様々な考えよう

考え方次第で物事がどうにでも解釈できることを「ものは考えよう」という。考えよう一つで良く見えたり悪く見えたり、また、楽観的に思えたり悲観的に思えたりする。

様々な「考えよう」があるが、ひとまず、〈深浅しんせん〉について考えてみた。昔も今も「考えが浅い」のは良くないから、「浅く考える」はいきなり論外か。いや、それがそうとも言い切れないのだ。「深く考える」にしてもいいことづくめではない。こんな泥沼に入るのがわかっていたら、深く考えることなどなかった、もっと浅いところでやめておけばよかった、という場合もある。

何かをわかろうとして深く考えても不十分なことがある。浅く考えることが時には必要になる。何かがわかるために深海的思考と浅瀬的思考の両方がある。優劣比較ができるものでもなく、また浅く考えた次に深く考える段階があるのでもない。「きみの考えは浅いから、もっと深く考えるべきだ」というのは道徳論にすぎない。

深い考えのほうが浅い考えよりも良く見えるのは多分に偏見である。余談になるが、論理的思考と直感的思考にも偏見がある。論理的思考は直感的思考の上位ではない。それどころか、直感によって論理の硬直性から解放されることがある。


広く考えると狭く考えるにも同じことが言える。どちらが優れた考えようか? という問いに答えはない。常識的には広いほうが狭いよりもいいようだが、そう言われ続けてきたからそう思ってしまうだけ。思考は土地の面積の〈広狭こうきょう〉と同じように扱えるものではない。

通常は、深さと狭さがセットになり、浅さと広さがセットになる。専門性が行き過ぎて周囲が見えなくなる時、「広く浅く考えること」が推奨される。どうやら〈深〉と〈浅〉も〈広〉と〈狭〉も、どちらか一方の考えようでうまく行かない時に、補完的な役割を担うようである。

かつてある企画の仕事中、脇目もふらずにもっともっと深く考えようとして谷底で動けなくなった。諦めて這い上がってしばらくした頃、エドガー・アラン・ポーの「熟考とは(必ずしも)深さではなく、見晴らしの良さである」という意味の一文に出合った。それで救われたし、その後の企画の拠り所にもなった。考えようの基本に〈深浅広狭〉がある。

牡蠣食気考

先月、すでに旬が終わった。それなのに、今頃になって『牡蠣食気考』と題して、食べ足りなかった牡蠣の話をするとは未練がましい。

牡蠣食気考は「かき/くいけ/こう」と読めるが、ついでに語呂よく「かきくけこ」と収めたい。何でもかんでも好き嫌いせずに食べる気満々、牡蠣ならなおさらのこと、一目散で食い気に走る。

牡蠣の季節が始まる晩秋になると、いつも「昨年はあまり食べた記憶がない。今シーズンは食べるぞ!」と決意し宣言する。その割には年内と1月はせいぜい一、二食程度で、あまりガツガツしない。プランクトンが豊富になる2月から牡蠣はいっそうおいしくなる。牡蠣の旬を2月初旬から3月中旬に定めて集中摂取するのだ。しかし、牡蠣と同等においしい食材に恵まれる年は牡蠣を食べ損ねてしまい、気がつけば季節は春になっている。

ぼくの集中摂取などせいぜい1ダース、たかが知れている。中世フランスのアンリ4世は一度に20ダース食べたという。ローマ時代の軍人アルビヌスはその倍の500個を食した。これで驚いてはいけない。そんな数は可愛いもの。同じくローマ時代の大食漢ヴィテリウス帝は一度に100ダース、なんと1,200個の生牡蠣を平らげたという記録を残している。

カキフライ20個は無理でも、レモンを絞るか塩でつるりと味わえる生牡蠣なら20個はいけそうだ。

「サカナは外国人と日本人では食べ方が異なるが、牡蠣だけは万国共通で生を食べる。大げさのようだが全世界の人々が牡蠣の旨さを知っているからだろう」
(岩満重孝『百魚歳時記』)。

広い世界、広い日本に有数の牡蠣の産地がある。牡蠣はどこの産地が一番うまいかなどと論じても意味がない。牡蠣について言えば、旬がうまいと言えば事足りる。あとは人それぞれの好みだ。地元の人たちは地場がうまいと思っている。日本の生牡蠣はおおむね実入りがよく厚みがあるが、パリで何度か食べた生牡蠣は薄っぺらい。それが彼らの舌に合うし、口に入れてみればわかるが、生食にもってこいの味とサイズなのだ。

パリはバスティーユのマルシェ(2011年11月中旬)。牡蠣1個1.6ユーロと書いてある。当時は円高で1ユーロ105円だった。1個168円くらい。

フランスではカキフライという食べ方をしない。ほぼオイスターレモンである。機会損失だと思うが、生牡蠣で十分なのだろう。しかし、牡蠣は食材として万能。焼いたりグラタンにしたり蒸したり刺身にしたりと、あの手この手で料理を工夫すれば、巨漢の大食いヴィテリウス帝には及ばなくても、2ダースくらいなら問題ない。終わりに、自作の牡蠣料理のいくつかを紹介しておく。

オリーブオイルで煮た牡蠣のコンフィ。
殻付き牡蠣のポン酢。
加熱用牡蠣のニンニクとトウガラシのマリネ。パスタに使う。
実入りのいい牡蠣めし。

㊗「四月、春になった」

🌿 四月、春になった。桜が咲き始めてもまだ春とは呼ばない。満開を経て散り始めた時からが春本番だ。気象庁の開花宣言に倣って、今朝、春本番宣言をしておいた。

🌿 集合住宅のわが家には庭がない。芝生もないので、隣の芝生が青く見えることはない。しかし、新メニューが出る春のレストランでは隣りのテーブルの誰かが注文した料理がおいしそうに見え、「あれにしておけばよかった」と後悔するのが常である。

🌿 陽射しが快い。都会の日時計が午前10時半を示していた。腕時計と若干誤差があるが、日時計の鷹揚な時の刻み方にクオリティ・オブ・ライフを思う。「だいたい」とか「~頃」とか「およそ」とかは人間的である。

🌿 春は役割を終えたノートが新しいノートにバトンタッチする。おろしたてのノートの最初のページにペンを走らせるのは、なぜあれほど快いのだろう。約半世紀にわたってノートを愛用し、断続的にシステム手帳を併用して、何もかもそこに一元化して書き込み綴じてきた。「いったい何を書いているんですか?」とよく聞かれる。「いいネタとくだらないネタを半分ずつ」と答える。

🌿 何かを食べ、あるいは何かを見て、ついついいろんなことを連想して、ついでに蘊蓄ウンチクを傾ける。蘊蓄よりも意味あることがいくらでもあることくらい重々承知している。「また蘊蓄?」などと嫌味っぽくも言われる。それでも、やっぱり蘊蓄がいるのだ。蘊蓄しなければ物事の重要性のありかに気づかないのである。

🌿 四月は新年度のスタート。「新しい」とは「よく知らない」ことでもある。よく知らないならよく知っている人に聞くのがいい。ぼくもよく聞かれるので、推薦する。一つに絞るのが難しければ「一推しイチオシ」を筆頭にいくつか挙げる。二番目を「二推しニオシ」と言うのを最近知った。まさか「三推しサンオシ」とは言わないだろうと思ったが、それも言うらしい。今のところヨンオシの用例は見つかっていない。

続々・反知性主義に処する道

知性を重んじるか、または反知性に与するかは個人によって異なる。それで何ら問題はない。厄介なのは知性や反知性にくっつく「主義」のほうだ。『新明解』は主義を「自らの生活を律する一貫した考え方と、それによって裏付けられた行動上の方針」と定義している。日和見ではなく付和雷同でもないから、とても誇らしく見える。

 

しかし、行動上の方針が自らの生活にとどまっているうちはいいが、勢い余って「他人の生活」まで律するようになると、一貫した考え方が「多様性の拒絶」に化けかねない。主義とは、ある意味で一途いちずに思い詰めることであるから、自分が信じること以外に目を向けなくなる危うさが漂う。

主義が危ういのだから、知性主義も反知性主義も危うい。主義は知に合わない。知性が批判を浴びるのは、主義に拘泥するあまり他の感覚・資質に譲歩しないからである。鼻持ちならない権威や窓外に別の世界を見ない研究室エリートが批判対象になるのもやむをえない。反知性の苛立ちにも一理あるが、主義を旗印にするかぎり彼らの批判精神も功を奏さない。


知識と証拠を踏まえて「お前はバカだ!」と主張するのが知性主義だとすれば、「バカをバカ呼ばわりするほうがバカだ、バーカ!」と、プリミティブな幼児感覚で反論するのが反知性主義。五十歩百歩である。論争が聖域なき口論になると、知性は反知性に吸収される可能性が高くなる。ドナルド・トランプの言動は多くの支持者にとって、反知性主義の原風景なのだろう。偉大なアメリカという幻想的ノスタルジーが直感的に掻き立てられるのだ。

自分を顧みると、いつも知性と反知性の間を行き来していることに気づく。おおむね理性的に考え、ものを言い、行動しているつもりだが、知を基軸にせずに判断している場面も少なくない。知性と反知性は優劣の天秤で量れない。主義として対立している間は低レベルの互角と言うしかない。いずれが「良識」に適っているかによって判断するしかない。良識こそが共通感覚であり共通言語である。そこから逸脱していないほうに共感を覚える。但し、繰り返しになるが、良識を持ち出してもなお、優劣の決着がつくとは思えないが……。

〈終〉

続・反知性主義に処する道

「(啓蒙とは)人間が自分の未成年状態から抜け出ること」(イマヌエル・カント)

成人であるにもかかわらず、未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、とカントは言う。いいおとながいつまでも幼稚なのは、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているからにほかならない。

「(米国の反知性主義とは)知的な生き方およびそれを実践する人々に対する憤りと疑惑である。そして、そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である」(ホーフスタッター)

知的な生き方は一部の人たちにとってわかりにくいのかもしれない。あるいは、面倒臭そうに見えるのかもしれない。たしかに、知的な生き方を理解するにはある程度の知性が求められる。それに比べると、反知性主義者の言うことや行動はわかりやすい。

「メキシコとの国境に壁を作れ!」(ドナルド・トランプ)

反知性主義者は良識からズレた発想をする。しかし、ある意味でユニークな発想と言えるかもしれない。国境に壁を作るとか連邦議会を襲撃するとか、良識に随う知者ではなかなか思いつかないアイデアだ。


反知性主義には明けても暮れても同じことを繰り返す傾向が見られる。繰り返しと継続は力の源である。多様性の時代なのに、持ち合わせのワンパターンな知識で間に合わせてしまう。一般的には、知識や教養は自分のためのみならず、社会にある程度適用するために身につけるものだと考えるが、反知性主義はそのように生きようとする善良な人々を気取ったインテリと見なして先制攻撃を仕掛けてくる。

かつては知性主義だった反知性主義者がかなりいる。知的に振舞うのが面倒臭くなった者たちである。別に考える力が衰えたわけではない。むしろ、カント言うところの「脱理性で未成年状態に入る」ほうが楽だから転向・・したのだろう。

スポーツマンが肉体を鍛えるのをサボれないように、知的生活者は知識を身につけ理性的に考えるなど、知を鍛えることを怠れない。しかし、知的スタミナが切れてきて、知的鍛錬への執念は薄れてくる。それでも、自分が反知性化しつつあることに気づかない。特にシニアの場合、「おい、難しい話はやめようぜ」と「読書が億劫になった」が反知性化の兆候だ。

進展性のないパターン化と陳腐化、同じことを繰り返す神経、型通りな道徳論、こうすれば他人は喜ぶだろうという独りよがりな固定観念……。よく考えてみると、反知性はイデオロギーとは無関係の、日常にも潜む。身近に何人かいるはず。気づいていない本人に注意を促してあげたいが、切り出し方が難しい。

反知性主義がダメで知性主義がいいと言っているのではない。昨日書いたように、反知性主義の対立軸は「良識」である。反知性主義を唱えるすべての人が知性を欠いているわけではないが、ほぼすべての人が良識に問題を抱えている。

〈続く〉

反知性主義に処する道

知的権威やエリート主義に対して〈反知性主義〉は懐疑的な立場をとる。事実やデータや証拠を重視せず、理性的であるよりはプリミティブな感覚的判断を優先する。わかりやすく言えば、権威やエリートとは生理的に合わず、とにかくムカついてしかたがないのである。

知的な生き方に文句を言われる筋合いはない。それが個人的な実践であるならなおさらだ。知性は憎まれる対象にはならないし、反知性主義者にしてもいちいち個人の知性にいちゃもんをつけているわけではない。彼らが目のかたきにするのは知的な生き方やそれを実践する知性ではない。〈知性主義〉という鼻持ちならないイデオロギーが気に食わないのである。

自分の周囲の目につくところに知性主義が目立つから、それに苛立って反知性主義が対立する。反知性主義を無知だ、幼稚だと批判するのはたやすいが、その前に行き過ぎた知性主義――愚か者と決めつけた人々に対する優越意識やエリート意識――にも反省を加えてみる必要がある。他人をバカ呼ばわりしていては折り合いのつけどころは見つからない。

ともあれ、反知性主義もまた、少々厄介なイデオロギーになった。これに対して、知性主義が逆襲してもなかなか「試合」にならない。知性主義が事実やデータや証拠で反論しても功を奏さない。なぜなら、反知性主義にとっては他人の事実やデータや証拠はことごとくフェイクに見えるからだ。議論しても接合しないし論点は嚙み合わない。論争して通じ合える共通言語が見当たらない。

知性に対する反知性、その反知性に対する知性という構図では堂々巡りの言い合いに終わる。知性主義はじっと我慢して主義を捨て、新たな対義語を編み出す必要がある。たとえば「良識」がそれ。知性主義の復権などといきり立たずに、「反知性 vs 良識」というような対立軸によってひとまず反知性主義を軽くいなしてみるべきではないか。

〈続く〉

シェアは功罪相半ばする

「シェア」について考えてみた。

SNSを使えば、自分や他人が別のメディアで投稿した記事や写真をそのまま・・・・シェアすることができる。ぼくは、自分が書いているこのブログの記事をFacebookでシェアしている。ここにアクセスしなくても、読みたい人は自分が慣れた「場」に居ながらにして記事が読める。発信者にも受信者にもメリットがある。

シェアするに値する情報とそうでない情報がある。誰が見ても常識的で共感しやすい記事がよくシェアされる。逆に、批判したり反論したりするために記事を自分の場に転載する場合もある。シェアする人がシェアに値すると考えた意味や何がしかのコメントを入れるのが望ましいが、ほとんどの場合、転載だけして知らん顔、何かあっても責任を負わない人だらけだ。

おそらく価値ある情報だと判断するからシェアするのだろう。他人にも知らせたいという動機、お節介、親切心によってシェアが成り立っている。しかし、共感したので適当にシェアしただけという説明で済む話ではない。出所を示さず、自分の所見も明かさずにコピペだけしていては「剽窃ひょうせつ」と寸分変わらない。

「料理(やケーキ)をシェアして食べる」などの用例では、シェアは「分配」という意味になる。厳密に言えば、食べ物を不公平がないように均等に分配するのは難しい。小うるさいのがいれば「そっちの方が大きいぞ」と言い出しかねない。そうならないように、ケーキなどは、たとえば3切れにカットした者があとの二人に選ばせて平等を期すやり方が生まれた。みんなが「どうぞどうぞ」と相手に勧めていれば良好なシェア関係が保てる。

空間もシェアできるからシェアハウスが生まれたし、ルームをシェアするという言い方をするようになった。この場合は「共有」という意味になる。しかし、食べ物と違って、施設や道具が絡んでくると、単純に面積を等分するだけでは済まなくなる。さらに、金額、時間、役割などの基準が入ってくると、相互理解や協調が求められるようになる。共有は一筋縄ではいかないので、いちいち面倒な取り決めを余儀なくされる。

なお、シェアにはもう一つ別の意味がある。マーケットシェアという時のシェアがそれ。すなわち、市場占有・・率である。共有と占有はまったく別物なのだが、一つ間違うと共有のつもりが占有になってしまう。みんなで仲良く公園で遊ぼうね、と言い合ったはずなのに、ブランコをなかなか替わってくれない子が出てくるのだ。

今という時代、時代という今

辞書で「時代」を引いたことは一度もない。よく知っているからである。ほんとうによく知っているか、それとも知っているつもりなのか、自己検証するために『新明解国語辞典』を引いてみた。

「移り変わる時の流れの中である特徴を持つものとして、前後から区切られた、まとまった長い年月」

こんなふうに説明はできないが、だいたいそんな感じだとわかっている。但し、ちょっと物足りない。あることばの意味を何となく知ろうと思えば、そのことばを使って文を作ってみればいい。いくつか作ってみた。

・AI時代の到来が告げられ、IT時代の印象が古めかしくなった。
・西部劇に古き良き時代のアメリカを感じる人たちがいる。
・時代の流れには、逆行するのではなく、身を任せるのが無難だ。
・時代がどう変わったのかよくわからないが、新しい時代を迎えつつあると思う。

昔の時代もあるが今の時代もあり、古い時代もあるが新しい時代もあることを最後の一文で気づく。以前、『時代劇の「時代」は何を指す?」とチコちゃんが出題した。ゲストが何と答えたか忘れたが、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られていた。チコちゃんは正解を知っていたが、実はぼくも知っていた。この問いに関するかぎり、「つまんねぇやつ」である。

ぼくが子どもの頃、大人たちは当時の流行や風俗や若い世代の生き方を見て「時代・・だなあ」とつぶやいていた。ここでの時代は明らかに「新しい」というニュアンスを帯びている。出題された『時代劇の「時代」』も元々は新しい時代を切り拓くという文脈で使われた。

時代に昔の意味を込めようとする時は、平安時代とか室町時代とか江戸時代というふうに固有名詞をくっつけたのではないか。少年時代や青年時代と言うと昔を懐かしがっている感じがする。他方、単に時代と言えば、そこに「今」という意味がともなう。

中島みゆきのこの歌はずばり『時代』であり、修飾語をまとわない。歌詞一行に一枚の絵で構成された本を古本屋で見つけた。

あんな時代もあったねと」は振り返り。「まわるまわるよ時代は回る」と「めぐるめぐるよ時代は巡る」は時代のリメークと繰り返し。時代は錆びついた日々の面影ではない。古びた懐かしい過去の記憶ではない。今という時代、時代としての今を皮肉っぽく揶揄するばかりが能ではない。幸いなるかな、最前線で時代を迎える我々。

虚心坦懐のこと

一たび勝たんとするに急なる、たちまち頭熱し胸踊り、措置かへつて顚倒てんとうし、進退度を失するのうれいを免れることは出来ない。もし或はのがれて防禦ぼうぎょの地位に立たんと欲す、忽ち退縮たいしゅくの気を生じ来たりて相手に乗ぜられる。こと、大小となくこの規則に支配せらるのだ。

二十代半ばで読んだ『氷川清話』(勝海舟)の一節である。元々は剣術の話だったと記憶している。勝とう勝とうと焦るとうまくいかず、かと言って、守ろう守ろうとすると消極的になり相手に付け込まれる。たいていのことに当てはまるが、論争や議論をしている時の心理がほぼこの通りに作用した経験がある。

じたばたもせず、またぐずぐずもせず、どんな状況にあっても、まずは自力を用いるしかない。己の自力(または地力)がどの程度かよく心得て、それ以上の力に期待しないよう腹を据えておく。望外の力が出たら「まぐれ」だと思いなす。同書で「虚心坦懐」という熟語の意味を正しく知り、その後長く座右の銘としていた。

虚心も坦懐も、つまるところ、素直で平穏な、こだわりもなくわだかまりもない状態である。しかし、こういう心の持ちようが一番難しい。虚心坦懐と口にする時は、はしゃいだり騒いだりしてはいけない。残念なことに、JK元首相が大声で「虚心坦懐!」と張り上げるのをテレビで見、しかも座右の銘にしていたのを知って以来、使わなくなった。

虚心坦懐が陳腐なことばに聞こえそうなので、まず声に出さなくなった。書くこともなくなったが、今日は久しぶりに書いてみた。一時的に座右の銘にしていたほどだから、消しゴム篆刻もした。落款として年賀状で使ったことがある。スキャンした印影データが残っていた。彫ったハンコの行方は不明である消しゴムとして使った覚えがないので、きっとどこかにあるはず。

悩ましい選択

知り合いにネクタイを扱う卸商がいた。買いに行けば次から次へと何百本もの商品を見せてくれた。最初は豊富な品揃えにワクワクしたが、何度か通ったり持ってきてもらったりするうちに疲れてきた。多すぎて選ぶのに時間がかかって面倒になり、すべてを品定めすることもしなくなり、適当に数本買うようになった。

年に数回、スーツをセミオーダーしていた店があった。なじみになってからしばらくしてネクタイを販売し始めた。出来上がったスーツを受け取るたびに、新しいネクタイも選ぶようになった。ベテランの店長がスーツに合うネクタイを何本か選んでくれる。店が扱うネクタイはせいぜい50本ほど。しかし、その中にいつも気に入るのが23本あった。

意思決定を悩まずに迅速にしようと思えば、選択肢は多いよりも少なめのほうがいい。良く行く中華料理店のランチはABC3種のみ。選びやすい。その近くの魚がメインの和食屋はランチの定食は一種類のみ。悩むことはないだろうが、選択権もない。その近くに定食屋があり、メニューが和洋20くらいある。メニュー板には写真入りで全ランチが紹介されているが、一度も入ったことがない。無事に選べるような気がしないのだ。


選択肢が多いと、スポーツのリーグ戦やトーナメントのように甲乙を付けていく選抜のしかたになる。チーム数が8なら、総当たり試合数は28、トーナメントだと7になる。スーツにしてもネクタイにしても、また食事のメニューにしても、選ぼうとする対象どうしを戦わせているようなものだ。マメにやっていると時間がかかる。

「お客さま、デザートはいかがされますか?」
「お願いします。何がありますか?」
「パンナコッタとベリーソース、ラズベリームースと赤すぐリのソース、クリームチーズムースとストロベリー、ホワイトチョコレートムースとストロベリー、ストロベリーのミルフィーユ、ストロベリーとルバーブのムースケーキ、ストロベリーとレモンのムースケーキ、ティラミスからお選びいただけます」
「ストロベリーフェア? すみません、もう一度お願いします」

選択肢はもっと狭めてもらっていい。「お客さま、デザートはストロベリーショートケーキかティラミスになります」なら話は早い。多選択肢よりも選びやすい。但し、稀に好みが拮抗して、悩みに悩んで選びづらくなることもある。その時は注文しなければいい。どうしても食べたいのなら、二択だから両方注文してしまえば済む。