語句の断章(61)表と裏、裏と表

ほとんどの人に表と裏があり、二つ以上の顔があるものだ。二面性は心理と行動と言語に現れる。裏と表があるのは人間の防衛本能か……強ければ表一つで生きていけるが、弱いからこそ裏が必要……というような小難しい話は見送って、「表と裏」と「裏と表」は同じ意味なのか、もしそうでないのなら何が違うのかを考えてみたい。

これまで辞書で「うら」を調べたことはない。手元の新明解国語辞典で初めて引いた。「表(正面)と反対になる側(面)」とあり、「紙の裏」という例が挙がっている。では、「おもて」の意味は? まさか裏の反対ではないだろうと思いつつも嫌な予感もした。「対蹠的たいしょてきな二つの面のうち、その物を代表する面」という語釈を見て、少しほっとした。

表裏  「おもてうら」と読む。言動や態度は表に出て、それとはまったく相反する内心は裏に秘める。表裏と書いてあったら「ひょうり」とも読むが、「おもてうら」と同じ意味である。「表裏のない人」とは、他人がいようがいまいが、状況や立場がどうであろうとも、考えも行動も変わらない人である。

裏表  「うらおもて」と読む。表よりも裏を先に言うのだから、意味またはニュアンスが変わるはず。辞典には「表と裏が通常とは反対の状態」と書いてある。つまり、本当は裏なのに表のように扱うこと。裏返っているシャツを通常の表だと思って着たら裏表だった、というケース。「表裏のある・・人」よりも「表裏のない・・人」のほうがしっくりくる。他方、「裏表のない・・人」よりも「裏表のある・・人」のほうがしっくりくる。

ところで、造幣局で作っている硬貨には公式の表も裏もなく、作業時に年号の入っている面を便宜上「裏」と呼ぶらしい。必然、草木の図案が描かれている面が「表」になる。「硬貨には表と裏がある」と言っても怪しまないし、「へぇ」と驚くこともないが、人に表と裏を使うと途端に意味深になる。

「表と裏」と「裏と表」は同じ意味でも使われるが、「物の表面と裏面」の区別をするだけなら原則として前者でよく、表と裏は対等である。他方、「裏と表」は、単なる裏面と表面の区別にとどまらず、比喩的に人とその生き方に言及する。そして、この時の裏は主役に躍り出て、人の関心を引き寄せる。脇役の表は裏に随う。

休日の午後の心変わり

ミシェル・ビュトールに『心変わり』という作品がある。ローマ在住の愛人に会うために列車に乗り込んだ主人公。パリで同棲しようという話をするためだったが、長い時間を車中で過ごし、記憶をまさぐるうちに決意が変わる……。

人間誰しも心変わりはするものだが、ぼくの場合は人間関係とは無縁の軽い心変わり。どちらかと言えば、たわいもない気まぐれに近い。

職住近接してからちょうど20年になる。自宅からオフィスまで1.2キロメートル、徒歩で123分。主な経路は3つ。家を出たらオフィスに向かうし、オフィスを出たら家に帰る。たまに往路ではドラッグストア、復路ではパン屋に寄る。それ以外に寄り道することはほとんどなく、心変わりも起きない。起こるとすれば、休日の午後の小さな心変わりだけだ。直近では先日の日曜日がそんな日だった

正午前に自宅を出て大阪梅田まで歩くことにした。途中商店街でランチを挟んだので2時間弱かかったが、どこにも寄らなければ45分で行ける。人混みは苦手だが、梅田に行くと決心した時点で覚悟はできている。学生時代から見慣れたホテルや阪急三番街とその周辺。まもなく再開発に入る。計画から完成まで10年かかると聞いた。

人をかき分けながら歩くので思い通りに進まない。シティバスに乗って帰ることにした。JR大阪駅前発の路線62の住吉車庫行きに乗り、難波宮跡公園近くで下りる。所要24分。よく利用する。いったんそこに並んだが、すぐ隣の路線88が目に入った。天保山行きである。並んでいた路線62の列から離れ、まったく違う方向に行くバスに乗り込む。「テンポウザン」という懐かしの響きが気まぐれを起こした。

JR大阪駅前から天保山まで途中の停留所は31もあり、46分かかった。観光名所の海遊館に入るわけでもなく、観覧車に乗るわけでもなく、周辺を歩くでもなく……。マーケットプレイスでコーヒーを注文し、コーヒーだけでは物足りないのでドーナツを合わせる。デッキに出てみた。

大阪港に来たのは久しぶりだ。反対側を向くと、まだ午後4時なのに、逆光が夕暮れを演出していた。

帰りは最寄のメトロ駅から自宅最寄駅まで乗り換えなし。大阪市は狭くて高密度、そして便利だ。自宅を出てからわずか4時間半の周遊なのに、ちょっとした心変わりのお陰でどこか遠くへ行ってきたような気分に浸れたのである。

違和感を覚える……

❓‽ 16日が仕事始め。すでに5日が過ぎようとしている。大晦日から数えると10日経つ。日が経つのが早い。早過ぎる。二十歳の時の1年は人生の20分の1だが、たとえば還暦の時の1年は60分の1になる。歳を取るにつれて1年の比率が小さくなる。年末年始や夏期の休暇中ほど〈ジャネの法則〉は際立つ。たまに日の経つのをスローモーションのようにゆっくり感じることがあるが、遅過ぎて強い違和感を覚える。

❓ いつも使っているスプレー式のヘアートニック。ドラッグストアで手に取ると何だかいつものサイズより小さく感じた。商品名もラベルも同じ。他に荷物があったので、小さく感じたのは錯覚のせいだと思った。自宅にあるのを確かめてみたら内容量は280グラムだった。買ったのは180グラム。そうか、やっぱり一回り小さかったか。しかし、がっかりするどころか、ドラッグストアで覚えた違和感の正しさを誇らしく思った。

❓ その店は「インド・ネパール料理」ではなく、「ネパール・インド料理」であり、そのことにこだわりがあるようだ。普段はあまり混まない土日に利用するが、初めて平日に行ってみた。午前11時半なのにほぼ満員状態だ。幸いテーブルが一つ空いていた。早めにランチに出た自分のことを棚に上げて、すでにネパール・インド料理をがっついている客に強い違和感を覚えたのである。

❓‽ ここ34年は髪を割と短くして軽く刈り上げていたが、昨年1124日にカットしてから伸ばしていた。髪質はくせ毛で、耳に少しかぶさる長さになるとウェーブが出てくる。グレーヘアーにはそのほうがいいと約2名に言われて、久しぶりに伸ばしてみようと思ったのである。昨日、1ヵ月半ぶりに理髪店に行った。「髪を少し伸ばそうと思っている。今日は毛先だけをそろえて、厚みのあるサイドとバックはいてほしい」と告げた。すっきりと仕上げてくれたが、イメージとの差があって、違和感は今日もまだ続いている。

年末年始の「マイ風物詩」

冬の風物詩を思い起こそうとしたら、枚挙にいとまがなくて困り果てる。冬の二十四節気は立冬に始まり、小雪、大雪、冬至、小寒を経て大寒に至る。この時期特有の現象や歳時や文化や味覚は尽きない。しかし、冬を年末年始に限定すれば絞りやすい。慣習的に1229日から13日の時期が年末年始とされるので、それに従えばお歳暮、クリスマス、七草粥、成人式は年末年始の風物詩から外れる。

6日間に絞ってもまだ候補はいくらでもある。そこで、世間一般の風物詩の中から自分が見たり経験したりしてきた、いわゆる「マイ風物詩」に絞ることにした。そうすると、縁のない雪、雪合戦、かまくら、つららが消え、あまり興味のない箱根駅伝が消え、故郷がないので帰省が消え、買ったのが一度だけの福袋が消えた。子ども時代には風物詩だったが今はそ、火鉢、みかんが落選。逆に、子ども時代にはなかったイルミネーションや貼るカイロや忘年会は候補から漏れた。

以上のようにフィルターをかけた結果、年末年始の「マイ風物詩ベスト10」はおおむね月並なリストになった。無理もない。風物詩は一人の人生の始まりから終わりまで続いて記憶に残って思い起こされるものだから、極端にリベラルなものは除外されるのである。


餅つき  餅つきとの付き合いは長い。昔は、もち米を持参して餅をついてもらう「賃餅ちんもち」(関西では「ちんつき屋」)だった。やがて親たちは杵と臼を米屋で借り、もち米を持ち寄って町内でついていた。その習慣がなくなってからは父が電動餅つき機を購入して餅づくりに励んでいた。わが家にも最新鋭のが一台ある。

年賀状  小学生の頃から続けてきた年賀状。創業してからも36年間続けてきたが、昨年を最後にピリオドを打った。メールやSNSのやりとりができるようになった今、年賀状の存在が薄まったのもやむをえない。これを機に、普段の手紙と葉書の出番を増やしたいと思う。

干し柿  柿は秋の風物詩かもしれないが、季節が冬になれば干し柿である。旬の時はそのまま食べるが、寒くなると干し柿をいただく。干し柿は甘いが、これを冬の風物詩として選んだのは、我ながら渋い・・と自負している。

大掃除  毎年百円ショップで新しい掃除具やシートの類を買ってくる。大掃除を真剣勝負と考えている。特に窓と網戸とベランダは入念にキレイにする。大掃除や整理整頓をするたびに、自分の気分もついでにリセットしているのだと感じる。

大晦日  正月よりも大晦日のほうがワクワクする。除夜の鐘、午前零時までのカウントダウン、おせちのフライングつまみ……。時の流れの中で、この日ほど節目を強く感じる日は他にない。昨年の大晦日は初めてジルベスターコンサートに出掛けた。ワクワクした。

正月/初詣  いろいろな風物詩が正月に集中する。おみくじは数年前に引くのをやめた。今では、元旦のいの一番は雑煮ではなく、初詣である。散歩にちょうどよい距離に真言宗の寺院がある。護摩祈祷ごまきとうの儀に一礼をして、長居はしない。「こちらお接待です」と、日本酒1本を持ち帰らせてくれる。それが初春のお神酒になる。

雑煮/おせち  初詣から帰宅すると、寺院の御神酒おみきをいただき雑煮とおせちを食べる。餅はマシーンによる自家製。おせちは自前のものもあるが、プロ仕様のおせちを知り合いが差し入れてくれる。なお、祝箸は小さなアイテムだが、冬の風物詩には欠かせない。

お年玉  もらうのが楽しみだったお年玉が、子どもや孫らにあげる楽しみに変わってくる。核家族化が著しいので、親族らと直接会う機会が激減した。会って渡せないので、何度か書留でお年玉を送ったことがある。早晩、お年玉は振込になるかもしれない。

書き初め  別名「初硯はつすずり」。文字通り硯を取り出して、数十年間断続的に書いている。今年の12日は出掛けていたので失念した。例年は年末に文字を考えるのだが、それも失念していた。遅くなっても書けばいいが、まだいい文案が浮かばない。

鍋料理  おせちが終わると、ラーメンやカレーやハンバーガーを食べたくなる若者たち。ぼくはと言えば、鍋料理を好む。親と暮らしていた頃の正月の三日目あたりに母が鶏の水炊きを作っていた。そのせいか、牡蠣や鮟鱇の鍋、鰤しゃぶなどの冬の食材を使った鍋料理は今も定番になっている。


総じて言えば、冬の風物詩の主役は正月がらみになる。但し、正月がらみなのに、羽子板、凧揚たこあげ、コマ回し、門松、しめ縄、鏡餅の存在はかなり薄くなってしまった。マイ風物詩を編んでいるうちに、年末年始の自分史が綴られていくのに気づく。

ブログ ‟Okano Note”、カウントダウン

年末恒例の年賀状を書かなかった。そして、どなたにも伝えないまま年賀状じまいをした。これまた恒例にしていた12日の初硯を失念し、書き初めをしていない。新年明けてからの街歩きには熱心だったが、ノートには一度も文章を綴っていない。今日がノートの書き始めであり、ブログ始めである。

書くことを意識し始めたのは十代の終わり頃。最初は日記から始めたが、日記は私小説っぽくなるばかりで、自己満足に陥るような気がした。読むだけでは理解と知識の限界があるし、日記ではその限界を破れない。そう感じた20歳過ぎ、短い雑文でもいいから〈テーマ〉を決めて書くことにした。

無職時代の28歳の時、時間に余裕があったので、読んだ本からマメに抜き書きをするようになった。抜き書きからのインスピレーションを綴り、同時に、体験や観察を通じて思うところをしたためた。大学ノートから革製の手帳に替えて、書く頻度を上げたのが30代半ば。広告や研修テキストやコラムなど仕事でもおびただしい文章を書いていたが、仕事を意識しない文章もおびただしく書いた。ノートと革の手帳を何度か行ったり来たりしたが、黒の革の手帳に落ち着き、Okano Noteオカノノートと名付けて現在に至る。

手帳版”Okano Note”にラフに書いたものから、テーマや話題を選んで書き直した文章をブログ版”Okano Note”で公開することにした。公開したブログ第1号は200865日だった。わが国でブログが広がり始めた45年後のこと。あの時から16年半経った2024年末現在、公開したブログ記事は1,953件に達した。月平均にして10回弱というペースである。

ここ数年間のリズムは月に78回。この調子で行けば今年の6月に2,000回に到達できそうだ。数字にこだわってはいないが、研修・講演は6年前2,000回を超えた。所要した歳月は35年。その数字を、ペンが重い時やキーボードを叩けない時の励みにしている。研修・講演の第一線からは身を引いた。ブログは私的な習慣なので、頭がもたついたり書くのが億劫になったりしないかぎり、2,000回を通過してからも続けていきたいと思っている。

言い換えという表現方法

🔄 わかりにくい数字

「中辛はどのくらい辛いですか?」
「普通の3倍です」
「ちなみに激辛だと?」
「中辛の5倍です」

🔄 ランチはニンニクラーメン

午後の面会お断り

🔄 インテリアグリーン

部屋の中の鉢の中の引きこもり

🔄 Eve(イブ)

翌日ほど重要でない日;(または)その日の夜

🔄 90分飲み放題

制限ある無制限;(または)ストップのかかるノンストップ

🔄 すべてのことばの辞典

あいまい語と多義語の集大成

🔄 付箋紙

ほん・・の気休めのシルシ

🔄 本棚の世界文学全集

上製の函に収めた並製の見栄

師走のプチ歳時記

ビール

芋焼酎のマイブームは昨年末から下火気味で、900mlの瓶は封を切らずに数本買ったまま。ワインは、1本飲んでは1本買うというありさまなので減ることはなく、相変わらず常時40本くらいある。セラーに入り切らないので一部は室温15℃の部屋に放置。冬だからこれで問題はない。そうそうオフィスにも10本保管している。

缶ビールは冷蔵庫に23本しか入っていない。あまり買い置きせず、飲みたい時にそのつど買う。暑い夏場よりも寒くなってからのビールがうまい。乾燥した部屋の中での最初の一杯で渇いた喉が潤う。缶ビールはそのまま飲まずにグラスに注いで飲む。しかし、缶ビールより瓶ビールのほうがいい。外食時もほぼ瓶ビール。生ビールはたまにしか飲まない。

そもそもビール党ではないので、痛飲することはない。週に12度中瓶を飲む程度だ。日本のビールは店で飲み、自宅ではたいていベルギー、ドイツ、チェコのビール。日本のビールとの違いはおおむね色が濃く、色のバリエーションが豊富だということ。
写真のドイツビールは飲んで初めて分かったが、アルコール12%というツワモノだった。グイグイ
飲めないし、グラスでちびちび飲んでもほろ酔いの回りが早い。ほぼワインと言ってもいいほどのアタック感があった。

忘年会

昨日は3人だけのプチ忘年会。焼きとん酒場で午後5時スタート。飲み放題には関心がなく、3人で瓶ビール2本とハイボール1杯ずつ。串は156本、小皿のつまみが3皿、あとは枝豆と塩だれキャベツという質素なラインアップ。こんな飲み食いでも、雑談しながら2時間も経てばそれなりに満腹感を覚えるもの。
次の店はスナック。カウンターのみ9席の店だが、スペース感があって落ち着く。クリスマスイブ前の月曜日、客はわれわれ3人だけ。しばらくして、さすがに小腹が減ってきたので、1人がたこ焼きを買いに出た。1人にワンパック8個。昔はよくスナックでお好み焼きやたこ焼きを出前してもらったものだ。焼酎のお湯割りや水割りは各自2杯、歌は各56曲。ちょうどいいほろ酔い加減で午後9時半におひらき。2軒合わせてお勘定は5,000円ぽっきり。予算も時間の長さもシニアにやさしい企画だと自画自賛。

街歩き

冬になると、夏の1.52倍歩くようになる。歩き始める時は少し寒くても、1万歩も歩けばかなり温まる。距離と時間が長くなると、眺める対象も増えてくる。普段見えなかったものが視界に入りやすくなる。

御堂筋の歩道は、北上する時も南下する時もたいてい東側を歩く。よく動ける冬場は西側も歩く。すると、北御堂の歩道寄りの掲示板も目に入る。
このお寺のマスコットが「キタミゾウ」という象だと知る。「見たいゾウ、聞きたいゾウ、言いたいゾウ」と言ってる。まだ未熟ということなのか……「おさるさんってスゴイ!」のは、ゾウさんにできない「見ざる、聞かざる、言わざる」ができるからか……それは成熟のシルシなのか……ハイ、ここでストップ! 小難しく考えるのは厳禁。「おもしろいなあ」で止めておくのが街歩きのコツ。

慌ただしい年の瀬の二字熟語遊び

師走も早や終盤に入った。年賀状じまいという一大決心をして重荷を下ろしたが、雑用が増えて気分は慌ただしい。ブログを書き下ろす時間もあまりない。さぼらないように(また、なまらないように)、夏場に書きためていた二字熟語遊びを年の瀬に捌いておきたい。


里山さとやま山里やまざと

(例文)『桃太郎』のおじいさんが柴刈り・・・に行った山は、山里ではなく、暮らしていた集落に接する近くの里山だった。

おじいさんは自然が残っている中山間地域の山に分け入って、焚き木用の小枝を取っていたのではない。そんな山里には行っていない。おじいさんが柴刈りをしていたのは、家から遠くない里山である。里山の山は低く、山里の山はそれよりも高い。山里にもわずかに人は住んでいたが、過疎地だった。「住む人もなきやまざと・・・・の秋のは月の光も寂しかりけり」という和歌が残っている。限界集落は今と変わらない。

白黒しろくろ黒白くろしろ

(例文)「白黒黒白も同じだよ」とえらく自信ありげに言う人がいたが、厳密にはそうではない。目は白黒させるが、黒白させることはない。

ややこしいが、是非や真偽については、「白黒をつける」でも「黒白をつける」でもいい。ところが、これまたややこしいことに、黒白をつけるという用例では黒白は「こくびゃく」と言うのが正しいらしい。読み方はともかく、白黒と黒白は互換性があるようだ。と言いかけて、白黒写真とは言うが、黒白写真とは言わないことに気づく。意味の重なりは一部あるものの、どうやら白黒と黒白は別物のようである。

花火はなび火花ひばな

(例文)それが線香であれ打ち上げであれ、花火がある所に火花が発する、飛ぶ、散る。他方、火花の元は花火だけではない。火花は目からも論争からも散る。

線香花火は手で持って愛で、打ち上げ花火は見上げて楽しむ。火がなくては花火は咲かないが、火がなくても散るのが火花だ。又吉直樹の芥川賞受賞作は、最初『花火』だと思っていたが、しばらくして話題になってから『火花』だと知った。書店でページを捲った程度で、作品は読んでいないからしかたがない。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

ことばに立ち止まる

📝 知らなかったことば

知らなかったなあ、ソムリエがワインサービスの時に使う、左腕に掛けているあの布のナプキンの名称。知ったのはつい先週だ。「リト-」とか「トーション」と呼ぶらしい。世の中には知らないことが山ほどある。だから知らなくてもがっくりすることはないが、ナプキンと呼ぶよりはいい感じがする。覚えておこう。

📝 碑に刻まれたことば

たぶん78年前のこの時期だったと思う。冷たい風が吹く寒い日だったこと、公園脇の碑に菊池寛の座右の銘が刻まれていたことを覚えている。残念ながら、その座右の銘をすっかり忘れていた。そのことばを思い出したが、記憶を辿ったわけではない。別のことを調べていて偶然見つけたのだ。

不實心不成事 不虚心不知事

漢字を見て思い出し、「実心じっしんならざれば事成ことなさず、虚心きょしんならざれば事知ことしらず」という読み下し文で記憶がはっきりよみがえり、「現実的でなければ事を成就できず、こだわりを捨てなければ真実が見えない」という意味にえらく感心してノートに書いたことも思い出した。

📝 朝三暮四 と 朝四暮三

なじみがあるのは「朝三暮四ちょうさんぼし」で、手元の辞書では見出し語として出ている。ところが、「朝四暮三ちょうしぼさん」は見出し語になっていない。知った時は、へぇ、そんな四字熟語もあるのかと少し驚いた。どちらも「目先の利益にこだわって、同じ結果だということに気づかない」という意味である。
飼っているサルに朝に三つのドングリ、夕方に四つのドングリをやろうとしたら、サルは怒って「朝に四つ、夕方に三つにしてくれ」と注文をつけた。一日で見れば同じ七つだが、サルには朝に四つのほうが得と思えた……という中国の故事。朝四つで夕方三つなら、あまり使わない朝四暮三のほうが本筋ではないか。しかし、朝四暮三と言ったりすると、「間違ってますよ」と注意されそうだ。

📝 読めなかった漢字、「烤」

この字が店名に含まれている四川の中国料理店がある。「火へん」だから何となく想像できたが、辞書には載っていない。日本では使わない漢字のようだ。読めなくてもしかたがないが、どこかで見た記憶がある。とりあえず「火へんに考」で検索したら見つかった。「烤鴨」が出ている。ペキンダックのことで、烤は「カオ」と発音する。「烤魚カオユイー」のほうは頻出語だ。魚の皮を焼いてからコトコトと麻辣味で煮る料理。直火で加熱する時は「烤」の字を使うらしい。
さて、ぼくの知るあの店は四文字。烤はわかったが、残りの三文字の発音ができない。店名が発音できたら一度行ってみようと思う。

語句の断章(60)勿体

「もったいぶる」という表現を使ったことはあるが、漢字で「勿体」と書いたことはない。本を読んでいて、もったいない、もったいぶるなど普通の表現として何度も出合っている。特に珍しいわけでもないのに、この漢字をずっと見ているうちに異化作用を催してきた。勿体? それはいったい何?

これまでどんなつもりで、もったいぶると言ったり書いたりしてきたのか。そもそも勿体とは何を意味しているのか。ある辞書には「物のあるべき姿や本質」と書いてある。どうやら、その意味がやがて「重々しい、立派、大きい、ものものしい、尊大とか威厳」に転じたようである。しかし……

ここまで書くのにいろいろ考えもし、調べもしておおよその意味とニュアンスは摑めたが、まだ「勿体」に慣れない。見れば見るほど、書けば書くほど、漢字変換すればするほど、奇異に見えてくる。もう一度問う、勿体とはいったい何?

奇異をぬぐおうと語源を調べることにした。次のようなことが書いてあった。

元は仏教用語で、勿体は「物体もったい」と書かれていた。物は「牛へん」で、それは不浄な獣だから、へんを取って「勿」とした。勿体となって、物事の本質となり、ありがたみを意味するようになった。

おもしろいいわれだが、物から牛が消えて勿になったと言われてもすっきりしない。それで物事の本質となったら、なぜありがたくなるのかがわからない。

しばらくして、すっきりしない理由がわかった。「あの人は勿体だ」とか「事態は勿体になった」とは言わないのだ。つまり、勿体は単独で使わない用語なのである。

さほどでもないのに、ちょっと見に内容があるように感じさせるのは「もったいぶる・・」。まだまだ使えるのに無駄に粗末に扱うことやまったく使っていないのを惜しめば「もったいない・・」。気取ったりすまし顔したり、体裁を飾ってものものしく振舞って威厳を示すなら「もったいをつける・・・・」。

威厳などという立派な意味があるのに、勿体はその意味で使われることがほとんどない。それがない時に、それをぶる時やつける時になってようやく意味をあぶり出す。勿体とはそんな、もったいぶった用語なのである。