他人の「感覚」はわかるのか?

言語は思いを正確に・・・他者に伝えてくれているかなどと考えていたら、書いたり話したりできなくなる。だいたい通じ合えていると呑気に構えているから、「おいしい」とか「うれしい」とか「痛い」で済ませている。感覚がどの程度伝わっているのかはわかりえない。実は、これは哲学が扱う重要なテーマにもなっている。

先日のこと。クリニックで帯状疱疹の予防接種をすすめられた。とりあえずパンフレットだけもらった。表紙には「痛みは徐々に増していき、夜も眠れないほど激しい場合もあります」と書いてある。夜も眠れないほどの激しい痛みはかなりきついと思うが、具体的にどんな痛みかはっきりしない。チクチクと刺す痛み、ズキズキと脈打つ痛み、シクシクと鈍く繰り返す痛みなどと言ってみても、ことばと感覚はイコールではない。

もう10年以上も前のこと。帯状疱疹で苦しむ父親に付き添って病院に行ったことがある。同居でなかったから詳しいことはわからないので、医者の問診に耳を傾けるばかりだった。

医師 「痛みますか?」
父  「(力なく)痛い……です」
医師 「どんな痛みですか?」
父  「(ことばをまさぐっている様子)……」
医師 「たとえばナイフで刺されたような感じはないですか?」
父  「(その感じを想像している様子)……」
医師 「雷に打たれたような感じですか?」
父  「(首を傾げる)……」

痛みのニュアンスはことばにしづらい。「痛みは孤独な感覚」というヴィトゲンシュタインの話を思い出した。「先生、うちの父親はナイフで刺されたことも雷に打たれたこともないんですけど……」と言いかけたが、やめた。自分が医師でもオノマトペを使って、「どんなふうに痛みますか? ピリピリ、ズキズキ、チクチク、ジーンジーン、キリキリ……?」と聞くのが精一杯に違いない。

言語と感覚は大雑把にシェアできるが、精度の程はわからない。多様な感覚を表現できるほどの語彙がないし、仮に表現できたとしても、相手に伝わる保証はない。痛みだけでない。酒の味なども微妙に違うが、言い得るのは「うまい」「辛口」「甘口」「のど越しがいい」「つまみに合う」「沁みる」……せいぜいこんな程度ではないか。

未経験でも想像で答えることはできるが、痛みに苦しんでいる老人に冷静に分析させようとするのは酷である。この医者はとてもいい人だった。この人をあざ笑うことはできない。けれども、言語の限界で苦悶したとしても、それでもやっぱりその限界に挑戦してみるしかない。その結果、適材適所の言い回しを思いつくかもしれない。これまで目玉が飛び出したことは一度もないが、「目玉が飛び出るほどの激辛げきから」がよくわかるのは、工夫のある感覚言語だからに違いない。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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