普通のことを普通に毎日おこなうのが〈日常〉。何か特別な晴れがましい行為をするわけでもない。日常茶飯事や日常会話ということばに特段の意味や珍しさはない。そんな日常なのに、〈非日常〉と対比して捉えてみると、それが繰り返されることにある種の不思議を感じてしまう。
日常は文字通り「常」であり、普段の状態だ。たとえば日常を日記にしたためるなら、朝七時に起きた、トイレに行った、朝飯を食べて出掛けた、いつもと変わらぬ仕事をした……というような私小説的な事情を連ねることになるだろう。特筆すべきことは何もない。通常の生き方、あり方、おこない方を標準モードとして、人はありふれた日々を過ごす。日々はありふれた体裁と様子を繰り返しながら過ぎてゆく。
日常性とは、際立った変化が認められない、淡々とした暮らしぶり仕事ぶり、ひいては生き様である。柳田國男を引き合いに出すまでもなく、日常が〈ケ〉、非日常が〈ハレ〉とはよく言われること。いずれも時間に関わる生活世界の概念である。ケは「褻」と書く。日常生活のことだ。歳時記的な行事や冠婚葬祭の「晴」と対比される。
ハレの対極に位置する、そんな日常のことを言い表わすのが「日日是好日」である。毎日同じようでも、日常は新たに生まれ、今日という日には、昨日とは違う好い日の趣が漂う。毎日同じ用品を使い、毎日同じ備品に囲まれて、気の遠くなるようなマンネリズムと折り合って暮らしていく。
今を――今のみを――生きることを日常と呼ぶならば、日常は過去を嘆いたり未来に逃げたりするよりも真剣に生に向き合っている。気づきにくいけれど、日常とはたぶん凄い力に満ちているのだ。だから、日常的であることを生活から消し去ってはいけないのだろう。めったにやって来ない非日常的な奇跡や感動ばかり夢見て、日常をおろそかに生きるわけにはいかないのである。