しかし、うつむいて歩いていたら地面だけは確実に見える。敢えて言えば、地面だけが見えている時、地面以外の見たくないものを見ずに済ませることができる。会いたくない人と顔を合わさずに済む。

どこかにいれば別のどこかにはいない。何かを懸命に見ていたら別の対象は見にくい。そういう具合にできているのである。「うつむいて歩こう。前を向いていたら前しか見えないから」とも言えてしまうのだ。そして、前や上が後ろや下よりもいい感じに思えるのは、単純な刷り込みにほかならないということを心得ておきたい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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