「誰それを知っている」

縁と人と関係について書こうと思う。

大学の先輩筋にあたる人だが、初対面の時に、自分の紹介よりも先に「誰それを知っている」ことを強調した。ぼくはまだ40歳になる前で、仕事のために縁を求めようといろんな人に会っていた頃だ。「誰それを知っている」と言うその先輩を頼もしく感じたのを覚えている。誰それを知っていると誰それを知らないとの差が大きいことはよく承知している。

知識や経験にもモノにも縁が生まれる。知識があるとか経験を積んでいるとか、店の名、商品の名、本のタイトルなど、「何々を知っている」という縁にも期待を寄せがちだ。ブラフと紙一重の縁もあるが……。

人との縁は求めて叶うものでもないし、欲張って結ぶものでもないことはすぐにわかった。それでも、縁は異なものであり神妙に響くし、他の類語では言い換えしづらい。「コネ」と言ってしまうと、その異にして神妙なニュアンスが消えてしまう。縁は縁と言うしかない。


縁について考えていくと、人と関係の話に行き着く。人間を「にんげん」と読めば人のこと。人間万事塞翁が馬の諺のように「じんかん」と読めば世間のこと。世間は人々が集まって作る社会。で、その社会とは? と問うと、堂々巡りになってしまう。社会という集合体は、人々と人間関係でできているからだ。

さっきコネと書いたが、コネは“connection”で、縁と同様に人間関係を意味する。誰かと誰かが繋がるのが関係。関係は多義語だが、繋がり方次第では時に怪しげにもなる。たとえば「関係がある」や「親しい関係」と言うと、何か裏があるのではないかと訝いぶかってしまう。

今月に入って、ぼくの「誰それを知っている」がきっかけになって、関わった2件の仕事で助けてもらった。その2件の誰それさんにとっては、ぼくが以前「誰それ」だった。持ちつ持たれつ。振り返ってみれば、この1年も公私ともに縁のネットワークでやってこれたと思う。

海外旅行と為替相場

日本を発つ前に換金し過ぎたために、使い切らずに持ち帰ったユーロ紙幣が引き出しに入っている。円高ユーロ安の2011年11月の換金だから、円安ユーロ高の今は1.5倍の価値になっている。

先月、リーフレットやチケット類を適当に入れていたファイルにバルセロナのサグラダファミリアの入場券を見つけた。2011年11月にバルセロナとパリに旅した時のもの。ペア入場料は23ユーロ。円高ユーロ安のおかげでバルセロナのホテルもパリのアパートもお得感いっぱいだった。入場したこの日は2011年11月15日、為替相場は1ユーロ105円。換算すると2,415円である。

打って変わって円安ユーロ高が続く昨今だ。2024年2月9日の今日、1ユーロは161円。サグラダファミリアのペア入場料は前より3ユーロ値上げされて26ユーロ。なんと入場料は4,186円に。もちろん、この驚きの感覚は現地に住む人にはない。日本から行って為替相場上で計算するゆえの驚きだ。



2009年6月、サンフランシスコとロサンゼルスに滞在していた。ロサンゼルスでは郊外の従妹の家で1週間過ごした。大谷翔平の移籍したドジャースの本拠地ドジャースタジアムのチケットを従妹が手配してくれて観戦に出掛けた。

料金がとても安いと感じた。なにしろ当時は1ドル91円と、考えられないほどの円高ドル安だったから。今日のドルははどうなっているか。1ドル149円である。ぼくの旅した頃と比較すると1ドルが58円高くなっている。

円高時のいい時にヨーロッパやアメリカに旅した人なら、円安の今は出掛けづらいだろう。幸いなことに、安い時にユーロを買っておいたので、まずまずの差益が出ている。その差益がなくならないうちに旅程を組むのも一案だと考える今日この頃。

現地では以前も今もコーヒーは1ユーロかそこらなのに、「前は110円だったのに今は160円か」などと旅人は失望する。旅に出るたびに通貨を「翻訳」しては感じる、実に不思議な為替相場のマジック。

語句の断章(50)「加減」

加減ということばから真っ先に想起するのは、学生の頃なら四則計算の足したり引いたりの加減。ついでに、「いい加減」が口癖だった教師も思い出す。口調や顔つきもついでによみがえる。

数学なら足したり引いたりの多少に縛りはないが、熱や水や調味料や圧力になるとデリケートに調整してほどよい状態にする必要がある。数学離れをした今では、加減と言えば、塩・砂糖・醤油などの調味料の量や味のことであり、強火・中火・弱火などの調理のことを連想する。

「匙加減」を辞書で引くと、薬剤の微妙な調合をおこなうことと書いてある。料理用語になる前は、医者が匙で薬剤をすくって混ぜていた。だから、「匙加減一つでどうにでもなる」とは、患者を生かすも殺すも医者の薬の量次第という意味だった。

現在、加減は多義にして多用に使われる。勝負事に弱い相手には少し手加減をしてあげるし、風呂には人それぞれの好みの湯加減がある。風邪気味で身体の加減がかんばしくなくなったり、待ちに待った春先には陽気の加減で体調が思わしくなくなったりする。仕事やミッションを途中で投げ出すといい加減なやつだと言われ、ついには堪忍袋の緒が切れた上司に「いい加減にしろ!」と怒鳴られる。

いい加減のいい・・は元は「好いい」だから、文字通り好ましい意味だったが、否定的なニュアンスが込められるようになった。単発で「いい加減」と書いたり言ったりすると、テキトウとか無責任という意味に取られる。肯定的に使おうとするのなら「好い加減」と書き、「良よい加減」と言えば誤解されずに済む。そうそう、あの昔の教師は「いい加減」ではなく「よい加減」と言っていた。

シニアたちの日々

シニアの生活や社会との関わりについてコラムを依頼されることがある。何度書いても「シニア」ということばはしっくりこないが、それに替えて老人や高齢者と書くわけにもいかない。

ヘルマン・ヘッセに『老年の価値』という本があるが、老年・老齢・老境が頻出し、人を指す時は「老人」の一択である(翻訳本なので、「老人と訳されている」と言うべきか)。肯定的な存在として老人が語られる。たとえば次の一文。

「老年は、私たちの生涯のひとつの段階であり、ほかのすべての段階と同じように、その特有の顔、特有の雰囲気と温度、特有の喜びと苦悩をもつ」

「老いてゆく中で」という一篇の詩では、「若さを保つことや善をなすことはやさしい」が、「心臓の鼓動が衰えてもなおほほ笑むこと」を学ぶべきだと綴る。シニアの一人であるぼくは、今朝階段を上り下りした後に大きく深呼吸したが、たぶん疲れた表情をあらわにしていたはずだ。修行が足りない。

自分がすでに十分シニアなのに、他のシニアを「自分より・・シニア」として見ることがある。たぶん自分もそんなふうに見られているのだろう。商店街やスーパーで高齢化しつつある客層を見て、その中に自分が紛れる時、自他のシニア度を比較していることに気づく。まだまだ修行が足りない。

昨日、午前10時に開店するスーパーに行った。こんな時間に来るのは初めてだ。まだ5分前なのに、すでに店は開いていた。少なからぬ、見た目一人暮らしのシニアがすでに熱心に品定めをしていた。狩猟民のように見えて頼もしい光景だった。寒い外で待たせるのは気の毒だと、早めに開店する店の配慮がやさしい。

先日、焼酎のお湯割り用グラスのいいのを見つけた。値が張る。以前なら「これで飲めば普通の焼酎がうまくなる」と考えたものだが、今は「自分の家飲みグラスじゃないか。酒に酔わずにナルシズムに酔ってどうする」と言い聞かせる。そして、グラスの値段に相当する900ml焼酎を3本買う。迷わずに、体裁よりも実を取る。

平均的シニアは日々をやりくりして暮らし、行動やシーンごとに細やかに考えて対応する。シニアを一言で語ろうとしてはいけないが、敢えて一文にするなら、シニアは案外「合理性を重んじて生きている」。

とりとめのない話5題

📝 先日、第42代米大統領の名前がとっさに出てこなかった。十数秒後に「ヒラリー」が浮かび、すぐにビル・クリントンにつながった。以前覚えて知っているはずのことをとっさに・・・・思い出せなくなるのを「ど忘れ」という。では、とっさに思い出すことをどう呼べばしっくりくるか?

📝 食レポだったと思うが、ある人が「この料理は情報が多い」とつぶやいた。情報が多いという表現は平凡だが、料理と結びついて新鮮に聞こえた。食材、盛りつけ、調理方法、ことばにしづらい味……コメントしたいことがいくらでもあるという感じか。そう言えば、自宅にいても仕事をしていても、ものすごく情報の多い日とほとんど情報のない日がある。情報の多い日は疲れるが、情報の少ない日は物足りない。

📝 中原中也「帰郷」のラスト2行。

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

この冬一番冷えた1月24日、強い寒風に凍えそうになって半コートの襟を立てた。「あゝ おまへはカイロを貼ってくるべきだった」と、吹き来る風が云った。

 

📝 ノーベル賞受賞者のスイスのディディエ・ケロー博士。太陽系外惑星の最初の発見者だ。地球外や太陽系外惑星に生命体が存在する可能性は? という問いに博士は答える。

「宇宙のどこかに生命が存在する、と私は確信している。理由は簡単で、恒星の数も惑星の数も限りなく多いから。逆に、地球上にしか生命がいないと考えるほうが不自然だ」

なるほど。しかし、「宇宙には地球以外に生命が存在しない」とぼくは確信している。理由は簡単で、一度もお目にかかったことがないから。逆に、宇宙のどこにでもいると考えるほうが不自然だ。この宇宙の中で地球にしか生命体がいないという奇跡にそろそろ人類は気づくべきではないか。

📝 のべつまくなしに癒されたがる人、結構回りにいる。もう十分に癒されているように見えるし、これ以上何をどれだけ癒されたいと言うのか。「癒されたい」とか「ああ、癒される~」とかを耳にすると、ちょっとキモチ悪い。癒しは、質ではなく、量的に求められるようになった。残念である。ほどよく疲れるほうがよほど上等な癒しだと思う。

フルサービスとセルフサービス

ステーキ店で焼き加減を聞かれる。「お任せします」と言ってもいいし、好みの、たとえば「ミディアム」と言ってもいい。任せても好みを言っても、料理人がフルサービスでやってくれる。客はプロが焼くステーキを食べることに専念すればいい。

寿司店は高級な店でも回転寿司店でもフルサービスが基本。寿司めしを手に取ってネタを乗せて握るのは店の職人であり、客が寿司をセルフで握ることはない。客は「トロ」だの「イカ」だの「ウニ」だのと注文さえすれば、あとは懐と相談しながら食べればいい。

自宅でたこ焼きをしたり串カツを揚げたりはするが、店に入って自分でたこ焼きを作ったり串を揚げたりしたことはない。それが当たり前だと思っているが、少数派ではあるがセルフサービスのたこ焼き店や串揚げ店が存在する。セルフと言っても、出来上がったものを取ってくるのではなく、テーブルに備え付けの調理器具を使って自分で作るのである。

本来料理人に任せるべき調理の一部始終のうち、焼いたり揚げたりという、どちらかと言うと、微妙な作業を客自らセルフでおこなうとは、奇妙である。関西ではその奇妙な習慣が一部のお好み焼き店で続けられ今に至っている。客自らが個室で焼くセルフお好み焼きの名店が千日前にある。イラスト入りの指示書に従えば、下手に焼いてもまずまずの味に出来上がる。しかし、焼き慣れたプロに焼いてもらうほうがうまいに決まってる。

先日、『焼肉のことばかり考えてる人が考えてること』(松岡大悟著)というおもしろい本を見つけた。焼肉にはステーキよりも格段に高いエンターテインメント性があって、それが人々の心を惹きつけているという。しかし、と著者は言う。

「実は焼肉屋には、どえらく大きな落とし穴がある。それは肉を焼くという作業を、客自身が担当しなければならないということだ。」

ステーキ店との決定的な違いがこれである。ステーキは料理人が焼き、焼肉は客が自分で焼く。どんなに上質の肉でも下手に焼くとまずくなる。火加減や焼き時間は肉の部位によって変わる。裏返すタイミングも難しい。炭で焼くかガスで焼くかの技の使い分けも必要だ。

客は焼肉を食べに来ているのに、一番重要な「焼き」という調理を任される。調理に参画しても割引サービスはない。自前で焼き、焼き過ぎて焦がしても自己責任を負う。「こちら特上カルビです」と言って店側はテーブルに一皿を置くが、焼き過ぎに注意程度の指南しかしてくれない。試しに最初の一切れを焼いてくれることはあるが、後は任される。

にもかかわらず、焼肉店に通っては性懲りもなく自分で焼く。どんなに店側が上手に焼いてくれるとしても、ステーキのように厨房で焼いた肉が運ばれてくるのを望まない。自分で焼きたいのだ。何度も焼いているうちにコツをつかみ、部位によって焼き方も覚える。うまい焼肉への道は厳しく長いが、あの本に書いてある「遠火の強火」を焼きの基本として精進されることを願う。

見たこと、聞いた話

インド人? ネパール人? パキスタン人? スリランカ人?……顔や体躯を一目見ただけでは区別がつかない。彼らをまとめてぼくは「インド人らしき・・・人」と呼ぶ。大阪のインド料理店で働いているのはパキスタンやネパール系の人が多いと聞いたことがある。店で「あなたは何人ですか?」と聞いて確かめていないので、真偽はわからない。

近くのインド・ネパール料理店の店長はネパール人。自らそう名乗った。かなり食べ慣れたのでインド料理とネパール料理とスリランカ料理の違いがある程度わかるような気がするが、違いを説明するのは難しい。どの店に入ってもいろいろと尋ねるが、答えもいろいろ。一口に日本料理と言ってもいろいろあるのと同じ。

ぼくの住む街ではインド人らしき人とよく出会う。ステレオタイプな印象になるが、女性は小柄でさっさと速足で歩く。男性は細身で髭を生やしていて、たいてい自転車を漕いでいる。そして、イヤホンをして電話をしている。何だかんだと早口で割と大声で喋っている。


同じマンションに数年前までインド人A氏が奥さんと住んでいた。夫婦二人暮らしだが、よく友人が遊びに来て食事をしていた。A氏の5階からぼくの8階まで香ばしいスパイスの匂いが上がってきて、誘ってくれないかなあと願ったものだ。男の子と女の子がいて、インドで学校に通っている。つまり、両親とは別居。長期休暇になると日本で両親と暮らす。

A氏とはエレベーター、エントランス、道でよく会い、会えば英語と大阪弁で話を交わした。「先週テレビで見ましたよ」とぼく。「あ、見てた? そう、神戸の教会やね」とA氏。インド人のシーク教徒が礼拝する教会とのことだった。ちなみに、A氏はいつもターバンをしていて濃くて長い髭をたくわえている。

A氏によると、ターバンを巻く男性はシーク教徒のみで、髪も生涯切らず、髭も伸ばすばかりでまったく剃らない。シーク教徒は人口の2パーセントにも満たないのだから、ターバン組は少数派なのだ。日本人の抱くインド人の風貌のイメージは固定観念だった。「インド人と言えば、ターバン」などと言うと、ほとんどのインド人がびっくりする。

A氏の奥さんは、いつ見てもエコバッグからはみ出るほどのニンジンを買い込んでいた。インド料理にニンジン? と訝いぶかったものだが、後年、スパイスの効いたアチャールという漬物だと知る。味こそ違うが、インド料理でもネパール料理でもスリランカ料理でも添えられたり小さな壺に入れてテーブルに置いてあったりする。インド人らしき人たちはみなアチャールを食べる。ぼくにとってもアチャールは福神漬けのような存在になった。

晩餐会の「食性」

西洋料理のコースの主菜をいただく時に、あるシーンがいつも頭をよぎる。時は19世紀後半、デンマークはユトランドの辺境の村を舞台にした映画『バベットの晩餐会』の一コマ。あの物語の主菜は「鶉うずらのフォアグラ詰めパイケース」という、贅沢でアヴァンギャルドな料理だった。

ヨーロッパでは野生の山鶉が食べられる。フランスでは解禁が11月、食卓にのぼるのは年に2ヵ月足らずと聞いた。産地ではこの希少食材を地元民は珍重する。好きだ嫌いだなどとは言わない。しかし、鶉の主菜は世界から様々な食性を持つ人たちが集まる晩餐会では規格外。わが国でも忘年会で鶉料理のメインが出てきたら、幹事失格の烙印を押されること間違いなし。

スウェーデンのノーベル賞の晩餐会では、主菜はたいてい鴨か仔羊である。わが国ではいずれも苦手な人が少なくない。世界標準では宗教的理由から豚肉や牛肉は出しづらい。また、伊勢エビや蟹などの甲殻類も禁忌食材とされる国々がある。もし世界からセレブが集う晩餐会に招待されたら、鴨か羊を覚悟しておかねばならない。


前日に琵琶湖で狩猟された野生の鴨を丸一羽もらったことがある。宅配されて梱包を解いて仰天しそうになった。いっさい手が入っていない状態で、例の色鮮やかな羽毛付きのマガモ(真鴨)だった。苦手なクチなら嫌がらせだと思うだろう。捌きと下ごしらえに苦しみ、かなり時間を要したが、鍋料理と炙りに仕上げて少し癖のある野趣に富んだ肉を堪能した。

「鴨が葱ねぎを背負しょってくる」と言う時、あの鴨は鍋の食材を想定している。葱さえあれば、他に白菜や豆腐などの具材がなくても、鴨鍋は成立する。話は牛鍋になるが、池波正太郎は牛肉と葱だけのすき焼きが絶品と言った。葱の切り方にも注文がつく。斜め切りではなく、ぶつ切りにして縦置きにして煮る。

閑話休題――。稀にマガモが売られているのを見るが、安上がりに自宅で鴨料理をするならアイガモ(合鴨)だ。元を辿れば、アイガモは野生のマガモとアヒルを交雑交配した家禽。アヒルそのものがマガモを品種改良したものなので、アイガモもマガモに分類される。大阪でアイガモと言えば河内かわち鴨がブランド。2019年のG20大阪サミットで供された。

その河内鴨の料理を出してくれる店が、オフィスから2、3分の所に2店ある。どちらの店もランチメニューになっている。一方がアイガモの鴨なんば、他方がアイガモの丼とラーメン。後者がひいきで、表面だけ軽く炙った、ほぼ刺身状態のたたき丼が目当て。これまで10人くらい誘ったが、乗ってくれたのは2人のみ。鍋や蕎麦ならいいが、たたき丼の敬遠率は高い。

拾い読みと抜き書き〈2024年1月〉

わざわざ抜き書きするのだから賛意を表しているのだろうと、他人は思うらしい。そうとはかぎらない。賛意の場合もあるが、同意でもなく意を唱えるでもなく、よくわからないが、気になるので傍線を引くこともある。意見保留または感想放棄のままの抜き書きというところだ。今月はそんな3冊の本(3人の著者の本はそれぞれ10数冊、いや、それ以上本棚に並んでいる)。


📖 松岡正剛『切ない言葉』(「遊学の話」より)

一所から他所へ赴くのが「遊」の本義ならば、
一所にいて他所を徘徊するのもまた「遊び」である。

一所から他所へなら、たとえば「旅」がそうであり「引越し」や「転職」もそうだ。経験的にはたしかに「遊」だった。では、一所にいて他所を徘徊のほうはどうか。たとえば、今ここにいて他所を想像すれば遊び心が搔き立てられる。本業があって、それをベースにして、別の仕事をしてみるのも楽しい。

こんなふうにそのまま読めばいいのか、それとももう少し深読みするべきなのだろうか。この著者が書くのだから何か新しい「遊」なのだろうと期待するが、案外当たり前のことが書かれているのかもしれない。だからと言って、がっかりしているわけではないが……。

📖 中村雄二郎『人類知抄  百家言』(「ニーチェ」の項より)

毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。

ニーチェのこのことばは難解である。「神は死んだ」よりも難解だ。著者の説明を元に、抜き書きの前段と後段を加えて再掲してみると次のようになる。

小さな自制心が欠如すると、大きな自制心も潰ついえてしまう。毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。自分自身の支配者となるよろこびを保持したければ、この体操は欠かせない。

体操とは「毎日一回、小さなことを断念すること」であり、自分自身の支配者とは「自分をコントロールすること」だろう。小さな欲望を捨てられないと、人生の大事な場面で自制心が利きかなくなる……だから、毎日小さな欲望を捨てて、日々を上手に生きよう……そうすれば、自分を統御でき幸せになれる……と読み替えたがはたしてそれでいいのか。とは言え、毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念できるほど、いろんな欲望を持ち合わせているわけではない。断念したくても断念するネタが先に尽きる。

📖 池田晶子『あたりまえなことばかり』

老いるほどに人生は面白くなるという言い方は、確かに可能である。
肉体は衰える、知力も衰える、しかし、ひょっとしたら、魂が最も活発に活動するのはこの時期であるのかもしれない。
その歳まで、いったい何をしてきたのかと訝いぶかりたくなるような老人は多い。おそらく、何もしてこなかった。摂食、生殖、快楽の追求以外は何もしてこなかった。刺激に反応し、反応したら忘れるといった動物的生存の日々、そのような人々は、したがって老いることを拒む。

社会から老い始めたと見られる自分や同輩に照らし合わせると、おおむねその通りだと言える。ただ、魂の定義次第だが、肉体と知力が衰えたら魂も不活発になりそうな気がする。もし魂を精神と言い換えるなら、精神は知力に支えられるのではないか。

老いることを拒んで強引な策を凝らすのが加齢と闘う「アンチエイジング」、老いるペースに応じて生きる工夫をするのが加齢と融和する「スローエイジング」。意地や見栄を張る前者よりも、老いを素直に認めてしまう後者のほうがうんと楽である。

語句の断章(49)「須く」

文化庁が2020年に実施した「国語に関する世論調査」。「須すべからく」の意味に関して次のような結果が出た。

半数以上が意味を正しく知っているとは……。正直なところ、これには驚いた。なぜなら、漢文訓読調の「須く~すべし」という表現を使った知り合いのほとんどが、「すべて」という間違った意味で使っていたから。「世の中は何もかも、すべからく・・・ですからね」という具合。

正答が誤答を上回った理由はすぐにわかった。須くの意味は「当然、ぜひとも」か、それとも「すべて、みな」かという二者択一でアンケートを取ったからだ。初見の人もすべてという意味だと思っていた人も、逆を選んで正答になったのだろう。

須くは辞書にちゃんと載っている。昔に書かれた本を読むと目にすることがある。現代文ではめったに出くわさない。会話ではぼくよりも若い世代の、いわゆるインテリ系がたまに使う。古い本では正しく使われ、会話では間違った意味で使われる。

わざわざ「青年は須く勉学すべし」などと言ったり書いたりしなくても、「若いうちにぜひともしっかり勉強してもらいたい」でいい。つまり、今の時代、須くにはほとんど実用の出番がない。須くは読み方と意味を尋ねる雑学クイズか漢字検定で使うために生き残っているようなものだ。

なお、読みも意味も知っているが、この歳になるまで須くを一度も使ったことはない。仮に無理して使ったとしても「すべて」という意味に取られるはずである。