抜き書き録〈テーマ:文房具〉

回りに文房具嫌いはいない。それどころか、必要もないのに過剰に買う人ばかりである。ぼくもそんな一人。人生を数回繰り返せるほどの筆記具やノートを所有して今に至る。それを反省して、最近は高価な道具に目をくれず、100円ショップで手に入るブロックメモやクリップケースや付箋紙を買う程度。文房具について書かれた本は時々引っ張り出して読む。

銀行や生保の職員と会う機会が減りメモ用紙が手に入らなくなった。クラフト紙を300枚とか400枚束ねたブロックメモを使う。これが100円とはありがたい。

📖 『文房具の研究――万年筆と鉛筆』(中公文庫編集部編)

「入学祝いにもらった一本の万年筆は、大人になった証しだった。金色の華奢なペン先が、深遠な知的世界への扉を開ける小さな鍵のように見えた。万年筆とのこんな出合をした人は多かったと思う。あれからずいぶんたって何本もの万年筆を手にしてきたけれど、気に入りのこの一本を探しあてた人はどれほどいるだろうか。」

ぼくの所有する万年筆は今手元にあるだけで10本は下らない。まずまず気に入って時々使うのが3本ある。すでに廃業した加藤製作所の1本は書きやすく手になじむが、少しペン先が太い。高価なモンブランは握りやすいがペン先がやや硬い。決して短所ではないが、ちょっと気になる。こんなふうに、万年筆は持ち主を超理想主義者にしてしまう。

📖 『文房具を買いに』(片岡義男)

「リーガル・パッドの白と黄色をそれぞれ数冊ずつ直射光のなかに置き、重ねたりずらしてみたりして、表情を引き出そうとした。リーガル・パッドをめぐるさまざまな思いが頭のなかに少しでも渦巻いたなら、それこそがリーガル・パッドの表情だ、と言うような言いかたは成立するだろうか。」

リーガル・パッドによく似た日本製のカバー付きのパッドをそのメーカーの営業マンにもらった。何年も使わずにいたが、今年に入ってから買ったり飲んだりしたワインの記録用に使っている。特に理由はないが、左へページをめくるノートと違って、レポート用紙のようにタテに上方へめくっていると、評価者気分になる。

📖 『紳士の文房具』(板坂元)

著者はアンティークはもとより、高級な小道具や紳士の作法の造詣が深い。ちょっと庶民感覚とかけ離れた貴族趣味的なところもあるが、正真正銘のホンモノの本格派だ。

「(……)ふと現代のビジネス・エグゼクティブはハサミを使わなくなったのではないかという疑問が生まれてきた。」

豪勢な社長室のデスクにはありとあらゆる高価なステーショナリーがあるのに、ハサミが見当たらない、と著者は言う。最近のビジネスマンはどうなのか。ハサミをあまり使わなくなったのか。ぼくはハサミをよく使うので自宅には大小様々7丁か8丁、オフィスでも2丁ある。万年筆にはアンティーク価値があるが、ハサミの真骨頂は実用的使いやすさにある。そのくせ、切れ味の悪いハサミを使っている人が多い。包丁を研ぐのだから、ハサミも研げばいい。研げばいいと言うのは簡単だが、扱いにくく研ぎにくい。

デザートと飲み物

エスプレッソドッピオ

ブログで使った写真を整理していたら、街角、本、風景、料理、図/イラストの他ではコーヒー(特にエスプレッソ)の写真が多いことに気づいた。コーヒーとデザートが並ぶ写真がなくはないが、そもそも食後にデザートをあまり口にしないからコーヒーと菓子の相性を意識した記憶はない。和菓子ならお茶、洋菓子ならコーヒーという、条件反射的なペアリングをする程度だ。

ビスコッティ

イタリア旅行中でもエスプレッソに合わせたデザートはめったに注文しなかった。例外はフィレンツェのビスコッティ。エスプレッソを注文したら付いていた。棒状に延ばして焼いた生地を、いったんカットしてからもう一度オーブンで焼く、やや硬いビスケット。ビスコッティの「ビスは2、コッティは焼いた」。つまり「2度焼き」という意味。別のレストランでは食後の甘口のデザートワインに付けてくれた。ワインに浸してやわらかくして食べる。

ローマではエスプレッソにティラミスを合わせた。日本のティラミスとの違いを知りたくて注文した。甘すぎる、濃すぎるというしかない。ところが、砂糖を入れてかき混ぜたエスプレッソの甘味とよく合うから不思議だ。エスプレッソとティラミスも、デザートワインとビスコッティも、互いに補完し合う関係ではなく、似たものどうしの組み合わせ。濃い味と濃い味、甘い味と甘い味という同類合わせが本来のペアリングなのである。

あっさりしたクッキーに紅茶、濃厚なチーズケーキに濃いコーヒーが合う。茶菓子があっさりだから飲み物を濃くするとか、苦いチョコレートだから薄いコーヒーというのでは逆効果。ワインのペアリングと同じことだ。濃厚でスパイシーな赤ワインには肉、さわやかな白ワインには淡泊な白身魚という具合。

チョコレートケーキと赤ワイン

ミルフィーユ状の濃くて甘いチョコレートケーキを買って帰る。普段なら濃いコーヒーだが、赤ワインを合わせることにした。どちらも濃厚であり、ポリフェノールを含んでおり、苦みと渋みが拮抗する。似たものどうしである。問題はどの赤ワインを合わせるかだ。赤ワインは30本ほど買い置きしてあるが、何本も抜栓して試飲するわけにはいかない。

直感で、以前何度か飲んだイタリアはプーリア州のネグロアマーロの1本を選ぶ。果実味が豊かで、カシスやカラメルの香りが立ち上がり、チョコレートの甘苦さと好勝負できそうな渋いタンニンの濃厚な赤ワイン。想像通りのペアリングになったと思うが、他のワインを試していないから、どの程度のペアリングだったかはわからない。ワインだけ楽しむ分にはいいが、料理とのペアリングに凝り始めると浪費する。

語句の断章(53)「句読」

「話はえんえんと続く、句読点もないままに」

田辺聖子の本で見つけた文章。印象に残ったので抜き書きしていた。ただでさえ長い話または文章に、しかるべき句読点くとうてん)がなかったら、文は終わる気配を見せない。

句読点とは「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいよう息を休める所」と広辞苑に書かれている。二行や三行程度の文章を読むのに息を休める必要があるか。句読点は息継ぎスポットなのか。

句読点を付けることを「句読を切る」と言うが、文や語の切れ目を明らかにして、読みやすくしたり文意を明らかにしたりするためである。読みやすくというのは、視覚的な可読性のこと。わが国で句読点が文中に出るのは明治時代になってから。それまでは可読性に著しく難がある文章や物語を読み書きしていた。『源氏物語』の「桐壺」の原文は次の通り。

いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり

句読点のない文章に読み慣れれば意味もわかるようになるのだろうが、次のように句読を切り、ついでに漢字にルビを振れば、かなり読みやすくなる。

いづれの御時おほむときにか女御更衣にようごかういあまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなききわにはあらぬがすぐれてときめきたまふありけり

修飾語が盛られた文章はおおむね悪文とされるが、句読点を使えば修飾語どうしの関係を明らかにできる。たとえば「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」という文では、いよいよやって来たのは蝶々と読まれかねないが、「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」と、読点一つで「いよいよやって来た」を「季節」に掛けることができる。

魚介料理ウィーク

肉料理に肉の名がつくように、魚介料理には魚介の名がつく。ところが、牛・豚・鶏などの肉類と違って、魚介の名にはローカル色が強く出る。クロダイをチヌと呼ぶ土地があり、ブリは大きさや地域によって、ワカシ、イナダ、ワラサなどと呼び名が変わる。広島県の備北で食べられるワニの刺身は、あの爬虫類のワニではなく、サメやフカのことである。水産国だけに魚介類の語彙は豊富だ。

特に意図したわけではなく、単なるめぐり合わせで先週は魚介料理を食した一週間になった。どれも予算1,000円以下のお手軽ランチ。

🥢 カサゴの唐揚げ

カサゴが売られていたので買い求め唐揚げにした。この魚にはガシラという別名がある。グロテスクな魚で頭部の特徴が際立っている。見た目と違って白身は上品。しっかり揚げても太い骨ごとガッツリというわけにはいかない。ご飯のおかずにするなら煮付けがまさる。

🥢 イカと野菜のXOジャン炒め

イカは万能の食材である。真剣に向き合えば、料理のレパートリーが広がる。イカは好物だが、稀にしか食べない中華料理のイカが好み。日替わりが「イカとブロッコリー」や「イカのXO醤炒め」などと知れば、躊躇なく指名する。中華ならではの包丁の入れ方が美しい。

🥢 海鮮丼

若い頃のワクワクしたご馳走感はなくなったが、海鮮丼にネタがいろいろ乗っているだけでいい店だと評価してあげたい。海鮮丼のご飯が「白飯か酢飯か」という目立たない論争があるそうだが、別にこだわらない。海鮮丼は醤油とわさびの使い方が厄介である。

🥢 チュクミポックム 

韓国料理はいろいろと食べてきたが、これは初。イイダコの辛味炒めである。覚えにくい名前なので撮った写真に注釈をつけておいた。イイダコはさほど安い食材ではないのに、5匹も盛られていた。ところで、魚介とは「魚と貝」なので、先のイカもこのイイダコも、正しく言うと、魚介ではない。しかし、精度を期すまでもなく、どんなものが魚介、海鮮、シーフードの食材であるかは、供する人と食する人どうしはよくわかっている。

忘れ物と物忘れ

「忘れ物」をしてしまうのは注意が行き届いていない時である。忘れ物は、わざとすることはなく、たいていうっかり・・・・してやってしまう。必要な物を持たずに外出したり、傘を置き忘れて帰ってきたり。忘れるのは物だけではない。アポや予定などの「忘れ事」もある。

まったくぶれないルーチンを日々こなしていると、置き忘れ、持ち忘れ、やり忘れは少なくなる。たとえば、鍵をなくしたとかどこかに置き忘れたとかは、記憶力の問題ではない。その種のミスは、ルーチンから外れた行動をする時に生じやすくなる。たとえば、いつものバッグを別のバッグに替えるなど、普段と違うことをするとミスの原因になる。

創意工夫の人ほど新しいことにチャレンジするので、ミスのリスクもそれなりに背負うことになる。他方、ミスや忘れ物の少ない人はルーチン型であり、飽きずに同じ行動を繰り返せる人である。毎日同じルーチンをしているにもかかわらず、ミスや忘れ物をするようになったら要注意である。

先日、NHK-BSで『世界ふれあい街歩き』を見ていた。街歩きして話しかけたりナレーションしたりする女性の声がキムラ緑子だとわかり、顔も瞬時に浮かんだ。番組には「寄り道コーナー」があり、男性が担当している。いつも栃木弁の声を聞き分け、顔も名前もすっと浮かぶが、その日に限って名前が出てこない。番組が終わってからしばらくして、「つぶやきシロー」だと言えた。すぐに思い出したので「ど忘れ」である。

元々知らないことは忘れもできず思い出すこともできない。以前に知っていたし覚えてもいたものごとを思い出せないのを「物忘れ」という。昨日までふつうに再生できていたことが、ふと今だけ記憶からすぐに呼び戻せない。これが「ど忘れ」だ。次の日に思い出せたら気にすることはない。

顔は思い出せるが、名前が思い出せないというケースは年齢や疲れによって頻繁に起こってくる。顔がわかれば良しとしておけばいい。人名や店名や地名などは、思い出す時もあれば忘れる時もある。しかし、顔と名前の両方を忘れて「どちら様?」と聞くようになったら、単なるど忘れではなく、記憶機能の問題かもしれない。それを認知症という。

「偶察」をめぐって

 偶察ぐうさつ? 耳慣れないことばだなあ。観察と何が違うのか?

 「人々の暮らしを観察する」と言う時、客観的に見えるかどうかはさておき、観察とは、物事の状態や変化を注意深く見ることだろう。仏教では観察を「かんざつ」と読み、智慧によって対象を正しく見極めることを意味する。もっとも何が正しくて何が正しくないかはよくわからないが……。

 

これに対して、偶察とは、読んで字のごとく、「偶然に察知すること」。近年話題になっている「セレンディピティ」の超訳。偶然の産物とか、たまたま幸運を手に入れる能力とか……。観察を客観的または常識的だとすれば、偶察には常識の縛りやルールを排除する特徴がある。

 偶然頼みの観察のように聞こえるけれど、はたして確実性の低い偶然に期待していいものだろうか。

 澤泉重一が著した『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』から一節を紹介しよう。

「これまでにやったことがないからダメだ」という規制力は、自己の内部からも、他人からも、常時働いていると言ってよいが、偶然が強く作用するときには、この規制力が弱まることがある。こんなときこそ、セレンディピティが成果を上げるときであり(……)

 これまで気づかなかったことに気づく。見えなかったものが見えてくる。いや、見えざるを見ると言うべきか。透視術を身につけたわけではないのに、なぜ?

 セレンディピティは超能力ではない。いくら頑張っても見えないものはある。他方、わずかに見えているものから見えないものを見透かすこともできる。想像や仮想というのはそういう働きにほかならない。

馬の脚が4本だと知っているので、2本しか見えてなくても馬だとわかる。これも見えざるを見る。モノAとモノBを見ていて、そこにはない、これまで見たことのないモノCを発見する。これも見えざるを見る。後者が偶察で、新しい着眼につながる可能性を秘めている。

なお、未知のことを既知に照らし合わせて理解しようとする時、既存のパラダイムに縛られることになる。未知に遭遇するたびに既知の一部を自壊させるリスクを冒さないと、セレンディピティは生まれない。

 こうして聞いていると、何だか「万に一つ」のような話に思えてくる。いつでも誰にでも起こることじゃないよな。

 実を言うと、誰もが日々目新しいアイデアを生み出している。頭の中では無尽蔵に浮かんでいる。しかし、分別をわきまえた成人は、常識や不可能というフィルターをかけて「関係なさそうなもの」や「役立ちそういないもの」を無意識のうちに捨ててしまっている。セレンディピティの恩恵に浴するためには、常識的に見捨ててしかるべきことを見捨てずに残しておいて気にとめないといけないのだよ。

音声か、文字か?


部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」
部長「いつわかったんだ?」
部下「昨日の夕方です」
部長「なぜもっと早く言わないんだ⁉」
部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです

上記のやりとりはジョークだ。しかし、文字面を見るだけではジョークだとわからない。文字ではこのおもしろさを仕込めないのである。

「なぜもっと早く言わないんだ⁉」と注意された部下は、「早く」を話すスピードと勘違いし、最初に告げた「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」を、今度は早口で繰り返した。文字では下線部のせりふを早口で言ったことまで表現できない。

「ほら、やっぱりね。文字で表わせることには限界があるんだ。ぼくたちは生まれた時から、ことばをまず音声として聞き、そして音声を真似て発話する。文字はもっと先になってから学習する。つまり、音声あっての文字なんだ。落語を文字で読んでもおかしくも何ともない」……こんなことを言う人もいる。

なるほど……と思わないわけではないが、音声が文字よりも優位ということにはならない。昔の回覧板も今の電子メールも、メッセージは文字で伝えられる。留守電というのもあるが、聞きづらいし聞き間違いもよくある。音声だと「今週と今秋」の違いが出せない。精度を期するなら文字なのだ。

やっぱり文字を優先すべきなのか。いやいや、そうではない。タイトルを「音声か、文字か?」という二者択一で書いたが、ことばの伝達精度を高めようとすれば、「音声も文字も」と欲張らねばならない(もし可能なら、ここに絵や写真も加えたい)。

音声と文字で伝えてもらって腑に落ちる。但し、声に出しても文字で読んでも仕掛けがすっとわかるとはかぎらないこともある。仕掛けがわかっておもしろいと感じたものの不思議な異化感覚に包まれることもある。次の「段駄羅だんだら遊び」などはその典型である。

抜き書き録〈テーマ:プチ哲学〉

言語と表現のテーマ探しの依頼があり、いろいろ自前でネタを出している。一息ついて、ヒントのヒントくらいになりそうな本を何冊か引っ張り出して再読中。


📖 意味

意味は存在するものではなく、生成するもの(……) 意味は、客観的に存在していたものとして捕まえられるのではなく、不意を突いてわたしの世界に到来する。わたしが意味を見出すまでは、意味はどこにもなかったのに、見出したあとでは、それによってわたしの過去までも変えられてしまうほどである。
(船木亨『メルロ=ポンティ入門」)

「意味」は難しい用語である。「意味の意味」はさらに難解を極める。「意味がある・・」とよく言うけれど、意味は事態や術語や行為などに元々内在していない。内在していないから、事態や術語や行為などに意味を見出す(正確に言えば、「意味を付与する」)。ゆえに、意味は生成するものなのである。

買ったまま昨日まで積まれていた数冊の本のうち、一冊の本を手に取って適当なページの数行を読んでみて、「ちょっとおもしろそうだ」と自分を促そうとしたその時その場で意味が付与される。意味が生まれるかどうかは自分次第なのだから、意味を見出さない誰かさんにとってはその本は無用なのである。

📖 言語

「机」という言葉は、この世界にある、数えきれないたくさんの机を意味している。けれども、「机」の意味を理解するのに、そんなにたくさんの「机」を見る必要はない。私たちは有限個の、それも、ごくわずかの机を見るだけで十分なのだ。
(橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム」)

世の中には様々なサイズとデザインと素材でできた机が存在する。机の専門家はおそらく世界のすべての机を見たり触れたりはしていない。机についてすべてを枚挙するいとまはない。しかし彼らは机を深く理解し、机を語り、机を創作することができる。有限個がいくつかは具体的に言えないけれど、いくつかの机によってすべての机に共通する特性を理解する能力が人には備わっている。

赤ん坊は語彙ゼロの状態から語彙を習得し、言語を理解し操るようになる。こうした「一を聞いて十を知る」特殊能力によって人は省エネ的に言語を習得し、言語のお陰で何もかも実際に体験しなくても理解力を身につける。

📖 論理

言葉と言葉の関係をつかむこと、それが論理的ということであるから、接続詞に代表される接続表現、すなわち言葉と言葉をつなぐ言葉は、論理によってひときわだいじなものとなる。
(野矢茂樹『哲学な日々――考えさせない時代に抗して』)

単語であれ文章であれ、一語または一文だけで成り立つ場合はそこに論理はない。たとえば、「雨」「桜」には論理はない。しかし、「雨の中、桜が咲き誇っている」と言えば、状況描写がおこなわれ、また「雨が降っても桜まつりは開催される」と言えば、情報が伝達される。この一文と別の一文をどうつなぐか。そのつなぎ方によってメッセージの中身も伝わり方も変わる。たとえば、「雨が降っても桜まつりは開催されるので、購入した前売りチケットの払い戻しはない」という具合。これは「AなのでB」という、論理のある文章である。接続詞の使い方を見れば、人の考え方や論理力の程度がわかることがある。

語句の断章(52)「もんがまえ」

構える格好をした漢字がある。たとえば門や口や包がそうだ。何かに反応したり備えたりして身構えているのではなく、それぞれ「もんがまえ」、「くにがまえ」、「つつみがまえ」という部首として漢字を構成している。住居の実際の門構えの意であり、部首の名称である「もんがまえ」が象形文字としてわかりやすい。

もんがまえの漢字はJIS1・2水準で64字あり、言うまでもなく、すべての漢字が「門」のDNAを引き継いでいる。最たるものが「開ける」と「閉める」だ。門あるところ、必ず開閉が伴う。開の「开」はケンまたはカイと音読みし、両手で門をあける様子だという。では、閉じるの「才」は? 突っ張り棒の斜め使いと直感したが、特に意味はなく、何となく門に才を合わせただけらしい。

もんがまえの漢字でユニークなのが「閃」。門の中に人がいて「ひらめき」とはこれいかに。実は、ちらっと見えたかと思うと隠れて見えなくなる様子。ずっと見えているのではなく、ちらっと見えるから一瞬ピピっとひらめくような感じがする。

「閑」はカン。「しずか」や「ひま」と訓読みする。門の中に木を配置しているが、木が門の前にあって門を遮っている状況という解釈がある。この場合は、「しきり」という成り立ちになるとか。

象形文字としておもしろいのが「閂」。「かんぬき」と訓読みする。門という字は見ての通り両開きの構造になっている。左右の扉が勝手に開かないように、一本の横木を通す。閂はその様子をよく示している。

もんがまえの64の漢字をすべてチェックして、「もんもんとする」の「悶」がないことに気づく。悶はもんがまえではなく、心を部首とした「りっしんべん」だと知る。ついでに補足すると、「問」も「聞」も門越しに誰かが問い誰かが聞いている雰囲気があるが、どちらももんがまえではない。問は「くちへん」で、聞は「みみへん」である。

パスワード人生

♫ 人生いろいろ ユーザー名もいろいろ パスワードだっていろいろ 咲き乱れるの

サービスを利用するたびにユーザー名とパスワードでログインする。認証されればサービスが受けられる。とても面倒くさく思えるが、自分の家に入る際にも「鍵で解錠ログイン」し、出掛ける時は「鍵で施錠ログアウト」する。あれと同じことだ。問題は鍵に相当するパスワードがどんどん増えて忘れてしまうこと。忘れないように手帳に書き留めたりすると、パスワードの漏洩リスクが高まる。覚えるのがいいが、忘れにくい単純なパスワードを使い回すことになる。

パスワードとは合言葉。自分とサービスの提供先との間であらかじめ取り決めた文字・数字の組み合わせだ。サービスの提供先に行くために、まずスマホやPCなどの情報機器を操らねばならない。情報機器へのログイン時に入力する合言葉が、事前に登録したものと一致すればサービスを受けることができる。ぼくは大丈夫だが、四苦八苦している知り合いのシニアユーザーは少なくない。

英語の“password”も秘密の単語やフレーズだが、機密情報にアクセスするのが本来の目的である。さらに語源を遡れば、味方と敵を識別するためにあらかじめ定めた暗号に行き着く。一方の忍者が「山」と問い、他方が「川」と答えれば味方だとわかり、近づけたり門を開けてくれたりする、あれがまさに昔のパスワード認証だった。パスワードにもパスポートにも入っている“pass”は通行許可の意味。

ホテルのチェックイン時に「ご宿泊のお客様限定の割引券」をもらった。券面には「パスワード・・・・・でお食事されたお客様にお飲み物をサービス致します」と書いてある。入店時か支払時にパスワードを入力すればサービスが受けられるのか。割引券をよく見、電話や電源のそば、部屋のあちこちを探したが、パスワードらしきものは見当たらなかった。「ま、いいか」と諦めて1階の食事処へ行けば、店の名が『パスワード』だった。実話である。

パスワードは、自分で作ったものであれ自動的に生成されたものであれ、完璧に記憶したつもりが、しばらくすると忘れてしまい、紙に書いても紙を紛失してしまう。リスクを低くするためにサービスごとにパスワードを変えるから、日に日に増えていく。パスワード人生はストレスが溜まる。