つかみとオチの現実性

たとえまじめなテーマの講演でも、聴きに来る人は講演者のキャラクターに応じて笑える場面を期待する。かつてぼくは全国区であったが、今は主として西日本。講演や研修の半数は関西を中心におこなっている。ぼくを知る聴衆が多い大阪の講演会では、特に「つかみとオチ」にユーモアを期待される。意外かもしれないが、「おもしろい講師」というのがぼくの評判なのである。

話すべきことを話し終え、時間が迫ってくれば簡単な締めの一言で結ぶ。ある講演会でのこと。ふつうに講演を終えた後に勉強会の親しいメンバーがやって来て、「先生、今日の話にオチはなかったですね」と言われたことがある。「きみ、毎度毎度オチを考えているわけでもないよ。オチは勝手につくこともある。でも、そう易々とオチは生まれないからね」と答えておいた。

落語にオチはつきものだ。効果的にしゃれたことばで話を締めくくる。「下げ」とも言う。落語ではオチは仕組まれている。ぼくは落語家ではないから、オチを仕込むわけではない。その日の話の成り行きでオチがうまくつくこともある。きちんとしたストーリーを丸暗記して講演しているのではなく、テーマとコンテンツを盛り込みながらも、ほぼアドリブで話すから計算などほとんどしていないのである。


オチに比べたら、冒頭で勝負が決まるつかみのほうが仕込みやすい。その日の聴衆のことを少し意識すれば可能である。いずれにせよ、話をせよと招かれたのであるから、ぼくには主題がある。つかみやオチが輝いて主題が精細を欠けば本末転倒だ。つかみやオチのことばかり考えるのは「よそ見」に等しい。裏返せば、つかみやオチは意識して創作する類のものなのである。しかし、作意が見え透いてしまうと不自然になる。そうなるくらいなら、当たり外れがあっても臨機応変につかみとオチが生まれるほうがいい。繰り返すが、噺家ではないから、起承転結の「起」でつかみ「結」でオチをつけるノルマはぼくにはない。

夢

ぼくのことはさておき、一般的には現実世界で何かを語るには作意が欠かせない。現実に比べたら、夢の世界は唐突である。つかみもオチもない。いきなり不自然に始まり不自然に終わる。脈絡はない。計算もない。起承転結などデタラメである。だからこそ、夢には現実にないおもしろみや意外性があるのだろう。

現実には始まりの合図があり、終わりの区切りがある。講演でも会合でも式次第がある。どんなにカジュアルなセミナーと言えども、いま始まった、いま終わったということがわかる。劈頭へきとう掉尾ちょうびを飾る挨拶はたいてい退屈なものと相場が決まっている。

つかみもオチもなく、テーマはあって無きがごとし、意表をつく断片の話のコラージュ、寄り道あり脱線あり、それでも聴き終わったら、ガツンと衝撃があって脳裡に焼きつく。夢を見ているかのように錯覚させるような講演をしてみたいと目論んでいる。かなりいい歳だからそれも許されるはず。しかし、無秩序な夢物語でさえ、現実的に構成しなければならないことに気づきもしている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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