対話のための条件

昨夜『対話からのプレゼント』と題して文章を書いた。但し、ただでプレゼントにあずかろうとするのは勝手が過ぎる。プレゼントを貰おうと思えば、それなりの条件を満たさねばならないのだ。対話を「論争」という激しい表現に変えても同じこと。少なくとも意見を異にする二者が何事かについて賛否を交えるためには、いくつかの条件が揃う必要がある。

見解の相違は人間社会の常態である。満場一致やコンセンサスのほうに無理や不自然さを感じる。十人十色とは言い得て妙で、人の意見は同じであるよりも異なっていることのほうが常。同種意見で成り立つ同質性の高い集団は脆弱であり、異種意見を容認できる異質性の高い集団は柔軟にして変化に強い。もちろん例外もあるが、安易に意見を同じくしようとする努力の前に、双方の異種意見に耳を傾けて大いに議論を戦わせるべきだろう。ぼくたちの風土は、反論や批判にあまりにも弱すぎる。

二十代の頃によく対談集を読んだ。わが国で出版される対談集のほとんどは、座談会形式によって編み出される。めったに挑発的なくだりに出くわさないし、スリリングな論争も見受けない。対談する両者の仲が良すぎるのである。もっとも、仲が良いから是非の対話ができないわけではない。仲が良いからこそ、激論しながら「親しき仲にも礼儀あり」を尊べるとも言える。逆に、見も知らずの相手になると、無難な会話で済ますか、あるいは一触即発の交渉的論争になってしまう可能性が高くなる。


さて、本題。ある命題を巡って主張し反論する対話やディベートにおいて、否定は不可欠な条件である。しかし、通りすがりに誰かを殴りつけるように否定できるわけではない。否定や反論は「何か」に対しておこなわれる。その何かがなければ否定や反論に出番はないのだ。その何かとは、いずれか一方による最初の意見である。サーブがなければ打ち返せない。先手に最初の一手を指してもらわねば、後手はいかんともしがたいのである。

まず、いずれか一方が基調となる意見を述べる。ディベートでは、肯定側による論題支持がこれに当たる。わかりやすさのために一例を挙げる。テーマは「和食の後は日本茶にかぎる」。

「ぼくは和食の後は日本茶にかぎると思うね」と一方が意見を述べる。対話術の訓練を積んだ人間は、この意見に続いて必ず理由を述べるし、必要ならば事例や権威を引く。しかし、相当な知識人でも、対話に親しんでいない者はぽつんと一行語っておしまいだ。この意見に対して、ぼくの常識・経験センサーが反応して「意見の異種性」を検知する。けれども、論拠も証拠もない主張だから、「いや、和食の後は日本茶とはかぎらないだろう」という否定で十分。わざわざ紅茶でもコーヒーでもいいなどとこちらから証明することはない。

もうこれで勝負ありなのだ。そう、後手(ディベートの否定側)の勝ち。後手(否定側)は、先手(肯定側)の説明の程度にお付き合いすればいいのである。このように、端緒を開く側が対話成立の第一条件を満たさねばならない。質も議論の領域も方向性もすべて、この第一条件によって決まる。「和食の後は日本茶にかぎる」という主張を支える理由を示すという条件である。否定する側は、命題を否定するのではなく、この理由に反論するのだ。理由を崩すことができれば主張が揺らぐ。

最初に主張する者(肯定側)の負担は大きいということがわかるだろう。「主張する者が立証の責任を負う」と言われる所以だ。反論する側は立証されもしていない主張を崩すことはできない。そこに何もなければ否定はできないのである。初級教育ディベートでは肯定側を大目に見ることがあるが、限度がある。「和食の後は日本茶にかぎる」と言いながら、烏龍茶の話ばかりしていたら命題に充当した議論になっていない。これでは救いようがない。

すぐれた主張がすぐれた反論を生み、それがすぐれた再反論をもたらし、ひいてはすぐれた意見交換と啓発の機会をもたらす。すぐれた対話術ディアレクティケーへの道はひとえに最初の話者が鍵を握っている。対話やディベートの初心者はここを目指さなければ上達は望めない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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