抜き書き録〈テーマ:夏の歳時記)

📖 『日常の極楽』(玉村豊男)

樹木が減ると、そのあたりは涼しさが減る。
そしてそこにコンクリートの建物でも建てられれば、ますますあたりには熱が漂い停滞することになってしまう。いわゆる、「都市気温」(……)

「地球温暖化」のせいで暑いとぼやいても現実味がない。地球温暖化という概念が大き過ぎるのだ。今住む街の昔と今を比べれば、街の「構造」が変わっていることに気づく。今日のような午前10時で33℃なら、公園沿いの木陰を歩けば34℃は低く感じる。アスファルトのない公園の中の木陰ならしばらくベンチに座っていても耐えられる。今日の午後2時に大阪の気温は38℃に達するらしいが、都市気温的に言えば、これは40℃超えを意味する。体感は優に45℃超えかもしれない。

📖 『最近日本語歳時記』(稲垣吉彦)

山梨県から静岡県へ抜けて太平洋にそそぐ富士川は、山梨県では「フジワ」で、静岡県に入ると「フジカワ」になる。「ガワ」が「カワ」へ、下流にいくと濁音が清音に、水質と反対に地元での発音が変わる。実際には、川をはさんで右岸と左岸で「カワ」「ガワ」が交錯して、そう簡単に割り切れないらしいが。

身近なところでは、上流の瀬田川と宇治川は「ガワ」、その水系を受け継ぐ、淀川は大阪湾に近づいても「ガワ」と濁り、「ヨドカワ」にはならない。

近くを流れる旧淀川の大川は「オオカワ」。海を控えているからと納得しかけたが、その大川から大阪湾に向かって分岐する堂島川も土佐堀川も「ガワ」だ。下流に行くにしたがって「ガワからカワ」という説にはもしかすると例外が多いのではないか。ともあれ、川が夏の風物詩に割り振られることに異論はない。

📖 『歳時記百話――季を生きる(高橋睦郎)

わが国の歳時記を陰翳いんえいぶかくしている重要な一つに忌日がある。俳諧、和歌、文芸、芸術、芸能をはじめ、さまざまな分野に業績のある、かの世の先人たちへの献句によって、その忌をしゅうし、徳をたたえ、魂をしずめ、自分の仕事や生活への加護を願うのが起こりだろう。

すでに実家はなく――いや、実家という概念すらほぼなく、ゆえに帰省や盆というものが世間一般に比べてきわめて希薄だった。
終戦記念日を言い換えた終戦忌、原爆忌などの忌日は、体験者が世を去ってやがて人々の記憶から消える。聞いた話もやがて忘れる。個人や小集団で伝承するのはたやすくない。だから、国や地方自治体に仕切られるのはどうかと思うが、やっぱり年に一度の忌日の式典を国や地方自治体に催し続けてもらう必要がある。

スタミナ料理の実効と気休め

体力に自信のない時にスタミナ料理は逆効果だと聞いたことがある。夏バテ防止を期待してスタミナ料理を食べても、疲れている時は胃腸も弱っているから即効回復は望めない。元気だからこそ、スタミナ料理をおいしく食べて上手に消化して効果が実感できる。

スタミナ料理とは何か? いくつもの説があるが、鰻や豚キムチやレバーのような、タンパク質、鉄、ビタミンB1/B2などの栄養素を含む料理というのが一般的。しかし、スタミナ料理と元気の因果関係はわからない。スタミナが実際につく人とつかない人がいるし、効いてはいないけれど気休めになっている場合もある。スタミナ料理を検証してみたい。


🥢 鰻丼や鰻重は「土用の丑」という語感効果で、スタミナ料理の象徴になり古典と位置づけられた。しかし、夏バテ防止や精をつけようと期待して食べるには高級過ぎる。鰻丼や鰻重は、滅多に口にしないのがよく、素直に「うまい!」と唸っていただくのがいい。お値段が高いほどうまさが増して元気になるように感じるのは錯覚である。

🥢 これでもかとばかりに鷹の爪、おろしニンニク、背脂、ネギが投入された中華そば。疑う余地のない男飯おとこめしで、早食いの客が多い。香ばしさと辛さと脂の複合スープは50メートル先の角を曲がった時点で強く匂ってくる。平らげた者はスタミナがついたと満足するが、そんなにすぐには効かない。確かなことは、ニンニク臭が翌日の昼頃まで残ることだ。

🥢 焼肉店の一番の推しはカルビということになっている。焼肉通は初めて入る店では必ずカルビを注文して品定めをするらしい。隠し包丁を巧みに入れたカルビが出てくるだけで、焼く前から味のイメージが湧き始める。とは言え、牛と豚と羊と鶏を比較すれば牛肉は人気一番で一番値も張るだろうが、スタミナ一番かどうかは検証できていない。

🥢 餃子は、ホルモンと並んで、人気のある元祖スタミナ食である。鰻が「古典」なら、餃子は親しみやすい「庶民」である。テイクアウトして自宅で焼いても十分うまい。庶民的な町中華で学生の頃からよく食べた。メインの一品だけで物足りないと思えば、必ず餃子を一、二人前追加した。瓶ビールでやるイーガーコーテルは真夏に負けない。

背の高い人と背の低い人

最初のオリンピックの記憶は1960年のローマ大会である。その4年後の1960年の東京大会はしっかり見た。日本人選手の金メダリストが全員言えるほど今もいろいろ記憶している。学校でサブノートのような五輪ガイドが販売され、それをいつも手元に置いていた。競技/種目別の金銀銅のメダリストとその国名を書き込めるようになっていた。

さて、パリ五輪もいよいよ最終盤となった。よほどのことがないかぎり、深夜に五輪観戦しないと決めていたので、テレビを見るのは夕方から零時までだ。

スポーツを見ていていつも思うのだが、柔道・レスリング・ボクシングのように体重別に階級が分かれる競技はあるが、身長別に階級を分ける競技はない。身長に関しては誰もが無差別級で闘うことになる。体重差は競技に影響するが、身長差は関係ないという見立てだ。

下記は競技別男子の平均身長である。

プロ野球選手(日本):   179cm
バスケット(世界):    192cm
サッカー代表(日本代表): 178cm
バレーボール(日本代表): 190cm

ちなみにMLBドジャースの大谷翔平は193cm。バスケット日本代表のホーキンソンは208cm。その横に体操で金3個の岡慎之介(155cm)を並べると、倍も違わないけれど、倍以上違うように見えるはず。6月に心斎橋を歩いていたら、バレー日本代表の山内晶大を見掛けたが、204cmがどれだけ目立つ存在か思い知った。

周囲に200cm越えの「日常的存在」はいなかったし、今もいない。学生野球をしていた遠戚が一番の高身長で、たぶん185cmだった。

先週末、レストランで食事を終えようとしていた時、グループが入店してきた。一人が店内を見渡すが席はない。すかさず立ち上がって「もう出ますから、どうぞ」と声を掛けた。後に続いていた中に巨人がいた。「なかなかこんな人には会えない」とつぶやいたら、グループみんなが微笑んだ。「デカいねぇ、何かスポーツやってた?」と月並みに問えば、「バスケットです」と想定内の答え。「今は会社員」と言う。「あ、そう、背が高いだけの会社員?」と、もうちょっとで言いそうになった。

昔、関東に玉川カルテットという浪曲漫才があった。メンバーの一人が身長145cm。浪曲調で「♪ 金もいらなきゃ女もいらぬ わたしゃ も少し背が欲しい」と歌った。身長が売買できるなら、ただ背が高いだけの会社員の25cmを浪曲師に売れば、175cmの会社員と170cmの浪曲師としてハッピーになれるだろうか。

背の高い人はみんな頭をよくぶつける。もう一つ、うんざりするのは「何かスポーツやってた?」と尋ねられることらしい。あの200cmの会社員はうんざり顔をしなかった。聞かれるのを喜びとする人がいても不思議ではない。

誤字・誤植、または表現の違和感

文章を書くことや編集に携わってきたので、校正や校閲の機会も多かった。原稿と仮刷りを照合して誤字を訂正するのが校正。文字に間違いはないが、文章の読みづらさや表現の分かりにくさを改めるのが校閲。自分が書いたものなら遠慮なく校閲できるが、他人様の文章だと勝手に書き換えるわけにいかず、筆者に直接確認したり文案や表現を提案したりする。


✅ 以前よく通っていたイタリア料理店の前を通り掛かった。店は閉まっていた。ドアノブに「closed: sandays and mondays」の表示板が掛かっている。がっかりした。がっかりしたのは、日曜日と月曜日が休みだからではなく、sundaysandayだったからだ。語学に自信がない人ほどマメに辞書を引かない。

✅ 私塾のテキストを京都の主催者に送った。タイトルは『愉快コンセプトへの誘い』。「誘い」は「いざない」だが、ルビを振らなかった。当日配付されたタイトルは『愉快コンセプトへのお誘い・・・』に変更されていた。校閲者は「誘い」を「さそい」と読み、受講者に失礼だと判断して、「お誘い」としたようであった。力抜けしそうなタイトルになった。

✅ ある本に「(……)レストランのシェフと家庭のシュフとは、そこが違う」という一文があった。誤植ではない。家庭のシュフを「家庭のシェフ」に勝手に校閲してはいけない。「シェフとシュフ」だからおもしろいのである。

✅ 「さっさと食事を済ませて、出掛けることにした」。この一文に校正の余地はなさそうだが、「さっさと」でいいのか、「ささっと」ではないのかとちょっと立ち止まる。「さっさと」だと食事の扱いが軽くなる。「ささっと食事を済ませて」なら動作やスピードなので否定的ではない。「さっさと」と「ささっと」は同じ意味だが、書き手の気分の伝わり方が違ってくる。

✅ あまり見聞きしなかった「日常着」。知らない所で、まずまず使われていることを知った。普段着との細やかなニュアンスの違いがわからない。日常着という表現に出合ったら、違和感を覚えるので、ぼくなら「普段着」に書き換えるだろう。しかし日常着を常用している人もいるようなので、その人が校閲したら朱が入らない。校閲には校閲者の語彙体系が反映される。

✅ 二十代の頃の話。一回り以上年上の先輩からの手紙に、「(……)扨て、いよいよ来週に迫ってきましたね」という一文があった。「扨て」が読めない。読めないが、新しい段落の始めなので、「さて」と読んだ。まぐれで正解。この人は著名な文人の甥で、大正生まれでは? と思うほど、ひらがなで済ませられる箇所を漢字表記する人だった(「就中」と平気で書いたりもした)。
「さて」で事足りるのだから、「扨て」でなくてもいいはずと思い、その頃から、「有難う御座います」や「如何」などもひらがなで書くようになった。現代文では機能語はすべてひらがなでいい。

ランダムなメモの文字起こし

録音テープ(あるいは動画)から音声を拾って文字に書き起こすことを「テープ起こし」という。今となっては誰もテープに録音していないのに、昔の名残でそう言う。インタビューした当事者なら臨場感も記憶もよみがえるので、少々聞きづらい録音箇所でも再現できる。しかし、その場に居合わせていない人がバイトでテープ起こしをすると、トンチンカンな話が出来上がりやすい。

さて、わがノートにメモを書いているのは、他の誰でもなく、自分自身である。メモには文としてまずまず完成しているものと、脈絡のないランダムな覚え書きとがある。大半は後者なので、まともな文章にするためには「(読みづらいメモの文字から)文字起こし」をすることになる。少し手がすいた今週、数年前のメモから文字起こしをしてみた。


📝 耳に残るのは好ましい話や音だけではない。いや、むしろ耳障りなことのほうが記憶として長く残る。耳障りは耳残り。

📝 嗅がされるのが匂い、嗅ぎたくなるのが香り。さて、においを「匂い」と書くか「臭い」と書くか。かおりを「香り」と書くか「かほり」と書くか。
「かほりは変でしょ?」 いや、そうでもない。小椋佳のあの名曲は「シクラメンのかほり」。

📝 午後七時四〇分の視線。♪ゆ、ゆ、夕焼け、今宵は赤い、と即興で口ずさむ。
夕焼けはいつも赤いとは限らない。都会の人工の光にけがされた紫っぽく
蒼ざめた夕暮れに出合うこともある。

📝 一方通行で使うのでないかぎり、階段は上がったら下りてこなければならない、あるいは下りたら上がってこなければならない。これを「階段の二重構造性」と勝手に呼んでいる。エッシャーの絵に現れる無限階段も、この「上がったら下りる、下りたら上がる」という構造を持つ。

📝 ノートの間から付箋紙がぽとり。BS放送を見ていた時のメモだ。インタビューに淡々と答えたイタリアの初老の職人のことばである。

「靴屋に仕立て屋にチーズ職人。別に難しいことをしているわけじゃないが、昔から引き継いでやっているのさ。」

これこそプロなんだなあと感じ入る。かつて職人と世襲は同義だったのだろう。

まだまだ続く二字熟語遊び

木材もくざい材木ざいもく
(例文)木材は、原木を切って材(材料)に用いるもの。つまり、木から材を作る。その材を長さや大きさの規格に合わせて製材したのが材木である。

厳密に言えば、木材店と材木店の扱うものは同じではない。かつて街中でもよく見かけたのは材木店で、すでに製材された板が立ててあったり加工された角材が積んであったりした。他方、木材店にあるのは、表皮を取り除いた、汎用性のある丸太や大きな一枚板。木材は、人の手による加工が入って材木になっていくのである。

人海じんかい海人あま
(例文)大勢の人が集まる様子を広い海にたとえる表現が人海。漁師や漁業などの海の仕事に従事する人は、多くても少なくても海人

人海を二字熟語として見ることはめったになく、たいてい人海戦術という四字熟語で使われる。「海女」を連想するので、「あま」というおんから女性を指すと思いがちだが、実は、海人、海女、海士、塰はすべて「あま」と読む。沖縄では海人は「うみんちゅ」と言い、職業は「あま」である。

文明ぶんめい明文めいぶん
(例文)ルールや法が高度になるにつれ、
文明社会ではそれらを文書として明文化するようになった。

稗田阿礼が完璧に暗誦しているからそれでいいとは誰も言わず、暗誦したものを太安万侶が筆録して『古事記』として編纂した。同じく、農耕や牧畜、都市と社会、技術と物資などにまつわる約束事は人々の記憶だけで共有できない。と言うわけで、文章として明確に書き留めたのである。もっとも書き留めたからと言って安心はできない。一般大衆はそんな難解なものを読まないからだ。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(55)「便利」

日常語ほど定義に苦労する。その語だけで十分明快なのに、説明を加えて逆にわかりづらくなる。「便利」などはその最たる例だ。この語を初めて辞書で引いてみた。「それを使う(そこにある)ことによって何かが都合よく(楽に)行なわれていること(様子)」と『新明解』には書いてある。あまり明解ではない。執筆者、ちょっと困っているのではないか。

便利とは何かと説明するよりも、便利を使った用例を示すほうがわかりやすい。たとえば、「今住んでいる所は買物に便利がいい」とか「知人にもらった8-in-1エイトインワンの多機能道具は想像していたほど便利ではない」とか。

『徒然草』は、長年書きためた随筆を吉田兼好が1300年の半ばにまとめた鎌倉時代の随筆集。この第一〇八段に「便利」という語が登場する。

一日のうちに、飲食おんじき便利べんり睡眠すゐめん言語ごんご行歩ぎやうぶ、やむ事をえずして多くの時を失ふ。そのあまりのいとまいくばくならぬうちに、無益むやくの事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟しゆゐして時を移すのみならず、日をせうし月をわたりて、一生を送る、最も愚かなり。

文中の便利は、現代の意味とは違う。古語辞典でチェックしたら、当時は仏教由来の「大小便のお通じ」の意味だった。

食べたり飲んだり、大小便をしたり、眠ったり、しゃべったり、歩いたりと、やめるわけにはいかないことに一日中時間を費やしている。残された時間が多くもないのに、役にも立たないことをやり、役にも立たないことを言い、役にも立たないことを考えて時が流れる。日を送り月を過ごして一生を送ってしまうとは、きわめて愚かなことだ。(拙訳)

食事、排泄、睡眠、会話、散歩が無駄だと言っているように聞こえるが、むしろ、それ以外のことをしていない日々の過ごし方への批評だと読むべきだろう。ともあれ、便利は大小便のことだった。役に立たないと片付けてしまうわけにはいかない。便利が滞ると「便秘」になってしまう。便利には「利便性」があるのだ。

文房具の過剰

どれだけの歳月が人生に残されているか知らないが、毎日必死に文字を書き綴っても使い切れないほどの筆記具が自宅と職場に溢れている。筆記具とその周辺の道具、つまり各種文房具を備えていると言うよりも、無駄に過剰に置かれているというさまである。

今の時代、PCかスマホ1台があれば、一応何がしかの文を作れる。機器がなくても、1本の筆記具と1枚の紙があれば手書きもできる。

かつては文をしたためるには筆、すずり、墨、紙の「文房四宝ぶんぼうしほう」が必需品だった。正確に言えば、水を入れておく水滴も必要。水滴から硯に水を注いで墨をすり、筆を手に取って墨汁を吸わせて紙に筆を運ぶ。時間を十分にかけて気息を整えて文字を書く。書道具に贅沢に凝ったのもうなずける。能筆の凝り性は水にもこだわり、わざわざ湧水を汲みに行った。

「万年筆を愛用している」などと言ってはみるが、休みの日にも職場に置いたままで、ペンケースに入れて自宅に持ち帰ることはほとんどない。たまに持ち帰るが、ペンケースから取り出して一筆することはめったにない。「この週末こそ万年筆で書くぞ」と自らを鼓舞しても、水性ボールペンで済ませてしまう。

これだけの筆記具を手元に置いて、いったいどうするつもりなのか……どう見ても過剰である。文案づくりやコラムを書くのは仕事の一つではあるけれども、手書き経由でなく、いきなりキーボードを叩いて文章を作っているではないか……。

ところで、文房具の文房とは元々「書斎」の意味だった。書斎でものを書くために揃えた道具が文房具である。いつの間にか、文房具は書くことから周辺に広がり、ホッチキスや定規や付箋紙やクリップなども仲間に加えるようになった。それでもなお、ペンとインク、シャープペンシルと芯(念のために消しゴム)、ノート・紙が書くことの基本だ。

以前に手書きメモしたことを以上のようにPCでブログを書いて編集した。出番のなかった筆記を横目に見ながら、しばらくは絶対に筆記具を買わないぞと決意している。

抜き書き録〈テーマ:つもり〉

📖 『悪の引用句辞典』(鹿島 茂)

……「できると思っていたこと」と「実際にできたこと」の巨大な落差に絶望的にならざるを得なかった……

人は安易に「できると目論み、できると広言する」。言うこととできることの埋まらない距離を何度も経験しながら、また同じことを繰り返す。面倒なことをするものだ。「わかっていることや語ること」と「おこなうこと」を同じにしてしまえばいいだけの話。有言実行や知合合一のほうがうんと楽なのに。

📖 『サピエンス全史 (下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

近代科学は「私たちは知らない」という意味の“ignoramus”というラテン語の戒めに基づいている。近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。

では、「私たちは知っている」と確信・・している場合はどうか。それは今知っているということであるから、将来、新しい事実が確信を覆すことがありうる。近代科学は基本的には異議申し立てによって成り立っており、知識の誤りを指摘し指摘されることを前提としている。今知っていることは、やがては「知っているつもりだった」と振り返ることになる。

📖 『知っているつもり  無知の科学』(スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック)

……私たちは自分の知識を過大評価する。つまり自分で思っているより無知なのだ。

「ファスナーはどのような仕組みで動くのか、できるだけ詳細に説明せよ」と言われて、説明しようとしているうちに、思っているほどわかっていなことを知る。日常的によく接しているものについてほとんど知らないのである。自転車もそんな一つ。本書の表紙の帯には次の図と文がある。


絵の巧拙は別として、正答率50%とは、みんな想像以上に「知っている」と感心。しかし、苦し紛れに適当な絵を描くと、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られることになる。「あまり自転車に乗らない」とか「自転車を持っていない」とか言い訳するのは見苦しい。実際に何度も見て記憶してきたはずのイメージは、チェーンやペダルということばに比べて曖昧だということがわかる。

暑中見舞いの儀と戯

年賀状じまいが珍しくなくなり、加えて郵便料金が値上がりする。年賀状の儀が廃れそうな今、暑中見舞いの儀が元気であるはずがない。しかし、過酷を極める夏の見舞いという大義名分を立て、かつ儀をほどほどにして「戯」を工夫すれば、目立たぬように生き長らえる可能性はある。

昨日が七夕で、二十四節気の小暑でもある。この日から約1ヵ月間、87日の立秋の頃までに暑中見舞いをするのが通例とされる。暑中見舞いはいただくが、出したことはない。「暑い、暑い」と芸もなく嘆くのではなく、暑さに呆れて笑うしかない振りをして、暑中見舞いで戯れてみようと思う。


🎐 暑中お見舞い申し上げます。夏が好きで好きでたまらない人もいますが、ここ十数年の猛暑に辟易しているのが大方でしょう。
さて、外が暑いからと言って一日中自宅に引きこもるわけにもいきません。幸いにしてわが家からちょっと歩けば、エアコンがよく効いた屋内型のアーケード通りがあり、これが数百メートルほどメトロの隣り駅まで続きます。この駅から弱冷房のメトロに乗れば、これまた灼熱とは無縁のショッピングモールに辿り着きます(しかも複数の施設が選べます)。自宅のエアコンを休ませるために、週末は時々モールに足を運んでいます。

🎐 いかんともしがたい厳しい炎暑の日々、お変わりなくお過ごしのことと……そんなわけないですね。さぞかし変わり果てているだろうと推察申し上げます。
休みは土日だけですが、仕事を辞めて久しいシニア仲間らは毎日が日曜日なので、夏場になるとほとんどの時間をショッピングモールで過ごすらしいです。昼を挟むことが多いので、食事処に行くとのこと。たいていの食事処のテーブルにはQRコードがあって、「アプリをダウンロードして新規登録またはLINEで友達になると、500円クーポンがもらえます」と謳っています。こうして、一度きりしか行かなかった店のアプリがスマホ画面上に溢れるようになります。

🎐 梅雨が明けたのかどうかは知らねども、猛暑の毎日、おバテにならぬようにと心よりお祈り申し上げます。
最近はショッピングモールを避暑地と見なして、わざわざ出掛けます。軽く食事をした後に、食事処以上によく冷房の効いたカフェに寄ります。若者で賑わうSバックスは避けるので、選択肢は多くなく、甘味処で妥協することもあります。
珈琲を飲みながら文庫本を読みます。先週は『カフカ断片集』を携えていました。帯文の「カフカは断片が一番ヤバい!」という一文に食いつき、結局ページを捲らずに「ヤバい」の意味を考えておしまい。ヤバい≒すごい;らしい;おもしろい;不条理;ドキッとする;はまる……