都会の住宅地の公園に日時計がある。棒のかげがだいたい10時30分あたりに落ちていた。腕時計を見ると、若干の誤差がある。若干? 2、3分くらいか。日時計の時の刻み方はおおまかだが、この程度の差なら、おおらかで許容範囲である。
散歩から帰って書いた十数年前の小文。日時計が時を告げている珍しい場面に遭遇して日常生活の「質感」に触れた気がして新鮮だった。デジタル時計のような杓子定規な几帳面さからは生まれてこない、天然の悪意のない大雑把にほっとした。
「だいたいやねぇ」は評論家の竹村健一の口癖だった。芸人がよくモノマネをしたのは茶化す意味もあったはず。だいたい、ざっくり、大雑把に見て……などの物言いはいい加減だとして時々厳しい目が時々向けられる。しかし、枝葉末節にとらわれず、主だった部分と意図さえ押さえておけば、日々の生活で大事に到ることはほとんどない。
上記のように、だいたいには類語の仲間がいろいろある。類語が多いのは頻度が高いのと同時に、ニュアンスがきめ細かく分化してきたからである。明言を避けて少しだけ不透明にできるから、だいたいの仲間を重宝する人たちも少なくない。
「頃」もそんな仲間だ。「頃あいを見計らう」と言えば、ある時ちょうどではなく、その前後を指している。ここでは「ころ」と読む。ところが、頃を「ごろ」と読むと、見頃とか食べ頃のように、ちょうどよい程度を表わす。なお、英語のアバウトはだいたいの仲間に加わって久しいが、つねに適当感と無責任感がつきまとうので要注意だ。