抜き書き録〈テーマ:ありよう〉

📖 『禅語録』抄録版

握ればこぶし、開けばてのひら

握ると怒りになり、開くと心が通じる。指と掌の形によって意味が反対になる。グー、チョキ、パーと役割が変化するのも同じ。同じ指と掌なのに勝ったり負けたり引き分けたりの結果が生まれる。

水は方円の器に随う。水は器という対象に応じて形を変える。ものの本質は一定した不変のものではない。視座によってものは違って見える。実は、違って見えるのはものの本質ではなく、見る者の心の、精神の、ことばのありようを反映する。

📖 『ゲーテ格言集』

当為とういと意欲があるが、能力がない。
当為と能力があるが、意欲がない。
意欲と能力があるが、当為がない。

㊟ 当為はドイツ語のSollenゾルレンの訳。「なすべきこと」(時に「あるべきこと」)という意味に近い。自分が持つテーマ/生きがいと考えればいい。

なすべきことを成す気は満々だが、残念ながらそんな能力がない。なすべきことを成す能力があるが、一丁やってやろうという気分ではない。やる気も能力も十分にあるが、成すべきことが何かを知らない。人が何事かを成すには、当為と意欲と能力の3点セットが欠かせないわけだが、3つに分けているあいだはうまくいかないような気がする。

📖 『ここにないもの 新哲学対話』(野矢茂樹著)

「何かをことばで言い表わすと、そこには何か言い表わしきれないもどかしさみたいなものがつきまとうことがある」
「そのもどかしさっていうのは、そこまでことばで言い表わしたからこそ、姿を現したものなわけだ」

特別な工夫も努力もしていないのに、何かを思いついたり、その思いつきをことばで言い表わせたりすることがある。「ラッキー!」などと言って喜ぶが、実は、そんな単純なものではない。何もしていなかったら、何も現れてきたりしないのだ。自覚はないのかもしれないが、どこかで苦心していたはずである。今のありようが別のありように転じたことを偶然などと思ってはいけない。「わからないこと」が「わかる」ようになるのは、考えることとことばにすることのもどかしさを越えたからである。

何人かの「あの人」たち

「あの人」。親しい人をそう呼ぶ場合もあるが、ぼくが「あの人」と言う時は、おおむね遠い関係にあり、あまり感情移入することもなく、少し離れて観察している人を指している。過去形の人物だが、何かがきっかけになって時々ふと浮かぶ。

👤 あの人は「何か問題がないかね?」とニコニコしながらやって来た。そして「特にありません」と言うと、急に物足りなさそうな顔をして寂しそうに去るのだった。あの人は問題が生じるのを楽しんでいた。問題を解決することが自分の使命だと思っていた。だから問題がないことが不安。本来問題でないものまで問題に「格上げ」する人だったので、仕事場はつねに有事の様相を呈していた。

👤 「ぼくは青二才なんですよ。いや、幼稚というほうが当たっているかな」とあの人は言った。あの人が話す文の主語はつねに自分だった。知り合ってからかなり年月が経っても本心がよくわからなかった。交流会などで名刺を交わして一言二言会話をしただけで「意気投合した」と見なすような人だった。話し方も話すこともタテマエっぽかったが、もしかするとホンネだったかもしれない。

👤 あの人はすべてのことに理由があると考えていた。仮に理由がないことに気づくと咄嗟に理由を後付けしたものである。「よく食べますね」と聞くと「好きだからねぇ」と答える。「○○はあまり食べませんね」と聞くと「嫌いだからねぇ」。理由と好き嫌いは相性が悪いはずなのに、好きだ嫌いだと言ってけろりとしている。好き嫌いは「さが」ではないのか。それを判断基準の根底に置かれては話が続かない。

👤 雑談の場で尊敬している人物がいるかどうかという話になったことがある。「誰を尊敬してるの?」と聞いたら、あの人は「人生、みな師です」と答えた。いつも会話がすれ違った。波長が合わなかった。

👤 あの人は「当社の経営理念? 社会貢献です!」ときっぱりと言った。社会貢献が経営理念とは……。ぼくはつい言ってしまった、「悪いけど、それは経営理念ではなく、あなたの経営情念・・ですよ」。気分を害したのだろう。その時を最後にあの人とは会っていない。

古本よもやま話

古道具や古着や古本には、かつて売られた定価よりも高値がついているものがある。手に入りにくくて希少であり、それを欲しがる人が多ければ高額になる。古物市場では〈需要>供給〉なら値段が上がり、〈供給>需要〉なら値段が下がる。後者の、値段が下がる場合にいいものが稀にあり、それを「掘出し物」と呼ぶ。

古本屋で手に入れたい本が見つかれば――見つからなくても同じジャンルでよさそうなものがあれば――たいてい買うようにしている。あまり迷わない。基本500円以下の安いものをいろいろ漁っているうちに掘出し物に出合う。稀覯本きこうぼん蒐集マニアではないので、高値のついているものはよほど欲しくてもめったに買わない。

夏目漱石の『心』『道草』『明暗』の3冊セットの復刻版(函入り)を岩波書店が創業70周年事業として41年前に発行した。これを見つけて買ったのがたぶん20年位前で、定価のない非売品である。文字通りpricelessプライスレスだが、古本屋がつけた値段プライス500円。この数字が高いか安いかは判断不能。価値のほどは読者が実感すればいい。


十代半ばから本は自分の小遣いで買うようになった。図書館で本を借りたのは小学生の頃までだ。十代の頃は古本を買わなかったし、古本を遠ざけていた。古書店で売られている本はどれも瑕疵や汚れがあって不潔そうだった。赤インクか血液かわからないような滲みのあるページを触った後に、その手で菓子はつまみづらかった。

比較的新品に近いと思って買ったものの、ページを繰ると意味不明な書き込みや傍線を見つけることがある。この本の前の読者が目を付けた「重点箇所」が刷り込まれるようで嫌だった。今では普通に古本を買うが、なるべくそういうシルシのないものを選ぶようにしている。新品同様の古本でも誰かが売り誰かが読んだはずだから、古本を読めば誰か知らない他人の指紋をなぞっていることになる。以前ほど神経質にはならない。


ずいぶん前に『芭蕉全句集』の単行本を300円で手に入れた。昭和51年(1976年)3月発行の初版本で、発売当時の値段は1,200円。作句年代順に配列され、一句ずつ丁寧な注釈が付いている。今は角川ソフィア文庫から現代語訳付きで出ているが、初版の単行本サイズの雰囲気には及ばない。よく精査して偽作や誤伝を除くと、芭蕉の生涯の句は976だそうである。固有名詞や季語さえわかればスイスイと読める。

ところで、先月頂戴した大島幸男氏の第一句集『雪解』に収められた作品は384。芭蕉の作品の約4割だが、芭蕉全句集の数倍以上の時間を費やして一巡目の味読(分析?)を終えた。秀句も多いが、風流な語彙と異文化に攻められて苦戦した。この半月は記録的によく辞書を引いたと思う。今日から二巡目に入ったが、慣れのせいか心持ち軽く感じている。

「店主体調不良につき……」

お好み焼き・焼きそばの店のシャッターに紙が貼ってあった。数年前に一度来たことがあるが、昨日はたまたま通りかかっただけ。仮にわざわざ来たとしても、残念がることはないし、顔も覚えていない店主の体調を気遣うこともない。

臨時休業という突然のお知らせに、個人的な理由が付記されるのが目立つこの頃である。昔は「臨時休業」と要点だけ掲げるか「本日〇月○日」と書き加える程度だった。日付を書かずに「本日、臨時休業」はあまりよろしくない。次の日の開店前に見たら、その日が休みだと思うからだ。

ご丁寧に体調がどう悪いのかまで書いているのがある。「腰痛のため」とか「発熱のため」ならまだいいが、わざわざ「持病の・・・腰痛」とか「38℃・・・の熱」とか「利き手の・・・・ケガ」などと書くと、特定の常連を意識している。これは、もしかすると、SNSの影響かもしれない。体調の悪さや身内の病気のことなどを頻繁に伝える人がいる。めったにいい話を書かない。こういうのを「不幸自慢」と言うが、そんな話を読んで同情するには及ばない。

店主やスタッフの体調不良以外でよくあるのが、「運転免許の更新」「身内の不幸」「子どもの入学式」「バイトの休み」。人物以外では「ガス器具の故障」「食材の入荷遅延」などがある。マジックインクでささっと書いたのであればまだしも、ワープロで打って印字してあったりすると、臨時休業用のテンプレートで気合を入れて作っている感じがする。

「バイトが体調不良になり、店主が一人でやりくりできないため、本日は臨時休業とさせていただきます」などという、どう反応してあげればいいのかわからないお知らせもある。都合により臨時で休業することは珍しいことではない。いさぎよく「本日(〇月〇日) 臨時休業します」と書けば済む。お知らせ以上のものを望む人がいるとは思えない。敢えて付け加えるなら、「わざわざお越しいただいたお客様」という一言でいい。

バイトの責任にするのはみっともない。そもそも臨時休業に理由なんかいらないのだ。特に不幸な理由は絶対にいらない。幸せな理由ならあっても目障りではない。イタリア料理店の「〇月〇日から〇月△日まで休業します。店主、カタールへ行って日本を応援してきます」は爽やかなメッセージだった。

一人で切り盛りしている店にも臨時休業のお知らせが貼ってある。店主は体調不良なのに、紙を貼り出しにわざわざ店に出て来たのだろうか。店主が紙を貼り出しているシーンに出くわしたことは一度もないが、見てもたぶん別に何とも思わないのだろう。

語句の断章(54)「画竜点睛」

最初に「画竜点睛」に出合ったのは十代の半ばだったと記憶している。画竜を当然のように「がりゅう」と読んだが、後日それは間違いで、正しくは「がりょう」だと知った。しかし、後年、ある辞書に「がりゅうとも読む」と書いてあった。「がりょうてんせい」に慣れていたので、変えずに今に到る。

早合点がもう一つある。点睛のを、天気のはれだと勝手に思い込んだ。「点に晴」でどんな意味になるのか調べもせずに。「絵に描いた竜を明るく照らす」というような意味に解釈したと思う。これも辞書にあたる機会があり、睛が「ひとみ」のことで、点睛とは「ひとみを描き入れる」の意であることを知る。

画竜点睛は「りょうえがいてひとみてんず」と読み下す。竜の絵を描いたら最後に竜の目を入れるとは、物事を完成する最後の段階で一番肝心な部分を仕上げることを教えている。四頭の竜の絵を描いた名人が、ひとみを描き入れると竜が飛び立つからと言って瞳を描かなかった。人々は「そんなバカな! ウソだろ!」と言って名人に迫り、無理やり瞳を描かせた。すると、ひとみを入れた二頭の竜がたちまち天に昇った……。六朝時代の故事に由来する。

この四字熟語、ほとんどの場合「画竜点睛を欠く・・」という用い方をして、最後の仕上げが不十分だったり要が欠けたりすると出来映えが悪くなるというメッセージとして表現される。画竜点睛という物語にすでに「全体ができた後に最後の仕上げを忘れるな」という教訓が込められている。

だいぶ前の話だが、ぼくの講演の後に、司会者が見事に講演内容をまとめてくれたことがある。今日の話からよく学ぼうと上手に聴衆を鼓舞し、ぼくへの謝辞も丁寧に述べていただいた。最後に「本日多忙な折にお越しいただいた〇〇先生にもう一度拍手をお願いします」。鳴りやまぬ拍手。〇〇には「岡野」が入らなければいけないが、別の名前だった。ひとみが入らなかったのでぼくは天に昇れず、後味悪く床を這うように会場を後にした。

フジコ・ヘミング/哀悼と愛惜

ピアニスト、フジコ・ヘミングが去る421日に亡くなった。92歳。亡くなった人の生前を偲んで長い間悲しむことはないが、その人の残したことばを巡って足跡や仕事を名残り惜しむ日々は続く。フジコ・ヘミングはそんな人だ。

四半世紀前、リストの楽曲『ラ・カンパネラ』のことは知っているという程度だった。当時イタリア語を独習していて、教本の中の小さな物語やエッセイの中に必ずと言っていいほど“campanella”が出てきた。教会につきものの「鐘」は頻出語である。

不遇の時代を過ごしてきたが、1999年のNHKのドキュメンタリー番組がきっかけになって、ファーストアルバムの『奇蹟のカンパネラ』がクラシック界では異例の200万枚を売り上げた。フジコ・ヘミングは時の人となりブームが起こった。60代後半になってようやく名が知れる遅咲きだった。

フジコ・ヘミングの本が2冊書棚に収まっている。『フジ子・ヘミングⅡ  ピアノがあって、猫がいて』は20004月の発行、『フジ子・ヘミング 耳の中の記憶』が20046月の発行。後者を先に読んだ。その時点では前者の本もドキュメンタリー番組のことも知らない。

『ピアノがあって……」の中で、服飾を担当したデザイナー、西田武生は「とにかく気持が若い。ピアノもスケッチ画も普段の洋服も生活スタイルも、すべてにおいて青春している。大変礼儀正しくマメである」と言って敬意を表している。ぼくの周りのシニアで若々しい人にマメという共通点がある。

もう一冊の『耳の中の記憶』に次の一文がある。

今なお、私がこうしてピアノを弾いていられるのは、私の空想癖とそうした夢の世界へ導いてくれる愛しい宝物たちの存在のおかげ(……)

ますます長くなっていく人生の生き方にインスピレーションを授けてくれているようだ。

無償の鑑賞は一味違う

大阪城天守閣、天王寺動物園、慶沢園、大阪城西の丸庭園、城北菖蒲園、長居植物園、大阪市立美術館、大阪市立科学館、自然史博物館、東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」、咲くやこの花館

大阪市内に住むシニアは上記の市立の文化施設に無料で入場できる。常設展だけでなく企画展や特別展へも優待されるのはありがたい。都合よく、大阪城天守閣、大阪市立科学館、東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、大阪くらしの今昔館は拙宅から徒歩圏内にある。

先週、大阪くらしの今昔館の企画展『春夏秋冬 花鳥風月に遊ぶ』を見てきた。


印象的だった『四季図屏風』は寛政7年生まれの大阪の画人、玉手棠洲たまてとうしゅうの作。 右隻うせきは右端の第一扇「梅に鶯」から第六扇「瀑布ばくふ」まで、左隻は右端の第一扇「蓮とカワセミ」から第六扇「きじと鷹」まで。他に、七五三や盆踊りなどの歳時を絵に現した作品など、風流の学びになった。

その鑑賞と前後して、オフィスのポストに書籍が入っていた。俳人、大島幸男先生からの献本である。雪解は、ゆきどけではなく、「ゆきげ」と読む。ご本人やお仲間の評にあまり詳しくないが、かねがね難解な句を作る人だと思っていた。じっくり読んでいるのでまだ読了していないが、ユニークな着眼と豊富な語彙が相まり、純文学の香りのする知的な句が並ぶ。ルビを振っておいてほしい表現がどんどん出てくる。

これが第一句集とは……力量からすれば、すでに第七句集くらい上梓していてもいいほどなのに。ご本人は「トイレにでも置いて少しずつお読みください」とおっしゃるが、そんな軽い作品集ではない。お祝いとして倍返しの食事をご馳走するつもりだが、句の話などせずに、くだらない雑談ばかりしそうな予感がする。

今週書店に立ち寄れば、無料の本が置いてあった。どちらも講談社のもので、現代新書と理系のブルーバックスの図書ガイドだ。ブルーバックスは興味深いテーマが多く、今も本棚に数10冊保管してある。現代新書は岩波新書と中公新書の次によく読んだ。このPRを兼ねた無料の2冊が、見事な読み物になっている。一気に読んだ。

久しぶりにかつて自治都市だった平野郷あたりを散策した。メトロの平野駅で下車するのは初めてだ。何となくかつての面影があるのに、商店街は閑散としている。大阪24区で一番人口の多い区だとはとても思えない。全興寺という寺の前に出て境内に入ると、古い民家が一軒あり、「小さな駄菓子屋さん博物館」の看板。いわゆるよくある昭和レトロの展示だが、懐かしい。後で調べたら、聖徳太子が建てた寺だとわかった。

ほんの少し春を惜しむ


4月と5月を振り返ってみると、わが居住地ではちょうどよい気温が続き、おおむね快適に過ごした日が多かった。一昨日も昨日も、近年の五月とは違って、微かに記憶に残る昔の春の感じだった。今朝も清々しい空気の中を156分歩いて事務所にやって来たが、部屋に入るとちょっと気配が違う。少なくとも昨日とは違う。もしかして、春との決別の日が近づいているのか……。

東に向いて歩く朝、眩しい陽射しに春を惜しむ。
「今日はアイスコーヒー」と呟いて春を惜しむ。
窓際のガジュマルの剪定をしながら春を惜しむ。

惜春と言ってはみたものの、寂寥感にさいなまれるほど惜しんでいるわけではない。去り行くものすべてに覚えるいくばくかの物思い程度にすぎない。ともあれ、春の名残はなくなり余韻も消えて、まもなく五月が終わろうとしている。五月が終わって六月になっても、ハンカチがフェースタオルに変わる以外、日々のルーチンは大きくは変わらない。

五月が終わる頃、井上陽水の『五月の別れ』の歌詞を思い出す。

風の言葉に諭されながら 別れゆくふたりが五月を歩く
木々の若葉は強がりだから 風の行く流れに逆らうばかり
鐘が鳴り花束が目の前で咲きほこり
残された青空が夢をひとつだけあなたに叶えてくれる

風の言葉に諭されてみたいと思うし、諦め上手にならずに、時には強がりな若葉を見習ってみたい。この少し後に「星の降る暗がりでレタスの芽がめばえて」という一節があり、芽がめばえるなら暗がりもまんざら悪くないと思ったりする。ちなみに、レタス炒飯よりも挽肉のレタス包みのほうが好きだ。

惜春は五月の特権である。四月に春を惜しむのは早すぎる。ところで、四月の歌と言えば? 若い頃によく聴いた英語の“April Love”(四月の恋)が一番に浮かぶ。パット・ブーンのあの透明感のある甘い声が懐かしい。てっきり亡くなっていると思っていたが、ご存命で次の61日に90歳になられる。

古来人々が春を惜しんだのは、梅雨の季節にわくわくしなかったからだろうか。初夏や六月にも風物詩の魅力があるはずなので、待ち遠しくなるような風物詩を発見するか発明したいものである。

街角からのヒント

🔃 「いつまで仕事を続けるのか?」と他人に聞かれたことはない。カフェで自問したことはある。「仕事を続けているかぎり、平日ではない〈週末〉を毎週迎えることができる」と自答した。

🔃 複数の仕事の一つ、講師業から昨年手を引いた。これで小難しいことを考えなくてもよくなるとほっとしたが、闇の中で藻屑と化した知識や知恵が一点の小さな光明こうみょうに出合っったかのようによみがえる時がある。

🔃 力を失って低迷するA(というモノ、人、場……)に替わって、期待を背負ったBが現れる。うまくいけばいいが、仮にBも低迷するようなことになれば、もうすでにないAに戻ることはできない。ABも失ったらどうなるのか……決して不安に陥ることはない。どうにかなるから。

🔃 様々な関係の中を生きていくためには〈順接〉だけでは不十分で、順接と同じ数の〈逆接〉も用いなければならない。

🔃 漢字の標識よりもアルファベットの標識のほうが洒落て見えるのは、たぶんに偏見である。表意文字を見慣れているから、表音文字が新鮮に見えているだけだ。精通していない外国語の地名など、地名の文字が意味を伝えていない時、標識そのものがビジュアル的な存在になり、アート性の強いデザインと化する。示される矢印の方向がかなりアバウトなのも悪くない。

🔃 『はずれ者が進化をつくる』という本を再読した後に街角に佇めば、個性に溢れ、答えがなく、ありのままに理解することはできず、普通や平均のない街の形相が見えてきた。読書して知り過ぎることはないが、少し本を読んでおくほうがいろいろと見えてくる。もちろん、街角も本と遜色のないヒントを授けてくれる。

🔃 場の記憶、人の記憶、過去の記憶……記憶のおかげで世界が広く見えてくる。記憶のおかげで、過去と現在と未来がつながっていることを実感する。

対比する日々

二つ(または、それ以上)のものを比べるのが対比。仮に二つとして、何のためにその二つを比べるかと言うと、違いを明らかにするためだ。まったく同じものを対比してもしかたがない。

🌸 一本の樹木に「サクラの仲間」と書いた札が付いている。サクラの仲間はサクラと対比されているのだが、「違う、似ている、同じ」のいずれの意味なのかわからない。仲間だから「サクラ組」に属しているはず。単にサクラではなく、サクラの仲間と書くことにこだわったのは、同じではなく違うという判断をしたからだ。
ホットコーヒーを注文したのに、「こちらホットコーヒーの仲間になりまーす」と言って持ってきたら、アウトだろう。

📅 今日と明日は違うにもかかわらず、「明日がある」と自分を励まして、今日の自分がほっとしている。明日は今日を担保しない。
近所に「今日しかない」という名前の店があった。今日しかないという主張に明日に期待しないぞという覚悟があったと思うが、残念なことに店じまいした。
カレンダーを見たら今日の次が明日だから、今日と明日はつながっているような気になる。今日が終わらないと明日が来ないのだから、明らかに別物である。

🍃 鉢植えの観葉植物が枯れた翌日に、たくましく息遣いをしているような名も知れぬ雑草を路傍に見つけた。しばらくその雑草を見ていた。ぼくに観られていたという点で、あの草を観葉植物の仲間と呼んでもいいかもしれない。

⌚ 本で読んだ経絡体操のストレッチを自己流で何十年もやっていたが、元体操選手のYouTubeの動画が良さそうだったので、先月から毎朝ストレッチをしている。身体と股関節をやわらかくするストレッチ。
ストレッチとエクササイズやフィットネスとの違いを知らないが、何に効くのかは告げられるまま。軽い動きなのに普段使わない筋肉に負荷がかかっているのが実感できる。可動域が日々少しずつ大きくなっているのがわかる。但し、20±5分を目安にしているが、5分間増やしたり減らしたりして対比するが、効果の違いはわからない。