スマホゲーム中に現れる広告

スマホで興じる唯一のゲームがAIと対戦する将棋だ。相手が人間のリアル将棋よりはかなり強敵。人間の場合は二、三段相手にいい勝負ができるが、AIなら一、二級と互角。

先日、例外的に別のゲームに挑戦した。それが「花札こいこい」の無料ゲーム。7段階のうち6段階までなら勝率7割~9割を達成。しかしレベル7だけは勝率5割を切る。最強のAIはこっちが隠しているはずの札と山札が分かっているに違いない。ゲームの途中で随時広告が現れる。ゲームそっちのけでじっくり見てみた。ビッグデータはわが検索履歴とプロフィール予測からどんな広告を選んだのか……。

🔍 スマホ代が安くなる格安SIM(SIMを検索したことはないが、Y!mobileのスマホ代なら調べたことがある)。
🔍 ネットから申し込める保険サービス(→大手保険会社。火災保険をネットで何度か検索したことはある)。
🔍 「口座をお持ちなら……」という呼びかけの大手銀行の口座アプリ開設案内(→その銀行の口座は確かに持っている。アプリを入れる予定はない)。
🔍 大手薬品会社の腸活系健康商品(→この薬品会社の他の商品は買ったことがある)。
🔍 睡眠美容がテーマの保湿クリーム(→冬場になると手に保湿クリームを塗るが、ネットで調べた記憶はない)。
🔍 ふるさと納税「スマホで簡単! 御礼の品選び」(→ふるさと納税に興味はない。元横綱貴乃花のコマーシャルなら知っている)。
🔍 航空会社「JL」の支払アプリ(→「全○空
」の会員だったが、「JL」にはあまり乗らない)。
🔍 「Choo ZP」の入会案内(→2,980円/月と3,278円/月の二通りの料金表示に違和感。検索した履歴はないが、知人のS山氏が会員のようだ)。
🔍 プライムビデオ『私の夫と結婚して』(→プライムビデオの会員だが、映画はほとんど利用していない。宣伝文句「人生2回目。泥沼な運命を彼らに――あの衝撃の物語を今すぐチェック」。なかなかのつかみだ)。

ちなみに、まったく検索したことがない系統の広告が下記の通り。

❓ スロットマシーン(→バーチャルなパチンコ店という想定ではなく、「カジノ」と呼んでいる)。
❓ 出前/フードデリバリー(→使ったことはない。最大4,000円分のクーポンと送料無料というインセンティブで、ハンバーガーや牛丼を注文させようとする)。
❓ ウェディングのウェブサイト(→QRコードの結婚招待状が届くらしい)。
❓ 私立大学のミニオープンキャンパス(→大学の講師をしたことはあるが、この歳で大学で学ぼうとは思わない)。
❓ Vtuberとお喋りできるコミュニケーションアプリ(→そもそもVtuberYouTuberの違いがわからない)。
❓ シミュレーションゲーム(→戦争のサバイバルゲームらしい。おもしろそうだが、目にはやさしくなさそう)。
❓ 出会い系マッチングアプリ(→これが事件やトラブルを招いている噂のアプリ? どの広告もあどけなく清楚に作られている)。

ゲームに興じるどころか広告をチェックした約半時間。現代社会に鋭くメスを入れるほどではなかったが、最近縁遠くなった世相を垣間見れたような気がしている。

最後の晩餐のこと

ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内の修道院食堂に描かれた壁画。それがレオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』である。大がかりな修復が完了したのが1999年。その7年後の2006年秋、「パリ→ミラノ→ヴェネツィア」の旅程を組んで出掛けた。飛行機の旅券とホテルの予約以外は行き当たりばったりの合計12泊の旅。

パリでは競馬の最高峰とされる凱旋門賞を観戦した。目的ではなかったが日本馬ディープインパクトが出走するので「これも何かの縁」とばかりにロンシャン競馬場に出掛けた。パリ滞在中は知人と会ったり美術館に行ったりとすぐに予定は詰まった。

他方、ミラノでの行動は、西北西へ列車で45分ほどのベルガモの訪問以外は計画無し。朝起きて街中を散歩したり地下鉄や路面電車で移動したり、行き当たりばったり。ミラノの3日目、もしかして要予約の『最後の晩餐』の鑑賞にキャンセルが出ているかもしれないと厚かましくも教会を目指した。もちろん予約無しで入館できるはずがなかった。来たついでなので、近くの「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館」へ行く。人が少ない。絵画の展示はないが、それ以外のダ・ヴィンチのマルチタレントぶりの展示を堪能した。


『最後の晩餐』にはキリストと弟子である十二使徒との共食シーンが描かれている。イタリア語では“L’Ultima Cena”(ルルティマ・チェーナ)という。日本語の晩餐にはフォーマルな響きがあるが、イタリア語のcenaチェーナは普段の夕食にも使うので重厚さや高尚感はない。

ずいぶん前になるが、「私の最後の晩餐」というようなテレビの企画番組が何度か放送された。よく食べてきた好物を最後の晩餐に選ぶ人と、食べたくても高級だったり手に入りにくかったりして逃してきた料理を選ぶ人がいる。人生で一番おいしいと思ったものを最後の食事に指名するとはかぎらず、おにぎりやお茶漬けだったりするかもしれない。

壁画の写真を見ても最後の晩餐の料理がよくわからない。修復後に専門家が鑑定したところ、食卓には魚料理、オレンジ(またはレモン)、赤ワイン、パンが確認された。魚は鰻のグリルという説もある。ちなみにキリスト教の「過越祭すぎこしのまつり」の定番メニュー、仔羊のローストは描かれていない。

鑑賞機会を失ったから愚痴を言うのではないが、最後の晩餐にはどうもなじめない。最後にも晩餐にも引っ掛かる。と言うわけで、次のようなことをつぶやいている。

本当に最後になるかどうかもわからないのに、最後と言うのはおかしいではないか。社交界や高級ホテルのフルコースとは縁遠く、夕飯を晩餐と呼ぶのに抵抗がある。晩餐を晩ご飯に言い換えるべきだ。みんな、晩餐と言うのは今夜でやめよう。そう、これが『最後の晩餐』。明日からは自宅のご飯もあの名画も『晩ご飯』と呼ぼう」

語句の断章(73)版

20代後半に転職して広告・販促関係の仕事に就いた。最初は印刷会社が使う専門用語に戸惑った。自分が書いた文章にデザイン要素がレイアウトされて「版下」ができる。その版下が何のことかわからなかった。

版下とは写真製版用の原稿のことで、それを撮影して印刷の原板が作られる。先に用語が入ってくるから戸惑う。印刷会社の現場を見て説明を受ければさほど難しくない。なお、写真がなかった時代は絵を描き文字を書いた紙を反転して版木に貼り付けていたから、今に比べると手間がかかっている。

版と言えば版元、大河ドラマ『べらぼう』の蔦屋重三郎を連想する。あの作品は江戸時代中後期の出版社の仕事と時々の社会風俗を描いている。当時の版とは文字を書いたり絵を描いたりする板のことで、それに紙を合わせて刷った。

売れる本は同じ版を使って印刷部数を増やす。これを「版を重ねる」などという。重版出来も最初は読めなかった。「じゅうはんしゅったい」と読む。

本の奥付には「初版発行(第一刷発行)」や「第15刷発行」と記されており、辞書などは表紙にも「第五版」などと書かれている。英語ではversionバージョンeditionエディションという用語が版のことを指す。

印刷や版画では技法のことを版という。おなじみの凸版、凹版、平版、木版、活版などが代表的。数年前にインクや紙の展示会に行った際に、印刷会社のショップカードをもらった。活版印刷された厚紙だ。凹凸感と質感の手触りが何とも言えず、今も捨てずに取ってある。活字だから活版、文字を使わず絵柄だけでも活版。紙の上で活きている。

抜き書き録〈テーマ:象徴・表象〉

前回(20251016日)の抜き書き録のテーマは「辞書を読む」。その続編として今回は「辞書を見る」のつもりで、何冊か手に取って読んだが、どれもしっくりこない。興味深く読めた1冊が『シンボル・イメージ小事典』(ジェイナ・ガライ著/中村凪子訳)。3つの「象徴・表象」を取り上げる。

📖 バラ

「バラはヴィーナスの花であり、歓喜、勝利、完全を象徴する(……)花言葉ではバラの花冠かかんは美と報われた美徳を表わす。」

熱っぽく情熱をささやくのが赤いバラ。鳥にたとえるなら鷹とされた。一方、白いバラは鳩のようにそっと愛をささやく。先日訪れた中之島バラ園のバラはしおれていたが、それは美のうつろいやすさの象徴らしい。

古代ギリシアやローマでは、招かれた先のテーブルにバラの花が吊り下げてあれば、そこで話されたことは他言無用を意味した。つまり、他所で他人に話すな、秘密を漏らすなというサインだった。

📖 熊

「太古の時代から、熊は粗暴で残忍なものすべてを象徴していたようである。七万年ほど昔、ほかに捕えやすい獲物は多かったはずだし、非常な危険をともなったにもかかわらず、ネアンデルタール人はすでに熊狩りをしていた。」

『アイヌモシリ』というドキュメンタリー映画の中で、神聖な動物である熊が生贄の儀式に供されていた。北米インディアンやシベリアのオロチョン族でも儀式のための熊狩りがおこなわれていた。

最近、熊のニュースがない日はない。函わなに閉じ込められた熊は獰猛で暴れ狂う。実際の熊はかわいいぬいぐるみの対極の存在である。

📖 卵

「雌鶏は、卵がつぎの卵を産むための道筋にすぎない」(サミュエル・バトラー)

「生命の根源を秘めた生命の種のように見える卵は、事実、生命の種のようなものであり、それゆえに、動物界のみならず、宇宙全体の再生の象徴とされる。」

世界は、創造主が生んだ卵から生まれ、世界の形も卵の形をしていると信じられていた時代があった。卵は、目玉焼きやゆで卵、卵かけご飯として食べる単なる食材以上の存在として、神や神話世界と結びつけられていたのである。

AIの認識/判別能力を試す

高度で非日常的なAIの能力ではなく、AIの身近な基本的能力――たとえば翻訳・認識・情報などの能力――を遊び半分で試すことがある。きっかけは数年前のテレビコマーシャル。“Open House”を「オープンハウス」と英語読みせずに、「オペンホウセ」とローマ字で音声入力したらAI“Open House”と文字化してみせたシーンが印象に残っている。

上記の例に倣ってLouis Vuittonルイヴィトンも「ロウイスヴイトン」と音声入力したら正しく認識した。ならばとばかりに、次に「ベアウジョライス ノウヴェアウ」と(音声ではなく)カタカナで入力してみた。はたしてAIはこのカタカナを認識して、それが何かを類推できたか? AIは次のように答えた。

「フランスのワインである“Beaujolais Nouveau”ージョレ・ヌーヴォー)を指していると思われる」

「産地がブルゴーニュ地方南部のボージョレ地区」という基本概要の紹介は当然として、さらに、「カタカナで表わすと、ボージョレ・ヌーヴォー、ボジョレー・ヌーボー、ボジョレ・ヌ―ヴォなどの様々な『表記の揺れ』がある」とかなり親切な説明まで加えた。

先日、御堂筋の本町駅近くにある、浄土真宗本願寺派の施設「北御堂ミュージアム」を見学していた。大きな年表展示の方にいた男性が、突然、「親鸞聖人と蓮如上人、どっちが偉いか?」とスマホに向かって喋った。

親鸞聖人
蓮如上人

「この近くで、ランチタイムに焼肉が食べられるおすすめの店は?」というような問いに対してはAIは即答する。しかし、2人の歴史的人物の偉さの比較は得意ではない。いや、この種の問に対しては無難に「どちらにもそれぞれ固有の偉さがある」などと模範解答で返すのが常である。スマホに尋ねたあの男性、期待する答えは得られなかったに違いない。

語句の断章(72)役不足

役不足の意味を「自分の能力に対して役目が重すぎる」と思っている人が半数以上いる(文化庁の調査)。今も「本日、司会を仰せつかりました○○でございます。役不足を承知の上で精一杯務めさせていただきます」などと使い方を誤るシーンに時々出くわす。

役不足は「割り当てられた役目が軽すぎる」という意味。ところが、上記の司会担当者は、自分の能力不足を謙遜するような言い方をしている。用例を挙げて正誤を示せば、「役不足ながら与えられた任を全うします」は誤った使い方、「もう少し実力に見合ったポジションに就きたい。この仕事は役不足だと彼は不満を口にした」は正しい使い方である。

役不足と力不足を対義語の関係として覚えておけば、混乱することなく使い分けできると思われる。

演出家 「今度の作品ね、ベテランの君には役不足で申し訳ないけど、通行人をやってくれないか?」
俳優 「通行人はやったことがないんですよ。役不足? とんでもない。ぼくにできるかなあ……力不足だと思いますが、それでよければ」

言いにくいことをズバッと言った演出家に対して、オトナの対応をした俳優。このシーンが脚本になればおもしろいし、役不足と力不足の意味もしっかり理解できるはず。役不足と言うだけあって、元は俳優や役者が役柄・役割に不満を持つことが由来だ。

高学歴にして面接でも好印象、入社試験の結果も上々だったので採用決定。しかし、しばらくして力不足が露呈した。「あの人、ほんとにトーダイ卒?」と配属先の誰もが首を傾げた。しかし、採用された彼以上に力不足とされたのが人事部長だった。人事部長は常々「オレは営業部長向き。人事部長なんて役不足だ」と言っていた。

ピークを過ぎたバラ園を歩く

大阪市が主催した中之島公園バラ園のローズツアーが1017日。その頃が秋バラの見頃という想定だから、バラ園を歩いた11月7日にはピークが過ぎていた。観賞に訪れていた人は少なくなかったが、バラが咲き誇るという趣ではなかった。

堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島公園は、全長東西1.5キロメートル。そのうちの500メートルがバラ園で、面積は13,000平方メートル。甲子園球場のグラウンドと同じだが、細長いのでそんなに広いとは思えない。

バラ園の入口プレートは西側にあるが、自宅から来る時は公園の東端から入る。公園の芝生を踏みしめて歩くとバラ園の東エリアに入る。東エリアと西エリアは「ばらぞの橋」で結ばれている。

植えられているバラの品種は300種類以上らしいが、名称のプレートと花をつぶさに見て歩くと観賞疲れを催す。その日は20種ほど見て、6種のプレートを写真に収めた。プレートの背後に花が映っていないのはすでに咲き終わったから。


 

ミケランジェロ  葉は旺盛だが、花はすでに終わっていた。ミケランジェロの豪快な筆遣いの出番も終わった。

ヨハン・シュトラウス  淡いオレンジピンク色のきれいな花だが、これも咲き終えた。耳を澄ませどワルツは聞こえてこない。

コンフィデンス  ほとんどの株の花は散り、かろうじて一輪のみ残っていた。名とは違って、咲きようは慎ましく遠慮深い。

マダム・エドゥアール・エリオ  半月前までは濃くて優美なオレンジ色の花を咲かせていたはず。すでに散っていたから、マダムのしおれた姿を見ずに済んだ。

マリリン・モンロー  8割以上の品種が咲き終わったのに、さすがはマリリン。若さを保って元気溌剌、横溢の気が漲っていた。


カクテル
  鮮やかな赤も今年はすでに“Closed”。「また来年、一杯やりに来てください」と言うバーテンダーもいない。

 

不在ゆえに感じる秋

珍しく、今日の昼下がりの窓ガラスの陽射しは格別だ。「窓あけて窓いっぱいの春」という種田山頭火の句を思い出す。この句、開けた窓から春らんまんの景色と空気が感じられる。新しい季節の予感と希望が込められている。

春はまだしも、ここ数年の秋には少々がっかりする。正しく言うなら、来ない秋に失望する。「窓あけてもどこにも秋は来ていない」と茶化したくもなる。

2025年新語・流行語大賞候補作の中に「二季」を見つけた。3ヵ月前にこのブログで「いずれ日本はどこで暮らしても、夏と冬の二季にして高温と低温の二刀流になる」と書いた。季節の移ろいが著しい昨今だが、特に夏と冬をつなぐ秋の喪失感が強い。

近年、7月から9月中旬頃まではエアコンを入れるのが常になっていたが、ここ数年は夏の余韻のような暑さが収まらず、10月中旬まで冷房が必要になった。まだエアコンがなくても9月が過ごせた頃は、窓を開けて風を取り込んで朝夕を過ごせた。9月下旬から10月上旬になると、少し薄ら寒さも感じたものだ。そんな日には窓越しに暖かい光を部屋に取り込んだ。

今年は10月になっても窓を開けて風を取り込んだり窓際で日向ぼっこしたりというタイミングがほとんどなかった。冷房が要らなくなったと思ったらいきなり冬間近になったからだ。ああ、今年の秋も一瞬かと残念がっていたら、冒頭に書いたように今日の昼下がりは珍しく懐かしい秋の日和。窓を開放して秋を招いている。

秋が来たら秋を感じる。当たり前だ。これからの時代、たとえ秋が不在でも、不在ゆえに秋らしさを覚える人間側の感受性が必要になるのだろう。

水もしたたる二字熟語遊び

 上水 じょうすい 水上 すいじょう

(例)「上水は上クラスのきれいな飲料水だが、水上は上クラスの飲料水のことではない。

上水は上水道の略で、くだを通して届けられる飲料用の水。対義語は「汚水」である。上水と言えば玉川上水を連想し、玉川上水と言えば太宰治を連想する。1948年、太宰は愛人と玉川上水で入水じゅすいした。このことを知ってから上水のイメージが悪くなった。
水上は水の上ではなく、水面に近い水中を意味する。水上を「みずがみ」と読む医者にかかったことがある。また、「みなかみ」と読むと
川の源流の古風な表現になる。

 水分 すいぶん 分水 ぶんすい

(例)「果物の大半はかなりの量の水分を含んでいる。多いからと言って、ジュース用と他の用途に分けても分水とは言わない。

今時の料理評論家は「水分を含んでいる」と普通におっしゃるが、昔は「水気みずけが多い」と言ったものだ。水気は水分量の多さを示すことばであり、水っぽいや水くさいなどのように「まずい」という意味ではない。
分水から派生した分水嶺ぶんすいれいは文学やエッセイのタイトルにもなる粋な表現。雨水が異なる川に流れていく山の尾根の境界のことをそう呼ぶ。

分水嶺

 水深 すいしん 深水 しんすい

(例)「水深200メートル以上の所に棲息するのが深海魚。言うまでもなく、そこは深水地帯である。

海面や湖面から水中の底までの深さが水深。世界最長の推進はマリアナ海溝にあって、水深は1万メートル超。この深さと比較したら、ぼくの好物のアンコウのいる500メートルの深海は浅瀬みたいなものだ。
深水は、「しんすい」と読めば水中の深い所を意味する。しかし、「ふかみず」と読めば「切り花を長持ちさせる方法の一つ」だと、デジタル大辞泉に書いてある。手元の主だった56冊の辞書には出ていない。なお、「ふかみ」と読む苗字の先輩がいた。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

ノートの再読・整理・処分

目下、自宅もオフィスも断捨離の処分対象と手順の計画中(あくまでも計画中、断捨離の第一歩はまだ踏み出していない)。

その気になれば処分できるが、潔く処分しづらいのがメモを山ほど書いてあるノートや手帳の類。しかし、保持しようとするのは断捨離に背く。なので、たとえば100ページのノートなら90ページ分を捨てるつもりでざっと目を通す。瑣末なメモにも何となく心残りするものがあって、目が止まる。

このメモを捨てたら、もう二度と同じような内容に出合わないかもしれない。そう思うと未練が募る。と言うわけで、ひとまずメモの整理を兼ねながら、このブログに転記するようにしてきた。小さなメモがきっかけになってブログを一篇書くことも稀ではない。

下記は昨日目を通して残そうと決めたメモと、そのメモに関するメモ。

📝 「あゝ、おまへはなにをしに来たのだと……吹き来る風が私に云ふ」(中原中也「帰郷」)
これはパロディー向きの一節。「あら、あなたは何を食べに来たのかしらと、卓に来て女将が私に聞く」。

📝 「彫琢復朴(ちょうたくして ぼくにかえる)」(荘子)
数年前の初見の四字熟語。芸術や技術はああでもない、こうでもないといろいろと手を加えようとするが、最後には余計な細工を施さない「素朴な姿」に回帰するものだ、という意。

📝 「思い出が人を救う。幸せに生きてきた長い歳月の思い出が、今の失望から人を救う」
ああ、あの時悩めるあの人を見て、今だけを見るのではなく、よかった時代を思い出せばいいのに……そう助言しようと思っていたが、その機会を逸して今に至る。

📝 「一点を極める」(NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」)
いろんなことに目移りして、何事も中途半端にやり過してきた身としては、一点集中して極めるのは難しかったが、それ以上に難しかったのが、その一点を何にするかであった。